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官製マッチングアプリと自己完結的淘汰

東京都がマッチングアプリを提供するみたいです

東京都が24年度にマッチングアプリ提供開始、運営は民間に委託-報道 - Bloomberg

 

自治体による婚活支援事業は特段珍しいことではなく、街コンなんかは市区町村が主催しているところもあるので東京都がマッチングアプリを提供するのも不思議ではないのだけれど、しかして、「そういう問題なのか」という気がしなくもない。

個人的に街コンにも行ったことがあるし、マッチングアプリも使ったことがあるのだけれど、特にマッチングアプリに関して言えば、男性側から見るとあれはやればやるだけ恋愛から退却していくことになるツールではないかと感じた。

 

マッチングアプリでは年齢・身長・飲酒習慣・年収などを記載し、それに沿った形で「お相手」とマッチするようデザインされているものがほとんどであるが、特に年収で足切りされる場合が多いのが現状となっている。これは結婚相談所でも変わることはない。妙齢になりパートナーを探す場合、初手から結婚を前提に話が進んでいるので相手の経済状態をチェックするのは当然と言えば当然であるのだが、しかし他方でそのような条件を入口に据えるとその「当然さ」に打ちのめされる男性が出てくる。というのも、マッチングアプリの特性としてマッチする相手を探す際にどうしたってフィルタリングにかけられるためである。不特定多数の異性をスワイプしながら相性が合う人を探す行為は「スワイプされる側」にたいしスティグマを付与することになる。通常の恋愛関係の場合、失恋があったとしてもスティグマとまではならない。たとえば社内恋愛のような場合、人間関係が発展する形で恋愛になることが多いけれど、そのような場合には自分が不特定多数に品定めされることはなく、ある種の物語のうえに恋愛が成立するケースがほとんどだ。それはいわゆる「非モテ」に関しても同様で、個人の人間関係は狭いものなので、仮に学内や社内でモテなくとも別の場所に行けば次の物語が始まりモテルかもしれないという希望を残したままでいられる。

 

しかしマッチングアプリでは不特定多数による選別に晒されることになるため、否が応にも現実を突きつけられる。どれだけいいねが返ってくるか、どれだけマッチするかが数としてはっきり表れる。また、どれぐらいの異性とマッチするかという形で自身の、言ってしまえば「身分」のようなものを感じざるを得なくなる。そしてそういうことを繰り返していると「自分はそんなに収入があるわけでもないし顔が良いわけでもなく特別、コミュニケーションだって上手くない」ひいては求められる身分ではないという事態を内面化し、恋愛から退却することになる。ようするにマッチングアプリとは、マッチしない人にとって見れば自身のステータスの不足を眼前に突きつけられそれを内面化してしまう自己完結的淘汰サービスなのである。

それがマッチングアプリの裏側であると思う。

本来は物語や閉じた関係の中で生まれる恋愛を白日のもとに晒すという構造そのものが根本的に間違っているような気がしてならない。

マッチングアプリは確かにパートナーとマッチする機会を提供しているのだが、同時に、それよりも多くのアンマッチ(FF外)とスティグマを生み出しているため、総数としての恋愛関係を増やしているかというとかなり疑わしい。

 

もちろん民間が運営するものであれば社会全体のことを考慮する必要はないけれど、公的機関が提供するものとなればそのサービスの社会的意義(功利的に恋愛関係の増加に寄与しているのかどうか)が問われる。東京都がどのような形でマッチングアプリを運営するのかはわからないが、何で足切りするのかという項目を外さない限り、アンマッチを回避することはできず、民間のサービスで起きていることと結局は同じことになるのではないか。

 

 

 

いわゆる少子化・非婚化問題の原因となっている恋愛離れへの解決策として恋愛に至る経路の複線化をやろうとしているのが東京都の狙いだと思うのだが、問題はそういうことではないのだ。マッチングアプリや街コンをどれだけやろうともマッチより多くのアンマッチを生む以上、それを契機に諦念を持ち恋愛を諦める人が出てくる。そもそもマッチングアプリで見知らぬ女性から求められるような男性はマッチングアプリを使わなくても支障はない。東京都が恋愛離れを解消したいのであればマッチングアプリで求められないような人々をターゲットとすべきであるが、しかし、そういう人にとっての恋愛が成立する要件としては物語や閉じた環境が欠かせなく、それはマッチングアプリで提供されているものとは真逆のものである。

マッチングアプリは恋愛に至る経路を複線化するものだが、恋愛していない人が恋愛するようになるには経路の特殊性を守る必要がある。恋愛が閉じられていれば「非モテ」がモテ云々という指標に晒されることなく「自己完結的淘汰圧」から逃れることができる。そこで初めて自身の客観的価値から自由になり恋愛をすることができる。そうした時間の中で関係が始まり、恋慕が宿り、離れがたくなるというのが一般的な恋愛の経路ではないかと思う。この意味でマッチングアプリで行われているような個人を条件付けし、市場化し、陳列し、比較させるという行為は本来的な恋愛の経路から外れており、言葉を選ばずに言えば最悪であるように思う。

 

あなたの理想の相手を探しますと言われたら誰だって白馬の王子様やシンデレラを求めるに決まっている。そうした「検索」を恋愛の経路にしようとすること、それ自体がなにか大きく間違っているのではないか。