メロンダウト

メロンについて考えるよ

生きづらいのではない、生きる意味がないのだ

生きづらい。不幸だ。格差が広がっている。閉塞感がある。

などなどもう手垢がついた言い回しにすら聞こえるほどここ20年ほどの間、日本は失速してきた。経済的にもデフレが続き、それを一因とした少子化などによって社会も失速していった。それらを解決しようと政治が試みても実質賃金は上がらず人口減が続いている。それに伴い年金は事実上破綻して格差は広がるばかりで、とネガティブな話をすればきりがない。

しかしそれほど生きづらいだろうかとも同時に思う。生きづらいという言葉には外部の条件を示唆するようなニュアンスが含まれている。外部条件として考えた時に日本で生きることが難しいのは本当なのだろうか?僕は生きづらいという言葉には齟齬があると思っている。

自分が置かれている状態を言葉にするのはとても大事な作業である。それゆえ単純に「生きづらい」とワンフレーズで結論づけてしまうことはかなり危うい。特にこういう生きるといった重要なテーマでこそ慎重に考えるべきである。わかりやすい言葉で自分の現状を認識するのは拡散性があるので共同性もある。生きづらいというと共感してくれる人たちが集まってくる。しかしそれは危険だと思う。生きづらいが真であるかのごとく錯覚してその言葉に意識を「持っていかれる」可能性がある。

 

なのでここでは「生きづらい」に疑問を呈してみる。

生きづらいは様々な意味を射程とする言葉であるが一般的には「生きることが難しい」に変換される。政治的にも経済的にも社会的にも失速している日本は外部の環境が劣化しているので生きることが難しいにも一定の説得力がありそうだ。

しかし生きることが難しくはないだろう。日本の治安、インフラ、食糧事情、利便性などを考えればこれほど生きることがたやすい国はない。夜中に女性が一人で歩いていてもおかしくない国はかなり恵まれている言える。

生きるためならスーパーで豚バラと白菜でも買って鍋にすれば生きることはたやすい。餓死することはほとんどありえない。

社会的側面では偏見などもいまだあるにせよ独身差別やLGBT差別も少なくなり、女性も働きやすくなりつつある。

昔みたいに町は土着的で終身雇用ではいった企業に人間性を染められるようなこともない。

海外旅行に行くのも格段に安くなった。

この国は「外部条件的には生きやすくなっている」と言える。生きづらいと言っている人たちもその恩恵は享受しているはずだ。それでも生きづらいというには何か別のもっと抽象的な理由があるはずだ。

 

昔の土着的な差別や偏見、または戦争などによる生きづらさと現在僕達が暮らす社会における生きづらさは全く別のものになっている。

昔は自由がなかった。自由に同姓を愛することもできなければ自由に結婚相手を決めることもできず生き方が固定化されていて生きづらいと感じている人が多かったのだろう。今はそんなことはない。個別ケースで見れば前時代的な環境にある人もいるだろうけれど昔ほど他者の生き方に口を出す人は少なくなった。自由で、個人が尊重されるようになっていってる。

 

しかしそれこそが問題として噴き出してきている。今、僕達に起きているのは自由な個人でいるゆえの問題ばかりだ。

人が一人でいる限りそこに生きやすいも生きづらいもない。ただ個人の欲望があるだけである。欲望を満たすための条件なら今の日本は充分に整っている。しかし食べて寝ているだけでは生きているとは言えない。個人である限り物語もなければ愛情も友情も正しさもなにもかも存在しない。

人間は一人でいるかぎり欲望を発散するだけの動物である。手段の違いはあれど個人の目的はすべて欲望の範囲に収まる。共同体意識がなければ自分より他人を優先することもない。他者を多様性という金言で隔離しているかぎり自分を脅かす人として他者は存在しえない。

個人主義者は欲望が合致した人間と性的欲望を満たしあったりすることもあるがそこに一切の物語を認めようとはしない。論理的に整合性がある関係にしかなびかない。僕達はそれを自由と呼ぶ「ことにした」のだ。個人と個人が侵食しない安全な関係だけが関係として成り立つ社会は欲望を満たす社会においては完璧な社会である。しかしそこに自己を脅かす戦慄はない。異性愛者がレズビアンやゲイをくどくのはタブーであり、好意がない異性同士が言い寄るのはハラスメントとなる。

そういったルールが出来上がっていくと他人が他人を見る時にも自由主義個人主義的観点から干渉しないようになっていく。他人が自己に干渉しないようになっていくとますます個人主義が加速して欲望しか残らなくなる。

 

一見すると個人が自由に生きていい社会はいい社会であるかのように見える。しかし同時に自由を尊重する社会に生きている人間は他者から侵食されていないゆえに自分の欲望だけしか持ちえない。自分より大切な他者を持つことが人間を人間にする唯一のものである。しかし個人主義社会は自分が自分ではなくなるような他者の存在を許さない。

そうして人の物語はなくなっていく。物語がなければ生きる意味もなくなる。お金を稼いでいいねを集めて承認欲求でブーストされ手段は問わずに有名になりたい歌が下手なアイドルが量産されてもそれを批判できない社会。

個人は客観性を持ちえないので簡単にメディアに煽動されてポピュリズムが台頭していく政治。

国家という仲間意識を持たないので利便性のみで利用サービスを決めてアマゾンに搾取される日本の経済。

いかに会社(個)の利益をあげるかしか考えていないから技能実習生を奴隷として扱う経営者。

 

この社会は個人が自由に生きていい社会である。しかし個人が尊重されるだけ他者にたいして不可侵になっていく。つまり他人から望まれない人々にとっては生きる意味がない。他者がいない限り人間が生きている意味もなければ物語もない。

この社会は生きづらいのではない。生きることが自由であるゆえに生きていることに意味がないのだ。