メロンダウト

メロンについて考えるよ

負の性欲とデジタル空間への傾倒

インターネットにおける自己と現実における自己みたいな話はずいぶん前からされてきたことだけれど

負の性欲による現実からの退却とディープフェイクなどテクノロジーによる誘惑により本当に一夫多妻制は実現するのではないかと思えてきた。

 

今や現実を見ない人はやまほど存在する。テクノロジーがつくりだした世界に耽溺しネットやゲーム上の自分のほうが本当の自分だといったある種のパラノイア的な生活をしている人は少なくない。自分も程度問題としてそういう生活を送っている。ブログを書くことも見ず知らずの誰かにコミュニケーションを委託している状態だしもっとはっきり言えばそういう顔の見えない他者に依存しているとも言える。

ソシャゲやMMO、ツイッターなどはやっていないので自分が書きたい時に書く以上、ブログは分別がつきやすい方法と思われるかもしれないが身体的な感覚としては依存しているのかもしれないと思うことはある。はてなブックマークにコメントを書いてスターをもらうなどその典型であるが・・・

 

そういうデジタル空間につかった生活様式は誰にも非難しようがない。別に現実に幸せになるだけが人生ではないしデジタル空間に一生耽溺して死んでいくのも個人の自由といえばそれまでの話である。

しかし僕もそうだがそういう人達はおそらくは飼いならされていることは自覚しておくべきではないかと単純に思う。このブログもはてなが倒産したら終了でどんなサービスも提供する側がやめたらそれまででしかない。そういうものに耽溺し生活を預けるのは悪いことではないが危険であるのは間違いない。

 

ありていに言ってしまえば今この世界は人類史上はじめて人生をやらなくてもかまわない時代なんですよね。昔はまあ生きてれば兵役なんかもあったり生きていくために農作業したりそうではない人間は口減らしにあったり半ば強制的に人は人をやっていたわけですが

今は別に結婚しなくてもかまわない、仕事は最低限食べるため、物語はネットフリックスを見ればいい、他人を知りたければネットサーフィンすればいい、性欲がわいたらFANZAでも見ればいい。承認欲求も経済活動も人間関係も性欲もすべてを代替できてしまう。

だから現実にたいしてはまあ30%ぐらいの熱量でやり過ごして本当にしたいことはデジタル空間で達成すればいいやぐらいの心持ちの人が出てくる。

 

それと同時進行して現実はどんどんめんどくさくなってくる。負の性欲という単語が出てきたのにも付随するが恋愛においてもTPOのようなものが確立され、差別ではないが区別され殊勝にふるまうことを過度に要求し自己を型にはめられそうではない人間をポリコレやコンプライアンス云々で非難してくる。

そういう現実の七面倒くさい潔癖さに嫌気がさす適応弱者はああもう人生やらなくてもいいやとまあそんなことを思うようになる。極端に聞こえるかもしれないけれど程度問題として半分ぐらい人生をすでに降りている人はめちゃくちゃいるように僕には見えている。さとり世代という言葉が出てきたのもすこし前ですが現実にしか視点を持たない世代と現実以外にも視点を持つ世代とは考え方がまるで違う。

 

嫌な現実があれば単に離れればいいと後者は考えている。だから別に目の前の人間が何を言っていようが大して問題にしない。それが娑婆世界からおりて出家したお坊さんのようにさとって見える。出家するのが寺かデジタル空間かしか違いはない。

 

ゆえに現実の政治が悪くなってもまあ別にネットの無料サービスでなんでもできる時代だしアマゾンもグーグルもツイッターも日本とは関係ないし。あとはまあ食べて寝るぐらいなら経済指標なんか誤差みたいなものでしょみたいに考える。性交渉もめんどくさい過程を経て誘うより動画で美女の裸を見てたほうがいいでしょといって若者の性交渉経験率は激減している。すべて現実を無視して行動した結果だけど個人の多様性ではなく個人が見る世界が多様であるとはつまり現実世界はすでに問題にされていないと言い換えることもできる。つまり現実はすでにゴミであると。

以前このブログにも引用したことがあるけれどジャン・ボードリヤールはこのような世界を消費社会、情報社会の帰結と断定しています。

 

ヴァーチャル性とともに、背後世界はもはや問題でなくなる。世界は全面的に取り替えられ、同一のものによって二重化され、完全な蜃気楼となる。そして象徴的実質をただ単純に消滅させてしまうことで、問いが解決されてしまう。客観的現実性さえもが無用な機能、一種のゴミとなり、その交換と流通とはますます困難になる。それゆえ人々は、客観的現実性からその後の段階へと移行したのだ。現実性と幻想とを同時に終わらせる、一種のウルトラ・リアリティに。

 

 

つまり僕たちは現実、客観的世界を個々人の判断で終わらせてしまえることが可能な時代に生きている。現実に問いがあれば解決しようではもはやない。現実に問いがあればその現実自体を消去してしまえばいい。そうして現実のほんのすこしでも迷惑なものは消去していく。関係しない。グレーゾーンなどない。まずもって消去。

負の性欲なるものが出てきたのもいわゆるこの現実の消去に連動していると見ている。きもい男性は無理、言い寄られるのも無理、そういう現実は早く消去しないといけない。

現実は清潔で住みやすく個人の自由が尊重されるべきであるのだから女性の負の性欲は当然の権利と女性は言う。このように被害者側が常に正しさを持つのはなぜなのか。それは他方できもいとされる男性が現実に生きなくてもかまわない世界があることと連動している。同じ村や閉じた世界で生きているのであればその人間の「変化」を望むしかないが今はそういう人は別のところで生きればいい。たとえばそれがデジタル空間だったりする。これは政治においても言えていわゆるリベラル側の人が言う言動も変化を前提としたものではなくなって消去を望むものに変わっていった。

 

個人は個人のまま個人の自由に生きられるべきとはつまり個人の現実にたいしてなんらの介入をしてはいけないと言っているのであってそれは個人の現実は個人の裁量において他人を消去する権利を持つと同義である。そしてそういう世界と負の性欲は相性がいい。拒否権を行使する女性あるいは男性にたいして僕達は反論しえない。

なぜなら個人の現実にたいして無理矢理関係するのはご法度であると同時にそうする必要すらすでにないからである。