メロンダウト

メロンについて考えるよ

誹謗中傷とスケーラビリティズム

リアリティーショーに出演していた女性が自死された問題でネット上、主にSNS上での誹謗中傷について議論が巻き起こっている。

先週も書いたように僕の立場は短文SNSが反射的なコメントを可能にしたことで感情の発火をそのまま投稿してしまえることが問題だというものだ。実際、指先ひとつで人を殺せてしまうのだからこれほどの娯楽はない。そんなもの娯楽ではないと言う人も当然いるだろうし僕もそう思うがある人達にとってはこれ以上ないほどの娯楽なのだ。人を不幸にしたいという欲求はそれほど特別なものでもない。初等教育におけるいじめなどを見ればそれは明らかである。

てきとうに書いたコメントで誰かが右往左往してあまつさえ精神的に参ってしまうことは明らかに快楽の一種だと言える。同様の話にパパ活があるがパパ活をしているパパ側は若い女性の金銭感覚を狂わせることが面白いみたいである。ネット上における誹謗中傷も「他人の人生を自分が握っている感」によってどんどんエスカレートしていく。それはおそらく楽しいものなのだろう。他人が不幸になっていくのを自分自身がコントロールするのを面白いと感じる人は当然いる。そしてそれはネット上に限った問題ではない。誹謗中傷はやめるべきだが絶対になくなりはしない。それはいじめとまったく同じレベルでそう言える。

現実には「対面性」というフィルターがかかっていてネット上よりも誹謗中傷は少ないがネットにはそのフィルターがない。ならばどうフィルターをかけるかを考えなければいけない。

その意味でネット上における誹謗中傷は理性が働くよりも先に投稿ボタンを押せることが問題だというのが僕の考えだ。僕が考えたところでどうにかなるわけではないが笑

ツイッターが典型であるがコメントを主体としたサービス、5ちゃんねるやはてブにしたらばも同様だがそういうものはすべて無視したほうがいいと思っている。適切な批判や議論は誹謗中傷とは別に行われるべきだという意見のほうが強い。しかし誹謗中傷が飛び交うサービスの中で議論するのは不可能だとはっきりと言ってしまったほうがいい。議論にはその俎上にあがるまでにフィルターをかけるべきでたとえば前の記事でも書いたが長文で書くということもフィルターのひとつである。人に何かを訴えたいのであれば文章を尽くせということである。文章を尽くせないほどの熱量なのならば人に何かを諭すべきではない。その点で長文に限定すればてきとうに指先ひとつで感情のままコメントする人をスクリーニングできる。実際、今回の誹謗中傷の件に関しても記事として出る意見はすべて穏当に読めるものばかりだ。

しかしツイッターでは誹謗中傷をやめるべきだという「スローガン」ばかりで実際に意味のある議論がなされているようには見えない。むしろそうやって一人の人間の死にたいして過剰なまでに反応する構造そのものが彼女が自死した原因にさえ見えてしまう。

人が亡くなることは大変に残念でショックが大きい出来事であるがそうやってひとつの話、ひとつのストーリーのスケールを無限に拡大して感情的に正義にする動きこそがまさにSNSの問題ではないのだろうか。

 

その意味でテレビ番組での小さな話を拡大して人格批判する人間とひとりの人間の死をもとに誹謗中傷撲滅をスローガンとして掲げる人間は同じ様式を持ってそうしているように見えてしまう。彼ら彼女らは対立関係にあるように見えるがそうではない。善悪が問題なのではない。ベタに言えば善悪も大事であるが彼らが同様に持っているその様式(ひとつの話を感情的に拡大して受け止めるその拡散性)こそがSNSの本質的な問題ではないだろうか?すくなくとも僕はそう考える。

あの即時性と拡散性・・・拡大主義とでも言えばいいのか、スケーラビリティズムがなくならない限り何も変わりはしないはずだ。

 

なので前回書いたように批判も議論もすべてブログでやればいい。長文にすればそれ相応の熱量を持った人しか書かない。書かないし書けないからてきとうに指先でコメントする人を排除できる。その意味で誹謗中傷をする人もすくなくなる。もちろんものすごい熱量でブログで人格攻撃する人も中にはいるだろうけれどツイッターのようなリプライに比べれば圧倒的に少なくなるはずだ。

「コメント」を主体としたサービスは1VS複数になりがちでそれが批判であろうとも複数であること自体が数の暴力になってしまう。その意味でツイッターはてブは最悪である。僕もそこそこ長いことはてなにいるけれど増田やブログで記事を書いて批判コメントをもらってああ確かにそうだよなと思うけれどそれが複数になると見方が変わる。最初に見てああそうだよなと思ったコメントすらもネガティブに見えてくる。それはけんすうさんが書いていた通りだと思う。

誹謗中傷かどうかよりも、批判の量のほうが問題じゃないかなという話|けんすう

 

そして数の暴力が上述したような拡散主義によってスローガンとして単純化され広まっていくのがツイッターの恐ろしいところである。はてブのようにひとりひとりがスターをつけるなんてかわいいものだ。この人こんなコメントしてましたよと書いた本人の想定した範囲を超えて拡散されることがツイッターの面白いところであると同時に怖いところだと言える。そしてそれが平時においてはいいことに見えている。いいねがたくさんついたりリツイートされたりすれば承認欲求が満たされて面白い。しかしそれは他方では炎上という問題を生む。そしてその炎に焼かれてしまう人も当然ながらいる。それは常に表裏一体でそのツイッターの様式が変わらない限り何も変わりはしない。感情を直接的に他人にぶつける誹謗中傷が悪だというのはその通りだがその誹謗中傷がいかにして暴力たりえているのか考えなければ何も解決しないだろう。

誹謗中傷について - メロンダウト