ダブスタは受け入れるべき批判だろう
まずここから認識が違う。ダブスタは受け入れるべき批判、ではない。
ダブルスタンダードという批判は間違っている~嘘をつけない社会がつくる嘘の社会~ - メロンダウト
人間は業深い生き物で経験によって全体を把握してしまうことがある。あるいは全体によって経験を批判することがある。しかしそれはどちらも間違っている。経験と一般論は分けて考えるべきだ。それがカントが言っていた認識論の一つだけど
人は感性(直観や経験によって得られた表層)と悟性(表象を共通の表象のもとに秩序づける働き)によって物事を認識する。人間の認識は原理的に二層構造であってその点でダブルスタンダードといった批判は批判になっていない。原理的に人間はダブルスタンダードな生き物だからだ。
みな知っているはずだ。経験によって得られた先入観とも言える業によって好き嫌いを判断する。それを差別だと言えばほとんどの選択が差別になってしまう。普遍的な非差別論を感性に適用しようとすれば恋愛ですら差別になる。だから僕達は感性と悟性を分けることによって生きていくことができる。
個人の業は個人の感性の中に留めるべきであってそれをその個人が持つ悟性だと、一般論として批判することは間違っている。人間は二面的な生き物であって経験論と一般論をまったく別のフェーズとして使い分けていいし使い分けるべきだと言える。なればこそ僕達は差別をせずにいられる。あるいは、なればこそ僕達は自由でいられる。悟性や一般性、普遍性によってその人の感性を批判するのは明らかに間違っている。それはその人の体験でしかない。
その点で誰もが差別感情を持っていると自覚しろといったコメントがスターを集めていたけれどすこし足りないと思う。誰もが差別感情を持っていてもかまわないけれどそれは「感性」としてのみ持つべきであって自分が差別感情を持っているからといって差別主義者だと自覚する必要はない。むしろそういう感性的な判断を差別論として過度に一般化することのほうが問題だろう。
人間には悟性があるので経験的表層を全体のものとしては適用しないことができる。なので『差別「的」発言をしたうえで差別していない』はダブルスタンダードでありながらまったく矛盾せずに成立する。言葉は表層でしかない。表層でしかない感性的発言を悟性的発言として受け取ることのがむしろ問題であって、ゆえんみんな言葉を聞き過ぎている。
経験によって得られたものを全体に適用して発言するのを差別だと、上記の増田では言っているけれど経験的な言説を一般的に受容(聴き取る)することのほうがおかしい。経験はそれ自体が経験論でしかない。それは厳密に分けて考えるべきであろう。さもなければ僕達は全員が自らの体験を語ることを許されなくなってしまう。それがカントから受け取るべき最大の教訓だと思っている。人間は原理的に矛盾した生き物だということを前提に話したほうがいい。もちろん差別的発言がイコールで差別発言だという人はいるしそれはその人の差別感情の問題として批判されるべきだけど、そうではない種類の言動までも差別発言として聞くことはこちら側(聞き手側)の問題だろう。人はそれほど一貫した存在ではないと思って人の言葉を受け取るべきだ。
それはcakesの炎上案件にも繋がっていて自殺をテーマにした連載が炎上するかもしれないとcakes編集部から連載を断られた案件があった。
これもカントが言っていた矛盾を前提にしないで考えているインターネットの問題が大きい。編集部はただ適応しているに過ぎず、むしろそれを許さないインターネット側(聞き手側)こそを問題にすべきだと思っている。インターネットにセンシティブな話題を乗せると「聞き過ぎる人々」がいっぱい出てきて炎上する。自殺などもその一種であるが、それはcakes編集部の問題ではなく僕達インターネット側の原因と考えることもできる。発言が問題なのではない。受言こそが問題の本質だったりする。つまり感性と悟性がないまぜになった結果、人の感性を僕達は許すことができなくなってしまったのだ。ダブルスタンダードという定言命法によって。
上記増田のようにネット民は誰かのダブルスタンダードを見つけた瞬間に批判が成立したかのように思う。僕は全然批判になっていないと思うけれど、批判的図式のうちに「ハマル」から批判として成立しているように見えるだけでその図式がすなわち正しい批判とは限らない。むしろこのような批判が批判として成立している状態(ダブスタが許されない状況)こそが批判されるべきだと思っている。
「ダブルスタンダードは定言的にダメだ」といった批判は成立しない。なぜなら上に書いたように人は感性と悟性によって二面的に物事を認識するものだからだ。
人の言説は仮言的に判断するべきであってどういった言動であれば批判するのか諸所の条件によって個別に考えるべきである。ダブルスタンダードといった定言命法によって形式にはめこんで批判するのは形而上学的(経験や感性を超えた普遍性)なものでしかない。そうやって批判されうるものがすなわち差別だということにはならない。むしろ批判されるべきはそう受け取る側であったりする。
僕達は発言に気を付けると同時に言葉を受け取ることにも気を付けなければならない。なぜならそれほどセンシティブに他人の感性的発言を悟性的に受け止めれば世界は地獄にしか見えなくなるからだ。人が差別的発言をしたとしてもすなわちその人が差別主義者と直列するわけではない。人の思考は並列しているからだ。平たく言えば人の言うことをそれほど真に受けないほうがいい。優しい言葉を使う人間がすなわち優しいのではないのと同じように差別的発言をした人間がすなわち差別をしているとは限らない。その人が優しいかどうかはこちら側がどう思うかというパラメーターによってどうにでも変化してしまう。それは差別に関しても同様だろう。
という事件が前にもあったなと思い出したので貼っておきます。