メロンダウト

メロンについて考えるよ

心理学YoutuberのDaigoを見ていて思った実務主義という闇

N国ウォッチ記事の続きみたいな感じです。

立花孝志をウォッチしている折、氏に言及しているDaigoの動画を見た。Daigoは立花孝志を分析する動画を挙げている。氏の手腕がいかに先進的か、いかに効果的か、いかに心理学的か、そしていかに実務的かといった感じで褒めている。とても勉強になった。

 

確かに立花氏の弁舌は一見すると論理的である。しかし僕は論理とか心理という言葉を聞くとすぐさま違和感を覚える人間なのでここで疑問を呈することにする。

論理に長け、実務に詳しく知識武装している人間の言葉をなぜみんなそんなに素直に聞くのだろうか。誰かに何かを話すときに完璧な論理を組んで話すのは話者が賢いことの表明でしかなく聞き手の考える余白を塗りつぶしているとも言える。相手を疑わない人間はその論理に自己を委ねることで自分が正しいと錯覚できるが僕はそれが正しいコミュニケーションだとは思わない。あるいはそれが正しい政治だとは思わないしもっと言えばそれが「頭がいい」ということではないと考えている。

 

論理が至上だとみなが考えている世界において話している相手が完璧な論理を組んで喋っている以上、僕たちはそこに異論をはさむことができなくなる。異論をはさむ余地がない=正しいとみな考えている。その論理は確かに「計算として」正しい。しかし異論をはさむ余地がないことは「コミュニケーションとして」正しくない。

 

立花氏やDaigoは意識的にそれらを駆使していて異論がないように論理を構築して喋っているように見受けられる。批判可能なポイントを消去していくことで自分が正しいのだと言っている。似た手法を使っている人にひろゆきホリエモンなどもいる。

自己啓発やオンラインサロンなどのトップダウン式に言葉をパッケージングして出荷している界隈も似たようなところがある。

 

そうして戦略的に論理を駆使する人間のことを必要以上に評価する軸そのものが資本主義的なのだけど、なんでこんなに資本主義が高じて実務主義になったんだろうかという問いに帰る必要があるように思う。

 

 

めちゃくちゃ端的に言えば論理的で頭がいいっていうのはそんなに至上とする価値観ではなかったはずである。もっと人格として穏やかであるとかこの人なら正しい判断をしてくれるだとか抽象的な価値基準が論理よりも上にきていた時代もあったように感じている。それがいつのまにかおまえの言っていることは抽象的だとか具体的なことに落とし込んで論理的な主張をしろみたいな世界になった。

このブログにもなんか抽象的で何を言っているのかわからないといった批判もたまに来るけれど僕はわざとそういうふうに書いている。抽象的ではないこと、あるいは抽象性と接続していないあらゆる具体性はコミュニケーションとしての意味を成さないと考えているからだ。こういう誰が読んでいるかわからないブログなどに関しては特にそうだと思っている。

 

そうして徹底的に具体性に落とし込んで出てきたのが「NHKをぶっ壊す」だったのだろう。めちゃくちゃ具体的である。憲法をどうするかとか国民国家はどのような形をとるべきかとか論理を構築するのが難しい長期的で抽象的なことは遂に棚上げになってしまった。その土壌となったのが現在の日本に蔓延している実務主義だと言える。具体的なことは完全な論理を組みやすい。それゆえ異論をはさむ余地がないぶん正しく見える。しかし政治の現場では不完全で抽象的でベターな選択しか残らないことをこそ考えるべきである。

美智子様が『羊と鋼の森』を読まれた時の感想で

読書は、人生の全てが、決して単純ではないことを教えてくれました。私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。人と人との関係においても、国と国との関係においても

と仰っていた通りに簡単に論理を組まないで複雑さに耐えて物事を見通すことがものすごく重要な時代に僕達は生きているのだと思う。

 

 

NHKをぶっこわすが論理的に正しいことだとしてもその具体的な政策が抽象的、政治的に正しいことに着地するかというと今のところかなり難しいように見える。

抽象性の現場である政治を具体性によりハッキングするのはおそらく、これからも続くだろう。それはポピュリズムなのか反知性主義なのかアベやめろなのかなんなのかわからないけれど、それでもなんとか複雑さに耐えていくべきである。