メロンダウト

メロンについて考えるよ

無党派層叩きで儲けたい

かの事件は特異な個人の暴走として処理したほうが良いと思うけれど、事件とは無関係に男女の対立論が社会不安を引き起こしかねないレベルまできているように思う。トイアンナさんが以下記事で「嫌韓はその流行が終わり、女叩きがビジネスとして勃興してきている」と書いていた。

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記事の総論としては賛同しかねる部分があるけれど、ジェンダー論がビジネスになっているのは事実としてそうなのだと思う。あるいは政治そのものがビジネスとなっている。

 

フェミニズム騎士団しかり、自らの糧を得るためにハリボテの思想を掲げ、それによって社会が右往左往するのはこの上なく不毛なわけであるが、しかしそういう不毛さが現実に社会を変えていっている。右左、男女に限ったことではない。少なくない人々がアイデンティティーポリティクスの餌食となっている。ネトウヨ、リベラル、そして男と女。どの釣り針に食いつくのかは、いってしまえば偶然でしかないのだろう。フェミニズム騎士団になってモテようと思おうが、男性性論者に触れてモテようと思おうが、ナンパ界隈に触れてモテようと思おうがさして違いはない。どれもこれも触媒としての機能しか果たさないのだから。
どのコピーライトに食いつくのかは個々人の感情による部分が大きいので、みな感情的動員をかけるようになった。

それはかつてネトウヨとリベラルが通ってきた道でもある。ネトウヨは日本人のアイデンティティーにフックを仕掛けナショナリズムを刺激することで動員していた。まとめサイトによる恣意的なコメントの羅列、保守系ブログによる煽動的な文章など思想性そのものを意図的に排除することで保守主義をポピュリスティックなナショナリズムへと「落とした」。誰もが理解しやすいように平易なナショナリズムへと単純化することで、感情的に人々を動員することに成功してきた。それによる弊害は、いまさらここで書くまでもないだろう。
それにたいしてリベラルがカウンターとしてかつては機能していた。リベラルが正しいとされていたのは右の没落に一端があった。しかし、当然ながら感情的動員をかけるネトウヨには数の上でかなわない。そして、リベラルもまた本来のリベラルから乖離することで思想を単純化し、感情的動員をかけるようになった。その弊害についても、ここで書くまでもない。
ネトウヨとリベラルは相似形であり、いまや戦略として同様となっている。ネトウヨYoutubeなどを使い、リベラルはハッシュタグなどを使って動員をかける。そうした動員のうえでどちらも通りが良い言葉しか使わなくなった。右は極度にナショナリスティックな優生思想とでも呼ぶべき日本人信仰へと落ちて嫌韓が始まった。リベラルもまた多様性や女性の人権といった被害者性を全面に出すことで「正しさへの躊躇を持たない集団」となってしまった。総ずるに右左を超える「動員」によってのみ政治が動くようになってしまったのだ。それは実際の政党政治をも左右している。ナショナルなコピーライティングであろうとリベラルなコレクトネスだろうとさして違いはない。どちらも感情的動員を主な戦略としている限り、この不毛さは終わらないであろう。


注意しなければならないのは、以上のような無党派的批判もまた無謬性という意味でラディカルになっているという問題である。右左よりも、或る意味ではこちらのほうが問題なのではないかと思っている。無党派層が「すべてを不毛だ」と言うことで失われるものも当然ながらある。訳知り顔ですべての政治性を回避するのは別の意味で問題があるはずだ。無党派層が政治そのものに絶望して「すべてが不毛だ」と政治から離れてしまうことで右左の先鋭化を事実上許してしまう。「政治家になるやつなど碌なもんじゃない」みたいな話はみな一度ぐらいは聞いたことがあるはずだ。そのような態度はおよそ正しいものとは言えないだろう。あるいは「インターネットなどやめてしまえばいい」も同様である。右左のありかたを考えるのではなくすべてを切断してしまうのは、それもまたラディカルなものに過ぎない。
保守もリベラルも、そして中道も原義としては意味があるはずだ。すべてがラディカルになった現在の価値観から見ればすべての政治性を回避したくなるのもわからないではないが、しかし賢人達が積み上げてきた政治思想はそれほど軽いものではない。それだけは忘れないようにと、個人的には思っている。


右と左が相似形として同じ戦略になってしまったように男女の対立論も同じ結末を辿ることになるのではないか。フェミニズムが過激化すればメンズリブの側も過激化せざるを得ない。自然そうなるはずだ。フェミニストにも穏当な主張をしている人はいるしメンズリブの側にも穏当な人はいる。しかし、フェミニズムは「結果として」ラディカルになってしまった。そのラディカルさを批判することは簡単であるが、では実勢として対抗するにはどうしたら良いのかという問題がある。具にもならない穏当な主張をしたとしてもラディカルな論者には動員のうえでかなわないのだ。

ラディカルフェミニズムという女性の権力を極大化する運動にたいしては男性の権力を極大化することでバランスを取るべきだ、という主張が必ず出てくることになる。自明なものとしてそうなるはずだ。そしてそれぞれがそれぞれのフォロワーに通りが良い思想を切り貼りすることで動員合戦が始まる。そして、それに嫌気がさした多くの人々は男女の対立論そのものから退却することになる。結局、いずれかの勢力が動員をかけることで対抗勢力も動員せざるを得なくなる。それが「インターネットで議論する」ということなのだろう。つまるところインターネットは政治的な側面においては「数の装置」でしかない。インターネット上で行われている政治が動員勝負になるのはほとんど宿命のようなものだ。それによる弊害が様々なところで出てきている。結局のところ全体として見れば個人が数の一員とならないことが大切なのだろう。というよりもそれだけが有権者のあるべき姿で、そしてその独立性によって民主主義が機能する。

それぞれの人が現実の生活の中での利得や信条から投票するのであればいかに歪んだものであってもそれ自体が特殊なものなので数のうちに入らない、ゆえにほとんど問題とはならない。ルソーが特殊意志と言っていたものでもあるけれど、今起きている問題はようするに個人の特殊性がメディアに触れると変質して消えてなくなってしまうことなのだろう。フェミニズムに触れて現実の欲望を捨ててしまうこともそうであるし、ナショナリズムに目覚めて自らの利得を無視して投票することもそうである。特殊意志があってはじめて一般意志がある。しかし今は特殊意志がない。あるいは事前に滅却されている。「おまえの特殊意志は差別だ」という正しさによって個人の欲望は消えてなくなってしまうのだ。
ネットの動員勝負によってみな考えることをやめてしまったのではないだろうか。右も左も無党派も、そして男性も女性も。「事前の一般意志とでも呼ぶべき他者の特殊意志」によってみな投票を決めている。しかし元来、民主主義においては自分の欲望によって投票していいはずだ。もちろん欲望といってもそこに社会的関係は含まれるわけであるが、そうした社会契約論の本分に立ち返るべきではないだろうか。
原理として我々の思想信条なんてものは特殊でしかない。言ってしまえばある個人が差別主義者であってもかまわないわけだ。それをネットで喧伝して「数」としない限りにはおいては。

民主主義は一般意志の段階において差別主義者の特殊意志を無視できる。しかし差別主義がネットを通じて数として無視できないものとなれば、反差別もまた数の勝負に出るしかなくなる。男女もまた同様である。その過程で特殊意志は消滅してしまい民主主義が動員合戦になる。こうした構造にあっては個人の発言が差別かそうでないかなど問題ではない。問題はそれが特殊か否か、なのであろう。
ものすごく抽象的に結論を言えば特殊意志を一般化すべきではないし、ましてや全体化などするべきではない。それはインターネットを眺める時と実際に投票する時で変わることがないはずだ。