メロンダウト

メロンについて考えるよ

忘れ去られた問い~男性の生きづらさを言語化してみんとす~

男性も生きづらさを言語化しようと話題なのでさっそく言語化を試みたいのであるが、結論から言えば男性は「産めないから苦しい」のではないだろうか。

よく女性の出産に関して「産みの苦しみ」と言われたりするけれど、「産めない苦しみ」が男性にはある。

 

男性と女性の社会的立場や経済的状況が違うのは様々な統計から明らかになっており、それらに関しては適時修正していけば良いが、何を変えるかよりも何が変えられないかのほうが男性の生きづらさをとらえるには適当かと考えられる。

一言で言えば「問題化できるものだけが問題とは限らない」のだ。

 

僕達は社会的な議論をする際、何を変えるかに着目しがちである。

たとえば女性が抱える問題では受験の点数に男女で勾配をつけたり、政治家が男性ばかりであることは公平性に欠けるため、「変えるべき」だと言われる。

男性が抱える問題に関しても同様に、マチズモや家父長的な慣習は男性自身を苦しめているので変えるべきだと言われる。

これら諸問題に関しては変えるべきものは変えていけば良いとみなが考えている。むろんそこには問題同士が衝突するトレードオフがあったり、現実のリソースの分配で議論することにはなるものの、問題を問題として確認し、変えていくべきだということは皆が同意するところであろう。

 

以上のような具体的問題を可変的問題とするのであれば、一方で人間には不変的問題がある。

端的に言えば男性は女性になれないし、女性もまた男性にはなれない。不変的問題とは言ってしまえばそれだけのことであるが、それだけのことゆえにみな忘れがちでもある。性別が変えられないということ、その不変性にこそ問題の根があり、まずそれを土台にしなければ、特に男性の生きづらさを捉えることはできないはずだ。

しかしながら不変的問題は議論の俎上にあげられることはない。女性は女性であることが問題だと言ったり、男性は男性であることが問題だと言うことは暴論として処理されるのが常である。あるいは建設的ではないとも言われる。いずれにせよ変えることができない問題を問題化したところで解決不可能なので意味がない、と言われるのがオチなのである。

男性は男性をやるしかなく、女性は女性をやるしかない。(トランスジェンダーの方のための性転換手術など方法としてはあるが、性別適合手術と呼ばれているように、別姓になるためのものではない)

そうした前提の上に立ち、そのうえで変化可能なものに絞って社会を変えていこうというのが現在主流な考え方であろう。

しかしながら一方、たとえ変化不可能な問いであろうとも、その問いは厳としてそこにあるのだ。あるいはその不変性ゆえにより強く僕達を捉え、縛り付けているとも言える。問いが解決不能であろうとも、それでもなお問いは問いなのである。

そしてその問いが解決しないからと言って問うことを放棄して良いとは限らない。あるいはその問いを無きものとして社会を構想して良いともならない。むしろその問いが解決不可能なもの(不変)であるという戦慄を皆が共有するところに男性を掬う言葉があるのではないか。そう愚考するのである。

以上の立場から男性と女性の「不変性」について考えていきたい。

 

女性に関する「不変的問題」はみなが知るところである。

女性にとって不変的なものが何かと言えば、すこし刺々しい言葉ではあるが、女体である。ストレートに言えば女性が抱える問題は女性の肉体にまつわるものがほとんどだ。性犯罪はもちろんセクハラなども女体を持つ存在ゆえに男性から様々な視線を向けられることになる。あるいは職場で愛玩的に扱われたり、店舗の集客目的で採用されたりと女性は女体を持つ存在として利用され、消費され、採用されることが少なくない。それがポジティブであれネガティブであれ女性が女性であることは不変なのだ。

ゆえに「社会は女性を女体扱いするな」というフェミニズムの主張は一定程度妥当なものだと言える。社会が変われば女性は女体から離れることができ、自身の肉体は自身のものとして取り扱うことができる。そのような理路を構想することができる。そして、そうした「正しい理路が構想可能」だからこそフェミニズムは社会運動にまでなることができたのであろう。

 

一方で男性に関してはどうだろうか?

男性の不変的問題を可視化・言語化したところでそれは正しい理路を構想し、社会に変化を求めるにまで至るものなのだろうか?

女性のように、女体という不変的問題を可変的問題に接続し、社会問題として取り扱うことができるのだろうか?

結論から言えばNoである。

男性がいくら言語化しようとも男性の不変的問題が可変的問題に接続することはない。

男性が抱える問題はつまるところ「産めない苦しみ」であるからだ。

女性は不特定多数の男性から性的な目線で見られることを嫌悪し、「産むリスク」を共有しうる相手にしか恋愛感情を持たない傾向にある。一方、男性は女性を探して産んでもらうことでしか遺伝子を残すことができない。出産の助け船となり、子供を育て愛することはできても、母体にはなれないのが男性の生得的条件なのである。男性はとどのつまり産むことができない。ゆえに苦しいのだ。

 

産めないゆえに産んでくれる母体を探す性欲に駆動され、時に愚かな間違いを侵したりする。(性衝動)

産めないゆえに母体を探す行為が拒絶されるのは苦しいと感じる。(非モテ

産めないゆえに母体となってくれる女性がいないと知れば自身の存在・肉体は無意味だと悟ることになる。(自殺)

産めないゆえに男性は女性よりも自身の肉体を軽んじる傾向が高く、喫煙や飲酒その他のセルフネグレクトに走り、住居まで無用のものとして放蕩生活を歩む確率が高いのかもしれない(ホームレスの男性比率の高さ、幸福度の低さ)

 

こうした仮説は自由主義の名のもとに唾棄されてきたものである。自分で書いておいてなんであるが、これらは端的に言って愚論の類であろう。個人は個人の責任のもとに一定程度自身の生活を監督すべきであるし、性衝動があるからと言って性犯罪を行うなどあってはならないことである。僕達は自由主義の上に議論を構築すべきであり、母体や女体という表現自体間違っていると、僕自身そう考えている。しかしながらまさにそうした考えの「自明性そのもの」が不変的問題として男性の前に立ちはだかっているのも事実なのである。

 

こうした生得的・不変的な男性の条件を鑑みた時、男性の問題は社会が変化すれば解決する類のものとは到底言えないことがわかる。解決方法としては男性みなが産むことができる社会、つまり「女をあてがえ」しかないわけであるが、それがどれだけの暴挙かを僕達は知っている。自由や人権というこの社会の基礎に反する制度をつくるぐらいであれば、産めない苦しみは男性自身が抱えるしかないと、そう言う他ないのである。

つまり男性にとっての不変的問題は可変的問題にはなりえないし、ゆえにそれが社会運動となることはない。女をあてがえなどあまりにも馬鹿馬鹿しいからだ。それでも産めないという苦しさ、その解決不能な「問いは残り続ける」のである。

それはどこにも吐き出しようがなく、ゆえに言語化したところでたいした意味はない。直截的に女性をあてがえと言っている人もネット上にはいるけれど、それは一般的な男性の意見とは言い難いだろう。ゆえに運動となることもない。

多くの男性は非母体としての肉体を持ちつつ、ある種の欠落性を抱え生きており、それは言語化したところでその「ことばが社会に実装されることはない」ことを知って生きている。

ようするに男性は生きづらさを言語化しないのではない。したところでたいした意味がないことを知っているのである。

 

問いはある。解決策もあるにはある。しかしながらそれを解決することは大きな犠牲を払うことになることも知っている。女性を男性に隷属させるような中世に戻りたいのであれば別であるが、そんなことに同意する人はいない。ゆえに自由主義のうえで最大多数の男性が産めない苦しみからいかに脱することができるかを議論するしかないわけであるが、そのような議論をしても恋愛格差は広がってきてしまったのが現代、自由の結果でもある。こうした状況を見れば「産めない苦しみ」を抱える男性はこれからも残り続け、それは解決不能なまま温存されていくことになるだろう。そしてそれで正しいのだ。自由を破棄することなど今更できるはずもなく、すべきだとも言えないからである。

それでもなおその問いは厳としてそこにあるのだということを、忘れないでいることはできやしないであろうか。ひとりの男性として、男性の男性性を忘れないで欲しいと、せめてもそれを望むことぐらいは、許してほしいのだ。

 

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