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「ゲイがいてもいいけど、好かれたらキモい」発言にキレた話(小野 美由紀) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
三島由紀夫が女性を評して女性はべたべたの感受性と低次の現実主義と言っていたことを思い出す。
透明な抽象的構造をいつもべたべたな感受性でよごしてしまう。構成力の欠如、感受性の
過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の現実主義、これらはみな女性的欠陥であり、
芸術において女性的様式は問題なく「悪い」様式である。
いまでいえばミソジニストと切って捨てられる発言だが感覚としてはなにを言わんとしてるのかはわかる。自分は女性一般のことをここまで断定することはできないが。
女性全般にこの発言があてはまるのかは定かではないが当時、三島由紀夫が嫌っていたこの思想がどのような思考のことを言っているのかはいまとなればはっきりとしている。
いま左翼が言っているべたべたに塗りたくられたポリコレ的考え方のことこそを三島由紀夫は嫌うだろう。
いまのポリコレ論争で左翼や多様性信徒がやっているのは透明な抽象的構造(カオスな世界)をべたべたの感受性(ポリコレ)でよごす(かたづける)ことと言っていいと思う。
差別の合理性とか書くとこれだけでバッシングされるが差別が差別に至るまでの周知の段階において教育的な背景とは別の合理性がすくなからずある。例えばなぜゴキブリを人間が嫌うのかはかなり生理的なものがあるが黒人が差別されていたのもそうした動物的な感情がすくなからずある。なぜ白人のことをハンサムだと僕達は思うのか、原始的な感情のなかには人間が悪になるなにかがいることは間違いないと思う。それは誰もが経験的に知っていることだろう。
また、人が人を性愛的な美醜で判断するのは避けようがない事実であり現実的に社会的弱者は同情されるだけで救われなかったり、弱者の多くが悪人ゆえに救われなかったりと人間のプリミティブな感情を無視してべたべたの感受性でかたづけようとすればそりゃ反発が起きてくる。
差別はダメだと一点突破しようとしてもそこにはかならず差別感情の原理がたちはだかる。差別に正義はない、が差別感情に合理性はある。
”ゲイがいるのは勝手だけど、俺のことを好きになられたら気持ち悪いって話だよ”
っていうのはべたべたの感受性(ポリコレ)にたいする疑問を言っているわけだけどそこにキレていたら何も話が前に進まない。差別はダメなんてそのおじさんも知っているし差別はダメだの先の議論を始めるときにこの発言はとてもいい足掛かりになる。
この発言は内心の自由に押し込んで片づけていい話ではないと思う。気持ち悪いと発言しても多様性は揺るがないような多様性がどこにあるのかが根本的に差別をなくすためには重要な鍵になっているような気がしてならない。
なぜ人は人を気持ち悪いと思うのかを考える時に単純にその発言をした人が愚かだからと片づけるのをまず左翼はやめるべきだ。
人は人を嫌ってはいけないなんて機能するはずがない。そんなユートピアは永遠に訪れない。人は人を嫌っても気持ち悪いと思ってもいいんだよ、とまずいうべきだと思う。そのうえで関係していくべき。
最近のリベラルは嫌いなままつながる関係を忘れたんだと思う。ルソーが社会契約論で言っていたことがまさにそれなのに。
嫌いな人ともカオスなままグダグダにつながっていくのがリアリズムでありリベラリズムである。好きなことだけで生きていくなよってことだな。嫌いなもののなかに多様性が宿るんだからって
なんでこんな自分と関係ないように見える七面倒くさいことをグダグダ書いているのかっておそらくはそんな性善説に依拠するだけの低次の現実主義で塗りたくられた世界では誰ひとりとして生き残れないから。それは自分も例外ではない、というか真っ先にふるいにかけられるほうだと思う。
- 作者: J.J.ルソー,桑原武夫,前川貞次郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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