メロンダウト

メロンについて考えるよ

さもありなんという感じ

真偽不明でもセクシストだということが暴露されるとここまで変わるのか・・・

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はてな民の風見鶏コメントはもうどうでもいいけど、元エントリーは人格云々を置いておいてもダメだと思った。

前回記事で最後のほうにダダダっと書いた部分をもうすこし書きたいなと思い、繰り返し兼補足のようなエントリーです。

 

現実のふるまいとして件のnoteは正しいことしか言ってないんだけど、正しいことしか言わない時点でまず警戒したほうがいいと思っていた。

思考の余白がない文章を書ける人は自省感情に乏しい傾向があって危ない。だから理性的な人が一番やばいと前回の記事では書いた。

以前書いたように自分のブログのブコメは読んでないので何書かれてるかわからないけど。

理性というよりも正しいことを言っている人は危ない。

「正しさなんて最初からない、あるのは都合だ」と化物語忍野メメも言っていたけど今回の騒動はその通りになってる。正しいことを言うことが当人にとって都合がいいってだけのことがほとんどだったりする。チンポ騎士団はその典型だけども。

特に件のnoteのように逆説を多用し、歩み寄っているかのように見せる感情的な技法を使う文章は特に注意したほうがいい。友敵理論全開の論の立て方で完全に政治的な何かだった。そういう演説にたいしては一歩引いて見るのが普通だろう。

 

理性的な人は危ないのよ。自分が理性的だと信じている場合は特に。あのnoteもホモソーシャルな周りと比べて自分は理性的で正しい側だというのがありありと書かれている点でかなり危ないなあと思っていた。

恋愛でもそうだけど、普通は自分の感情や欲求、もしくは主張に後ろめたさがある。男性における性欲がその筆頭だけど、女性が迷惑だと思う以上に男性のほうが自らの性欲の愚かしさを知っている。普通は。

性欲を向けられる側だけが性欲の愚かさを知っているわけではない。それを抱える側も自らの愚劣さを知っている。普通はそうである。

なので、男性は時に自らの性欲の愚かしさゆえに女性にたいして二の足を踏んでしまうことがあり、不自然な振る舞いをしてしまうことがあったりする。不自然さが露呈して女性に引かれたりコミュニケーションが取れなかったりと。若くて性欲が強い場合なんかは特に。自分もそうだった。

けれど、稀にその後ろめたさを省みることなく、自らの性欲を強烈な自己肯定感でまるごと肯定してしまう男性がいる。それが女性にとってみたら自然にコミュニケーションを取れる異性扱いされてモテる。しかしそれはその男性が自らの性欲の愚かさについて無自覚であるか、もしくは理性によって性欲を肯定してしまっているかのどちらかだったりする。

どちらにせよ普通はあるはずの後ろめたさというブレーキが機能していない。

その点において

自らの性欲について自覚的で不自然な振る舞いをする男性よりも

理性によって性欲を肯定している自然(に見える)な男性のほうが危険だったりする。

つまるところ男性にとっての性欲は重荷であり、原理的に不自然な振る舞いをしてしまう枷となっている。それが男性の劣等性でもあるのだけど、その劣等性が無い(ように見える)男性のことを「自然で理性的」と呼ぶことこそが不自然な話なのだ。自然で理性的というのは男性にとって原理的に矛盾している。自然に犯罪「的」なのが男性だったりする。

こんな歪んだ欲求を持っていることを前提に考えれば、「自然で理性的な恋愛」というやつが幻想に過ぎないことは容易にわかりそうなものである。しかし今はこの男性性を排除し、理性的で自然な関係を築き上げようとしている。自らの劣等性に自覚的な男性から見るとそれは異常な事態に見えてしまう。男性性が無いものとされることがいかに不自然であるか男性は知っている。

女性にしか主体を認めない恋愛市場にすれば男性の性欲が無いものとされてしまう。それは逆に言えば理性的な振る舞いを「してしまえる」男性だけを女性が選ぶということになり、女性にとってもむしろ危険なものとなる。性欲はそれ自体が加害性を持つが、自省心をも引き連れてくる代物である。そういう普通の感覚が機能しなくなる。痴漢や性犯罪者などを除き、普通の男性は自らの性欲にうしろめたさを持ち、自省している。

その自省心を排除し、うしろめたさを取り払い、普通のコミュニケーションを取れる異性同士で構成される理性至上主義の恋愛市場をつくってみたところで、その市場の実情がむしろ理性的とはいいがたいものとなるのは自明であろう。

女性にとってみたら加害性そのものが必要ないと言うことは当然であるけれど、加害性を取り除いた瞬間に男性の自省心をも一挙に排除してしまう。そうなった時にどうなるかは前回記事で書いた通りである。

当然ながら男性の性欲(加害性)が絡んだ恋愛は正しさだけでは語れない部分がある。男性の性欲が加害性を含む限りにおいて、理性的な交渉の末のみに恋愛が成立するというのはピュアすぎる勘違いであり、それこそ幻想に過ぎない。

近年ではセクハラ問題などで女性の気持ちを男性は理解しましょうと言う言論が支配的であるが、それだけでは片手落ちの議論でしかない。

女性も男性を理解するべきである。が、あまり語られることはない。女性の側も男性の性欲やそれに付随する加害性及び自省心、それに伴う不自然さや劣等性を理解することでバランシングできる。そうやって釣り合うことで今の恋愛市場の不均衡を解消するのがむしろ自然であろう。

いつも書いているが、リベラル(的言論)は人間の実存や業そのものを置き去りにした正しさを振り回すことがある。正しいことは正しいと知っておくことはものすごく大事なことであるけれど、人間の実存をないがしろにしたその正しさは僕達を幸福にするのかは慎重に考える必要があるだろう。

それは恋愛においても変わることはないはずだ。