メロンダウト

メロンについて考えるよ

「ホスト狂い」の社会的要因を考えてみる

こんにちは。生きてます。

 

広域強盗の件もそうだったけど立ちんぼといい、だんだん東南アジアみたいになってきてる感が・・・

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女子高女子大育ちのお嬢さんが風俗に沈められたというニュースもあった。

 

この手の話は昔からゴシップ系雑誌の恰好のネタで、お金に困り風俗で働くようになるのはなにも今に始まったことではないけれど、それにしても路上に立って売春行為をするのはなんというかかなり極まった感じを受けてしまう。記事によると彼女達の多くは「ホスト狂い」と呼ばれる状態にあり、ホストへの売掛金を支払うために体を売っているようである。

記事だけ見るとなにか異世界の出来事に感じてしまうけれど、普通に生きている人にだって通底する部分がかなりあるのではないかと思った。

 

何年か前に『最貧困女子』という本が話題になったことがある。性産業で働く女性達のバックグラウンド・生い立ちを聞き取りそれを書籍にしたもので、僕も読んだ時に衝撃を受けた記憶がある。家族・地域・行政から疎外された人が最後にすがるものが自身の肉体であるというのは先進国と呼ばれる日本でも起きていて、けれど彼女たちはそれを特段悲劇とも思っておらず、説教臭い社会よりもお金を払えばそれが虚飾であろうとも愛してくれるホストのことを善人だとすら思っている。それが実際のところなのであろう。多くの性産業従事者が親から虐待されたり愛情を貰えず育ったと言われるせいか、女性を喜ばせるコミュニケーションのプロであるホストに篭絡されそこに依存するのは当然の帰結である、というのが彼女たちにたいする印象であった。

 

そして、この、いわゆる「愛着障害」は彼女たちに限った話ではなく多かれ少なかれ誰の心の中にもあり、それを埋めるものがあれば嘘や詐欺であろうとも飛びついてしまうのが人間の性というやつなのではないだろうか、なんてことを考えてしまう。

ホストが提供するのは「代替的愛情」であるが、愛という強烈なものでなくとも、欠乏感や不全感を埋めるための代替サービスはいまや世の中にあふれかえっている。

最も大きなもので言えばソーシャルメディアだが、いまや友達がいなくともネットにアクセスすれば同じような境遇・価値観の人と繋がることができる。リアルの繋がりよりもネットの繋がりのほうが母体となっている人は決して少なくないだろう。一昔前であればリアルとネットには境界線を引くのが一般的で、ネットで繋がりをつくってもしょうがないといった論調があったけれど、そういう意見もほとんど見なくなった。ネットとリアルがシームレスになりもうどちらがどうという議論自体が棄却される。リアルもネット的になっているしネットもリアル的になっている。したがってどちらが代替的でどちらが母体なのか、という議論がそもそも成立しない。そんな時代となっている。何が現実かという説教臭い問いに答えること自体がめんどくさいので多様性という言葉によってリアルとネットは綯い交ぜとなる。Vtuberだって人間であるという一見すると意味不明な設定だってリアルのひとつとして認定される。つまるところ、随分前から言われていることだが、いまやなにもかもリアルでありなにもかもが虚構なのであろう。

 

Vtuberであれば新しい文化としてポジティブに解釈することができるが、現実との境目を破壊し、虚構を現実に組み込み可能とすれば、その論理を援用する形でネガティブなことも起きてくる。それがホスト狂いの現代的側面ではないかと思う。ホストの提供する愛情を本物の愛情だという形で組み込む。そうした論理は、実のところ、社会全体で肯定されていたりする。

「どちらがリアルなのかがそもそも通用しない」という話は「何が本物の愛情かという問い立て自体が通用しなくなる」という風にも言える。今や「愛」と言うのはどこかこそばゆいものであり、歯が浮くような言葉に聞こえる。少なくとも他人の恋愛に口を出す形で「本当に愛してるの?」と聞くようなことは、ほとんどなくなった。何が真実の愛かと問うことなどもはや誰もしていない。愛情は人それぞれであるというのが大勢ではないかと思う。愛情は人それぞれと言うと聞こえは良い。しかし逆に言えば人それぞれという論理はすべてを肯定する代わりにどんなに歪んだ愛情であろうともそれを否定することが難しくなるという危険性がある。

当然ながらホストが提供する愛情は偽物であり、それも愛情であると肯定するのは危うい。ホストクラブやキャバクラは「偽物だとわかって楽しむ場所」である点で客側にリテラシーが求められるけれど、愛情は人それぞれだという社会然とした考えしか持っていないと偽物と本物の区別がつかなくなり、結果としてホストが提供する愛情を愛だと錯覚し、時に操縦、支配され、依存することになる。

もちろん、ホストにはまる女性の多くが愛着障害にあるというのはいろんなところで言われているため、最も大きい要因は生育環境であるとは思う。実際、親から愛情を貰った人はホストが提供するような愛情は偽物だと容易に気づくのであろう。しかしそうでない人はそれが偽物か本物か区別することが難しい。そして個人の経験によって培った指標を持たない人が採用するのが社会通念であり、その社会通念はいまや虚実すべてを肯定するものとなっている。そうした通年が後押しする形で偽物の愛情を本物だと考えることになる。

 

「何が現実で何が虚構であるか、何が本物で何が偽物か」という区別は、社会的な観点から見ればどんどん捨て去られていっている。それはありとあらゆるものを取り込み、文化として生み出し、市場をつくるという点から見れば確かにポジティブなものだが、しかし人々から虚実の境界線を引く作業を奪っていると言い換えることができる。それは愛情についても同様なのであろう。恋愛における議論についてもモテと非モテといった定量的な話のほうがよく議論になるのは、愛についての結論がもう「人それぞれ以外にない」からであり、どのような恋愛であろうと恋愛は恋愛であるという話に着地する。それを拡大解釈すればホストに狂うことだって恋愛のひとつということになる。それがホスト狂いの社会的機序ではないかと考えられる。

 

 

そしてこうした話はホスト狂いに限った話ではないように思う。

ベタに言えば、おそらく、今の時代、昔よりも良い人が増えた。それは多様性に象徴されるように、区別自体をやめ、なにもかも肯定するようになったからであろう。ネット上では毎日何かを否定している人ばかりが目立つけれど、全体として見れば「肯定主義者」のほうが大部分を占める。そして、何かを否定するよりもまず肯定することは、ほとんどの場合、間違いない選択であると思う。しかしながらなにもかも肯定しているといつのまにかそれが癖になる。そして果てには自身が経験したことのない分野で偽物を本物だと錯覚し、狂うことがあるかもしれない。

ホストに狂うかはわからないが、すべてを肯定しようとする社会の中にあって、それは偽物だよと指摘してくれる機会は減りつつあり、自身が何に狂っているのかすら自覚することが難しくなっているのではないか。そんな危惧を覚える件だった。