メロンダウト

メロンについて考えるよ

追憶としてのホームレス

Daigo氏の件についてツイッターで噴きあがってしまったのだけどインターネットを見て怒りを覚えたのは久しぶりだった。当該ツイートは削除している。数の一員にならないことが重要とか偉そうなことを書いておきながら、実際に感情を抑えることができないのだから人間は、いや自分は愚かなものである。誰にとってもそうであるが、人には冷静になれる部分とそうでない部分がある。それが自然であるとはいえ実際にインターネットに踊らされるとなんとも言えない気持ちになってしまう。

ここでDaigo氏に言及するとめちゃくちゃに書いてしまいそうなので自重するとして、なぜ自分がここまでホームレスの方を貶める発言にたいして発火するのか、すこし考えてみたい。

はじめにあるのがよく言われるようように「自分もホームレスになるかもしれない」で、まあ自分もいつホームレスになるかわからないと考えているのでそれが最も大きいものかもしれない。多くの人にとってもそうであるからこそここまで炎上しているし、自分も例外ではないと「現実的に」そう思っている。

あとはまあ生存権や人権などの社会的なものも当然ながらある。

 

それとは別に、ごく個人的な思い出として昔ホームレスの方に助けていただいた記憶があるのだ。極力個人的なことは書かないようにしている当ブログではあるものの、とても大事な記憶であるので、備忘録として書くことにする。

学生時代、とある国に留学に行ったことがある。現地に到着し、語学学校に入学したばかりのころだ。まだ知り合いと言える知り合いもほとんどいなく携帯電話を借りる前のころ、郊外にあるホストファミリーのもとに帰ることができなくなった。語学学校の帰り、ホストファミリーの家に帰るにはバスに乗る必要があった。しかしバスを乗り違えてしまい、文字通り右も左もわからない街に降りてしまった。郊外に出るとほとんど同じ景色であるため、バスを乗り間違えたと理解するまで時間がかかった。急いで降車して乗車したバス停に戻ろうと思い引き返したのであるが、戻った時には夜になり、ホストファミリーのもとへ帰るバスはもう出ていなかった。日本とは違い夜9時を回るとバスは動いていない。タクシーで帰ろうにも高額すぎるため、学生だった自分においそれと払える金額ではなかった。今思えばどこか宿泊施設を探したり電話を探して連絡するなり方法はあったのだが、右も左もわからない状態で混乱しており、いかに帰るかしか頭に浮かばなかった。

携帯電話もなく語学学校も閉まっている。現地の日本人サポートステーションも閉まっていて、見知らぬ国で完全に孤立してしまった。その時に助けてくれたのがバス停の近くにいたホームレスの方だった。

困っていたことがわかったのだろう。バス停の付近を一時間近くウロウロしていた自分に声をかけてくれた。時間は深夜になっていた。どす黒い肌に真っ白い歯を光らせて話しかけてきた彼は特別ななにかに見えた。人種もそうであるし、境遇もそう、あるいは自らの状況もそうであった。完全に孤立し、見知らぬ国で見知らぬ人に話しかけられるのは、文字通り夢のようであった。その記憶がいまもなお焼き付いている。

彼は僕に「どうした?」と話しかけると僕の状況を聞いてくれた。最初はとても怖かった。多くの人がそうであるように、僕もホームレスの方を忌避する感覚を持っていたのだろう。異国の地であればなおさらだ。しかし彼はとても優しかった。僕の状況を聞くと彼は「じゃあここで一晩明かすしかないな」と言い、共に一晩明かすことになった。「いつものことだ」と言う彼は「ここで寝るといい」とだけ言い、身の上話をするわけでもなく眠りについてしまった。彼にとって路上で寝ることは日常に過ぎないのだろう。あるいは「新入り」を迎えることもいつものことに過ぎない。異国の地で怯える僕にたいし、彼はあまりにもあっけらかんとしていた。僕はそれですこし安心することができた。眠りについた彼を横目に僕は寝ることができず、朝までずっと星空を眺めていた。その後始発でホストファミリーのもとに帰り、心配していたと言う「家族」に謝り、ようやく眠りについた。

助けられたというわけでもない。なにかしていただいたわけでもない。ただ「ここにいると良い」と言われただけだ。そのホームレスの方は僕のことなど一切記憶にないだろう。しかし僕にとっては自らの世界観を全面的に取り換えうるような、そんな体験だったのだ。

 

「ホームレスの命などどうでも良い」という発言に自分が激怒したのは、こうした経験にもとづいているのだと思う。生存権や人権という社会的な意義から批判されるのも当然な発言ではあるけれど、それ以上に僕にとってのホームレスはあの時あの場所で話しかけてくれた人なのである。

あの時あの人があそこにいなかったらきっと僕は泣き出していたはずだ。いまでもそう思う。完全に孤立し、右も左もわからない状態にあった僕を助けてくれたのはホームレスの方だった。その体験がいまなお脳裏に焼きついて離れない。僕は社会的な議論以上のものをホームレスの方に見ているのだと思う。ホームレスの方を非難する言動については度し難い怒りを覚えることがあるのはそのためなのだろう。それは今でも変わっていない。ホームレスという単語を見ると瞬時に彼の顔が浮かび当時の光景が思い浮かんでくる。その彼を非難するような言論にたいしては普段ブログに書いているような議論もなにもかもどこかに吹き飛んでしまう。それが僕個人の執着なのだろう。

それほどに強烈な体験であったし、原風景としていまなお記憶に焼きついている。

「ここにいても良い」という言葉に孤独な個人がどれほど救われるのか、路頭に迷っている個人に話しかけ日常として回収してくれる事がどれほど尊い行いかを、僕は知っている。

一時でも居場所を与えてくれる人はホームレスだろうがなんだろうが関係がない。あの時あの場所で「ただ話しかけてくれただけのホームレス」はどんな人よりも秀でて僕を救ってくれたのだ。

その彼を非難するような言動にたいしてはいかに論理的な意見であろうとも僕は激怒し続けるであろう。それによりこのブログの論理一貫性が失われようとも、一向にかまわないのである。