メロンダウト

メロンについて考えるよ

他人をコンテンツとして消費してるのはブクマカのほうやろ

 この記事が燃えてる。ホームレスをネタとして消費し、異文化扱いすることは無意識の差別だという。

cakes.mu

 

・・・いやいやブクマカが何を言ってるんだ。

他人をコンテンツとして消費することに無自覚なのはあなたたちのほうでしょ。

勝手に外部サイトからネタを拾ってきて勝手にインデックスしてコメントをつけて言いっ放すだけの人々が何を言ってるんだ。書いたコメントがコミュニケーションとすら思っていないで筆者が見るとも思わずに大上段から物を言って無自覚に人を傷つけてるのはどっちだよ。ほんとブクマカの無謬っぷりには呆れるしかない。

多少の齟齬や理解の不足があるにしろホームレスの人に会ってコミュニケーションをとって文章にしている筆者のほうがよほどまともにコミュニケートしている。

 

現実にまったく違う生活スタイルをしている人々に会えば多少なりのカルチャーショックがあって当たり前でそれを同じ人間として平等にひとくくりにできるのはブクマカみたいな外にいる者達だけである。「ホームレスも誰も彼もみんな同じ人間だ」は抽象的には正しいけれど現実に価値観が違う人間同士を架橋し、コミュニケートしようとした場合にはどうしてもネタ化やキャラ化に頼らざるを得ない瞬間がある。現実に人間はみな違うのだから。違う人間同士を架橋するものが現実には必要になる。それが言語だったりコンテンツだったり地縁血縁だったりキャラ化でもなんでも良いがそれらの差異や同根を確認することによって初めて人は人と接続しうる。その差異の確認を差別というのは関係性の放棄以外の何物でもない。上記記事で書かれていることも差異の確認以上のものではない。

関係性を放棄することによって理想論、非差別論、美談ですべてを回収することができてそちらのほうが抽象的には正しく見える。最近のリベラルなどは全部それで物事の現実的戦慄を遮断することによって外部の関係ない人達のみにアピールしている。だからリベラルは支持されない。耳目が良いだけの美談で世界が変わるほど単純ではないことはみんなわかってるからだ。抽象論のみによって回収しようとすればブクマカ達のような関係ない人々にしか届かない。だから現実にはほとんど無意味で空虚に響くだけである。関係ないところでウダウダとなんか言っている。昔からブクマはそれ以上でもそれ以下でもない。あるいはこのブログもそうである。

 

 

「ホームレスと我々は違う」

この言葉は差別なのか?が大きな問いであるが違うと思えば違う、同じだと思えば同じとしか言いようがないのではないだろうか。現実に今の生活様式が違うので違うと言えば違うし人権的な視点から言えば同じだと言える。

上記記事の筆者は実際にホームレスと接するなかで違うと感じたのならそれは筆者の中で違うのだろう。しかしそれを持ってして筆者がホームレスの人権をないがしろにして差別しているかはまったくフェーズが違う。ホームレスは違うと言いつつも差別しないはまったく矛盾せずに成立する。

差別反対を大上段にかかげてみんな同じ人間だという人のほうがはるかに狂っている。ダブルスタンダードのほうがはるかにまともだ。ホームレスの方のような違う生活をしている人々に相対したときに既存の価値観を壊されるのは当然でその差異を語らずにして同じだと言える人がどれほどいるだろうか。あるいはその「悲惨さ」を語ることなしにホームレスも同じ人間だという多様性に回収するのにどれほどの意味があるのか疑わしい。

そうやってすべてを多様性で回収して個人をバラバラにした結果どうなったかはホームレスの方よりも我々のほうがよく知っていることだろう。同じ人間だとまとめて個人の生活を尊重すべきだというのは現実にはただの切断処理であって現実的な結論としては自己責任論とまったく同じものでしかない。リベラルが多様性という美談で個人をバラバラにしてそうやって脆弱になった個人が自民党ネトサポになり自民党アベノミクスで格差を広げて広がった格差を竹中平蔵が利用するという車輪の中にいるかぎり誰も彼もが寄り木を失くしたホームレスみたいなものだろう。しかし悲惨さを語ることができない。誰かの悲惨さを語ることは無自覚の差別だという。勝手に誰かの悲惨さを想像して語るなと。そうして右からも左からも多様性は保守されていく。

多様性だけでコミュニケートできるほど現実の人間は一様ではないのに、である。