朝井リョウさんの『正欲』を読んだ。
マイノリティーとマジョリティー、多様性という言葉がとらえきれない世界、マジョリティーの存在的暴力、重力に負けた人の巨大な諦め、正でもなく性でもない生。爆弾のような小説だった。この社会の正しさの裏で密かに錬成されつづけているマイノリティーと呼ばれもしないマイノリティーの激情。僕達の想像の埒外の人々を文学によって投射することにより、同時に僕達の内面の醜さをも浮き彫りにする。衝撃的の一言であった。「読んだあとにはもう以前の自分には戻れない」という本の帯そのものな内容だった。
この社会、人間、男、女、そして、水。我々の社会がどのような螺旋を形成し、どのように連関しているのかを考えざるを得なくなる作品であった。
僕のように社会への懐疑論を書いている人にはドストライクの小説であったけれど、むしろこの社会に安住して日々を暮らしている人にこそ読んでもらいたい作品であった。この社会の当たり前がいかに暴力的なものたりえるかみたいなものは多くの人が獏として感じるものであるけれど、誰しもが抱える「得も言えぬ違和感」にたいし、輪郭を与え、肉づけることに見事に成功している。これは社会学などの分野では難しいのではないかと思う。文学だからこそではないだろうか。個人の内面を徹底的に描写する文学だからこそ、逆説的に今の社会の在り方を克明かつ残酷なまでに浮かび上がらせることができたのでしょう。読んでいない方にはものすごくおすすめです。
※以下ネタバレありです
個人的に好きだったシーンは大也と八重子の舌戦だった。八重子は大也に好意を寄せていて、ことあるごとに近づこうとするのだけど、異性にたいする恋愛感情がない大也はそれをうっとおしく思っていた。そのような関係の中で、お互いが所属するゼミの合宿を大也がドタキャンしようとするところに八重子が居合わせてしまう。八重子は大也を理解しようと努め、合宿に行こうと説得しようとするが、噛み合わない。そこから舌戦が始まる。八重子は大也のことをゲイだと勘違いしているが、それ以上のマイノリティーである大也は怒りを露わにし、八重子にたいして「勝手に人を理解したつもりになってんじゃねーよ」と言う。これまで蓄積されていたマイノリティーとしての苦しみがまさに八重子に向かって爆発していた。これだけでも衝撃的なシーンであった。しかし僕が個人的に感動したのがマジョリティーである八重子がそれでも大也を理解しようとすることだった。マイノリティーの人が苦しいと言えば、それは全面的に理解されるべきみたいな風潮がある昨今であるけれど、八重子はマジョリティーの立場で、「言ってくれなきゃわからないよ」という反論を展開する。大也から拒絶されようとも、「私のこともつながりのひとつとして数えておいてね」と言う。おそらく、筆者である朝井さんは多様性のもとにマイノリティーを放任する風潮をも揶揄していたのではないかなと思っている。マジョリティーとしての対話の重要性を示唆していた八重子の反論は個人的にすごく印象深かった。
作品は主に、水にたいして性的な欲求を抱く人々とそれを取り巻く「私達」によって展開されていく。
「人間は、いつもセックスの話をしている」。しかしそうではない人々がいる。セックスの埒の外にいる人間はこの世界の住人ではない。そうした疎外感のもとに、水フェチである大也、夏月、佳道の三人はそれぞれに孤立した生活を送っていた。正常な社会は、正常という圧力を以てして「そうではない人々」に烙印を与えることになる。水フェチという性癖は、LGBTQといった多様性によって包摂されるものではない。多様性という言葉が多様な個人を包摂しているかのように偽装された社会にたいして三人は違和感を持っている。そうした描写は三者三様な人生の文脈において、まさに呪詛として散りばめられており、それが社会にたいする痛烈なまでの皮肉になっているのだ。その言葉のひとつひとつが爆弾として炸裂している。
「自分が想像できる"多様性"だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな」
「3分の2を続けて選ぶ確率が9分の4であるように多数派にずっとたち続けることは立派な少数派である」
「恋愛感情によって結ばれた男女二人組を最小単位としてこの世界が構築されていることへの巨大な不安が、そっと足のつま先に触れるのだ」
こうした社会からの疎外感情のもとでそれぞれに生活していた三人であったが、ある日を境に、夏月と佳道が巡り合うことになり、同じ性癖を持つ同士で「生き延びるために手を組みませんか」という合意のもとに生活を共にするようになる。夏月と義道による生活は一見すると不安定な繋がりだった。お互いがお互いを求めているわけでもない契約としての同居生活。恋愛感情のない男女による同居は「私達」の側から見ると不合理な生活にも見えてしまう。しかしその不合理な繋がりだからこその絆が社会への皮肉として最後の最後に炸裂するのだ。
作中後半で夏月と佳道は水フェチの人々で繋がりあおうと思い、SNSでオフ会を開催することになる。公園で水遊びをするという。そこに大也なども参加するのだが、そのオフ会の最中に裸の児童と一緒に水遊びしていた写真が警察に見つかり、児童ポルノ所持で捕まることになる。誤認逮捕である。その場にいなかった夏月は、逮捕された佳道の同居人(妻)として警察へ事情聴取に訪れるのであるが、夏月は聴取の場で超然とした態度を見せる。児童ポルノ所持で夫が捕まったというのに妻は落胆するわけでもなく悲しむわけでも怒るわけでもない。「ただそこにいるだけ」であった。それもそうである。夫の佳道は「水が好き」なのである。それにたいして、聴取にあたっていた啓希(正常側の主要人物)は驚きを隠せないでいる。普通、児童ポルノ容疑で夫が捕まったのであれば、「そういう反応」を見せるはずだが夏月はただそこにいるだけだった。そして夏月は夫である佳道にたいする伝言として「いなくならないから」と言い残して作品は終わる。
この最後のシーンは、私たちの普通の繋がりがいかに脆いかを象徴したシーンだった。夏月と佳道の「生き延びるための同居生活」は一見すると不安定なものだけれど、通常の恋愛ではないからこそ、その繋がりは普通には切れないものになっていた。夫が児童ポルノでつかまってもそのつながりは揺るがない。そのつながりが逆説的に、普通の恋愛がいかに脆く頼りないものであるかを浮き彫りにし、私達への痛烈な皮肉になっているのだ。
児童ポルノ所持で逮捕されたぐらいで離婚するのが私達である。普通の感覚としてそれは当然だと思うけれど、そのような当然の感覚が、当然だからこそ当然以外を排除する方向に、時に行きかねない。
「当然以外」のことを僕達は理解できないし、あるいは想像することさえできない。児童ポルノで捕まった夫婦が離婚しないことも、水にたいして性的な興奮を覚える人がいることも僕達は理解できない。すべてが想像の外にある。それでも僕達は多様性などとのたまい、秩序を整えた気になって気持ちよくなっている。それが時に、いかに暴力的かも知らずに、である。自分が想像しうる範囲などたかが知れている。世界には思いもよらない考え方や性癖、文化を持って生きている人々がいる。それにたいし「こちら側のものさし」ではかることそのものが暴力であり、多様性という言葉もその例に洩れない。この社会の裏に眠り続けている不発弾は厳として存在するのであろう。それは社会によって漂白化され、多様性というお墨付きによって疑似的に包摂されている。その爆弾がいつ爆発するのかは知る由もないけれど、すくなくともこの社会を理解可能なものとして勝手に再配置することはやめたほうがいいであろう。そのようなことをした場合、「想像の外にいる人々」を見ることさえできなくなってしまうのだから。Lはここ、ヘテロはここ、Bはここ、弱者男性はここ、女性はここといった具合にカテゴライズすることは時に非情な暴力となってしまう。社会はカオスであればこそ社会であり続けられる。そこには本来、言語化しうるものなど、ないのかもしれない。