メロンダウト

メロンについて考えるよ

日本の感染スピードが遅いのって社会がすでに壊れてたからじゃないか

最初に

これはまったくの推論です。統計的な裏付けもなにもないので感想程度に読み流してください。

 

社会的な批評なんかを読んでいるとよく、日本社会は共同体がなくなっているといった言説を見つけることができる。実際、少子化が進み恋愛から退却している若者が多いというデータもあるけれど恋愛だけではなく人間関係そのものが薄くなっていることをさして共同体の崩壊と言われる。あるいは個人主義といってもいい。

実際の体感としてもそれはよくわかる。家、会社、たまにいく飲み屋、たまにあう友人、ネットで生活のほとんどが完結していて社会的に横断した人間関係があまりない。業種や職種などによっては仕事の関係でいろいろな人に会う人も多いだろうけれど仕事上の関係は会う人数が多くとも閉じている関係ではある。

ここでいう共同体とはいろいろな人が雑多に入り乱れているような関係のことを言うがそういう場所が日本にはほとんどない。欧米では教会などがあったり他人とフランクに話す文化があるけれど日本ではいきなり他人に話しかけたりするのは失礼だととらえられることが多い。あとはよく言われているようにキスやハグなどの接触度合もあるだろうけれど、そもそも他人と接触する機会自体が日本ではそんなに多くないのでは?というのがこの記事の趣旨である。

 

このような共同体の崩壊は近代日本の負の側面ととらえられることが多い。一人暮らしで毎日仕事と家の往復で食事はコンビニや牛丼屋で済ませるなど日本社会は個人に最適化された社会だと言われる。そうやってみんながバラバラになったという言説はいわゆるゼロ年代の社会批評などに見られるものだけれどそれが「功を奏している」のが今の状況なのではないだろうか。

実際、日本はコロナウィルスにおいてほとんど何も対策をしていない。国民に注意を喚起しているだけで具体的になにかを禁止しているわけではない。韓国のようにドライブスルー検査をしたり中国のようにGPSで行動履歴を追跡しているわけでもない。台湾のようなITによる政策もほとんど行っていない。にもかかわらず日本で感染がひろがっていないのは人と人がもともと会っていないからではないのだろうか。もちろん諸外国と比較すればだが。

そういう疑問を持たざるを得ない。検査数が少ないから感染者数がすくないとか欧米で発生しているのは別種のコロナウィルスだとかいろいろ推論はあるけれど

感染が拡大するような素地=共同体がかなり少ないからなのではないか。

 

クラスターという言葉が最近になって取り沙汰されているが社会学的な言説ではよく見られる言葉である。集団がバラバラに点在していることをさしてクラスター化、タコツボ化、島宇宙化などと言われたりするがいずれにしろ「全体がない社会」だということをさしている。実際その通りで実社会でもネットでも集団は集団内で閉じた関係でいることが多く外部と接触する機会が極端に少なくなってきている。

生活していてもまったく知らない他人と話す機会(ここでは密に話すこと)があまりない。仕事上でクラスターが重なっていても事務的な会話になることのほうが圧倒的に多く接触といえるほどの関係は少ない。

コロナウィルスで発生しているクラスターもバーやライブハウス、病院、大学、ジムなど人間関係が横断し、かつ他人と密に接触するような場所が多い。感染者がその場所に混じることで集団感染しているのが原因だと言われるがそれは逆説的に感染者が混じらない閉じた集団の場合、感染リスクは低くなることをさしている。であるのならば横断的な関係が発生しない集団は少なければ少ないほど感染が広がることもすくなくなる。

たとえば海外だと公園で寝っ転がっていたら知らない人に意味もなく話しかけられることがあったが日本ではまずない。どこにいくにも他人と意味もなく会話することがほとんどない。居酒屋やライブハウスなどそういう場所に行かなければ他人と接触する機会がない日本は個人を尊重しプライベートを大事にするいっぽうで共同体がなくなっている。おそらくそれは間違いない。様々な社会的な批評やデータなど見ても個人は個人で閉じていて集団も属性と目的でつながる集団である点で閉じている。これは近代社会の負の側面としてとらえられることが多い。人間関係が閉じている状態では人にたいする想像力がなくなってしまうというのが理由だ。だから動物的ポストモダンや漂白化された社会、ピュエリリズム(文化的小児病)、コミュニケーション不全などと言われてきた。

しかしコロナウィルスの感染を抑えるのにこれほど効果のあるものもない。感染症を抑えるのには人が人にあわない必要がありその点で日本の個人主義とそれに最適化された社会構造はとても功を奏している。

しかしコロナ後はどうなのだろうかということも同時に考えざるをえない。個人が個人のまま生きていられるのは環境的な豊かさが条件として必要である。90年代以前は個人は個人のまま生きていけなかったので集団をつくり共同体の中で生きていくことが必要だったが物質的に豊かになると共同体をつくる必要性がなくなった。共同体として生きたい人はみんなで生きていけばいいし個人あるいは閉じた集団で生きたい人はそうすればよかった。人類史上でもほとんどはじめて一人で勝手に生きることを許されているのが今の社会だが・・・

しかしコロナウィルスで実体経済へ壊滅的な被害が出た場合にはどうなるのだろうか。個人が個人のまま生きれるほどの豊かさははたして残るのだろうか。それを選択する余裕すらない状態になるかもしれない。おそらく世界的な自粛の流れは長期化するだろう。今までのような状態に戻るにはワクチンができるか集団免疫を獲得するかのどちらかと言われているがどちらも1年でどうにかなるものではない。

感染をおさえるのに個人主義はとても有用だ。しかしその副作用として個人では生きられなくなる状態になった時に僕たちは共同体を見直す必要がある。国による補償が叫ばれているが本来の順序がすっとんでいるのだ。いまこの社会には個人と国しかない(人が数多くいる)。保育園に落ちたらいきなり日本死ねとなることが問題でありその中間としての共同体がないのだ。

そのようにバラバラになった個人をすべて国が助けることは現実的に不可能でありその時に僕たちはいかに個人主義があぶないかを知るだろう。結局のところ人を助けるのは人である。法的な手続きや利権団体の誘導によって右にも左にもブレる行政による支援がいかに脆いか。そして個人と国の間の緩衝材としての共同体がいかに大事か。個人でどうにかなる状態でもなく国にもそんな余裕はないとなればもう共同体のなかで助け合うしかない。そういう環境に遠からずなるのではないかと思っている。