メロンダウト

メロンについて考えるよ

政治的なことは個人的なことではない

暴力的な男性のほうがモテるって記事が話題だけどベタベタな現実認識からすれば言われるまでもなくそうだよなあって思いました。

[B! 差別] 「男性の人格においてモテ・非モテを分けるのは暴力性である」に対する補遺|rei|note

 

それと同時にはてブにあがってたのが梅沢冨美男氏の記事だけど

[B! セクハラ] セクハラについて無理解な梅沢富美男を論破したカズレーザーの一言に「めっちゃスッキリした」と称賛の声 - Togetter

梅沢氏は「女性にかわいいって言ったらセクハラ、ブスって言ったらパワハラ、どうすればいいんだ」と言ったのに対しカズレーザーさんが「何も言う必要はない」って切り返してた。言うまでもなくカズレーザーさんのほうが絶賛されてたけど

 

暴力的な男性のほうがモテるっていう話とつなげれば「何も言う必要はない」ってのはそもそも何も関係する必要はないってのと同義だと思うんですよね。

無害な男性はただ良い人認定されるだけでそれ以上の関係にはならないは良く言われる。それは現実に観測する範囲でもそうだし冒頭の記事で統計的に言われていることにも符合する。

何も言う必要はない、何も関係する必要はないはポリコレ的には正しいけれど現実の雑多な関係の中でポリコレ的に振る舞えば振る舞うほどモテどころか関係性から離れていく。恋愛に限った話ではない。あるいは仕事でもそうだ。無害な人間は無意味な人生を歩む。

誰かと関係している以上、加害性を持たないことは不可能なのに加害することは駄目だと言えばもうはなっから関係しないしか方法としてない。それがカズレーザー氏が言っている「何も言う必要がない」ということだろう。何も言う必要がないってのは正しいんですよ。しかし政治的に正しいからこそ個人的には間違っていることを認識しなければいけない。

 

何も言う必要がないとか何も関係する必要がないってのはものすごく残酷な言葉なんですよ。現実を棚上げしている。君が完璧に生きるには君は私(わたくし)的であってはならない。私的な欲望も私的な嗜癖も加害性を含むのだから君は君であってはいけないって言っているのと同義なんですよね。表現の自由フェミニスト騒動も記憶に新しいですけど人間はだれしも誰かへの加害性を持つ。

 

よく個人的なことは政治的なことと言われるけれど政治的なことは個人的なことだと考えるのは完璧に間違ってるんですよね。だから僕はカズレーザー氏の意見にはまったく賛同しない。今、問題になっているのは彼の言うような政治的なことを個人的なことに分配規定する風潮だと思っているからです。

民主主義は国民の私的欲望(特殊意志)に基づいた一般意志によって全体意志が決まるべきとルソーが書いていますけど、個人的なことが政治的なことに接続するのは民主主義のプロセスであって政治的なことが個人的なことに接続するとは書いていないんですよ。民主主義は国家のありようを決めるプロセスであって国民のありかたを決めるものではない。

しかし政治的なことを個人的なことに過剰に逆流させているのが今起きていることなんですよね。個人対個人を持ち出してどちらがより政治的だからこっちが正しいという論争はそこかしこで見られますがそれはどちらも特殊であるだけでその全体は投票によってのみ政治的には決定する。

しかし全体意志は特殊意志を規定してはいけない。人々は全体意志には「従わなければいけない」ということしかルソーは書いていない。全体意志に自己を同一化する必要はまったくない。個人が個人の裁量において相手にかわいいと言ってもいいし関係性が充分でジョークとして通じるのであればあるいはブスとすら言ってもいい。その特殊な関係性を考慮しえない政治的な正しさで言えば「何も言ってはいけない」になるだけで現実には人間関係はすべて特殊なんですよね。だから政治的な正しさを個人的なことに用いるのは間違っている。

これにたいするカウンターとしてヘーゲル国民国家は人間一人ひとりが生きるモデルになると書いているけれどヘーゲルが書いていることはあくまで公共的とは何かでしかなく恋愛などの普通の人間関係を政治によって敷設するなんてことは書いていない。

唯一、政治によって人間全体を規定する思想めいたものを言うならばそれは全体主義しかない。それがいかに危ないか僕達は歴史からすでに知っているのに政治的な正しさ、ポリコレというものにあまりにも無警戒ではないかと思う。

 

 

女性が暴力的な男性を好きでいてもかまわないし男性が私的な領域において暴力的に振る舞うことで関係を築くことは自由であるべきだと言える。実際に暴力をふるったら法律で裁かれるべきだがそれ以前の暴力的とは単に特殊な状態のことを言っているものでしかない。

 

そういう特殊な男性に女性が惹かれるのは僕はものすごく当たり前のできごとであると思う。恋愛も原理的に特殊である。原理的に特殊な恋愛関係を築きたい女性は特殊な男性を求める。彼が特殊であればあるほどその関係も閉じていき特殊で特別なものになると女性はわかっている。政治的正しさなんて大きなものを指針に恋愛するような普遍的な男性と恋愛しても特殊な関係を築けないとわかっている。それはもはや恋愛ではないと。

 

個人的なことは政治的なこと。政治的なことは政治的なこと。そして政治的なことは個人的なことではない。