N国に投票した贖罪としてN国批判記事を続けて書いていきます。
経済学にゲーム理論というものがある。めちゃくちゃ簡単に言えば自分がこう動いたら相手はこう反応するだろうといった具合に行動の指針を戦略的にのみ考えるロジックをゲーム理論と言う。
立花氏の手法は政治的というよりも民衆の反応を予測して戦略を組んでいる点でゲーム理論に準拠した方法を取っているように見受けられる。メンタリストのDaigoもその手法を評価しているみたいだけれど、政治的に正しいことと戦略的に正しいのを同レベルで考えるとやばいことになる。
ビジネスや恋愛などとは違い、政治の現場においては政治的な価値のほうが戦略よりも上位に来るべきである。戦略のみを重視し、大衆を扇動し、動員し、数を集めることだけを目的として政治を動かせば必ず間違える。
なぜか?
社会はありとあらゆる契約の上に成り立っているからだ。ルソーが社会契約論で何を言ったかと言えば様々あるけれど最もベタな言い方をすれば社会は契約関係があって初めて成り立つということである。
ルソーは社会は契約のもとに成り立つと説いた。ヘーゲルは「私」ではなく「公」を意識しなければならないと説いた。ロックは自由を説いた。マルクスは平等を説いた。フリードマンは新自由主義を説いた。
僕達の社会において当たり前に存在する概念はほとんどが後天的にできた価値基準である。自然にできたものではない。自由も平等も本来、僕達には備わっていない価値観だ。歴史の悲惨さを見ればすぐにわかる。僕達はすぐにそんなもの忘れる。殺し、犯し、奪い取る動物である。明日から殺人が無罪となれば日本だけでも10万人ぐらいは殺されるんじゃないかな。
自由であること、国家が治安を守ってくれること、司法が正義をくだしてくれることが当たり前だと思い込んでいる。
他の価値基準で言えば金、法律、司法、国家、マーケット、私有財産などもすべて自然なものではない。あなたが持っているお金や住んでいる家があなたのものであることは自明のものではない。すべてが一定の価値基準の上に成り立つ契約のもとに世界は成立している。
人間は世界を基礎づけている価値を知らない素の状態だと簡単に暴力になびいたり、目先の損得に走る。
だからN国党のように戦略的に政治を動かすのは先人達が築いた政治的、経済的価値そのものへの冒涜だとすら言っていい。
僕達が当たり前に享受している様々な価値を当たり前だと信じ込んで目先の損得で投票行動を行うのをポピュリズムという。
自由や平等よりもNHKに払う年間2万円弱のお金のほうが大切だと思う人は本来いないはずだ。
その意味でN国党をほめまくっているメンタリストのDaigoもポピュリストと言っていいだろう。戦略的なことが正しいと考えている人間は価値の比較をしない点で政治的に正しくない。
NHK問題などどうでもいいというとN国信者から批判がくるかもしれないがあえて言うとNHK問題などどうでもいいと僕達は考えるべきである。NHK以上に大切な価値観を保守すべきか変えるべきかこそを考えてこそ政治的に正しい。
政治をゲームのように戦略的にハックして大衆心理を動かすのは正しくない。それが賢いことなのか頭がいいことなのか論理的なのかどうなのかなど関係ない。政治的に正しいかどうかが政治におけるすべてである。
そもそもポピュリズムとは民主主義における現象であって政治でも思想でもない。
いつだったかBABYMETALは存在として痛快であると誰かが評していた。今までのメタル的な枠組みを解体していく様が存在として痛快である、と。
N国党の立花氏の動画をを見ていても似たようなことを感じる。今までの政治の枠組みを壊していく様はBABYMETAL的である。マツコデラックスに突撃したり既得権の象徴でもあるNHKをぶっこわすという行動しかり
今までの政治家像からは考えつかないような振る舞いは「存在として痛快」である。しかしそれだけである。彼は政治家ではなく現象家でしかない。
なんてことを書いているけれど本当になんで僕はN国に入れたのだろう
他に入れたい党もなかったとはいえひどい投票をした。はぁ。。。