一般的に、悲しみは人間を弱くする。良くも、悪くも。
社会的には弱さや悲しさを知っている人間が本当の強さを獲得できるといった逆説が美談として採用される。それはポジティブな考え方でしかなく現実の肉体を持った人間はそんなポジティブに消化できるほど・・・それこそ「強くない」。
京都アニメーション放火事件に即してフェイクニュースとおぼしきものやそれに過剰に反応するツイッタラーや報道などが問題になっているようだ。
https://www.tyoshiki.com/entry/2019/07/28/234214
京アニ被害者の遺族です。
— 。 (@PQNKHmbGgrA8wEe) 2019年7月28日
記者達がどこから嗅ぎつけたのか、実家に押しかけ、葬儀場に連絡し、黙って押しかけ勝手に撮影しています。
何がしたいんですか?
そんなに悲しむ様子を撮って面白いですか?
報道の自由って、何ですか?
死体蹴りですか?
私達のプライバシーは無視ですか?
続きます↓
理知的な判断をせず、目の前の情報に即時反射して感情をぶちまけることは正しくない。ここで言う正しくないというのは「知性的」ではないという意味だ。京アニ放火事件の遺族(真偽不明)のツイッターはマスコミにたいするデマゴーグかもしれないと判断して留保するのが知性的だというふうにtyoshikiさんは書かれている。誰かの言動に踊らされ、真実とは関係のない反応をしてしまうことがネット作法的に正しくないというのはその通りだと思う。
しかし今回の事件に限って言えばデマゴギーによって踊らされてる人の気持ちもわからないでもないのだ。それだけショックが大きかったのだろう。個人的にも今回の事件はショックが大きい。ニュースとしては東日本大震災以来最もショックなニュースだった。東日本大震災では知人が亡くなっているのであれはニュースとしてよりは自らの周辺で起きた出来事と感じている一方で、京アニの事件は他人に起きた不幸として報道されたなかでは最もショックだった。
そこまでフリークなアニメファンでもない自分にとってもこれほどショックだったのであればオタクの人達の心痛はいかほどかと思う。
悲しくて悔しくて怒りでどうにかなりそうでそれでインターネットで情報を集めているうちに悪意あるフェイクニュースにたどりつき、それを反射的に拡散してしまったとしても「しょうがない」と思うのだ。悲しみは人間を弱くする。よくも、悪くもだ。
なので、なんというかそこまで愚かさに限定して語っていい話ではないと思う。インターネットの書き込みを見てポピュリズムは愚かだ、ネトウヨは愚かだ、ラディフェミは愚かだといった意見をよく散見する。しかし彼らにも正当性はなくとも理由はある。そう考えることとなった理由を構成する背景が何かを考えればすくなくとも単純に愚かだとは言えないとも思うのだ。
今回の事件に関してはNHKの記者が事件に関連しているのではないかといったまとめサイトの情報などもあったが、誰かのせいにして(一応の)事件の論理を構築して憎しみをその敵に向けて消化するのがよく見られた。件のツイッターもそのひとつだろう。そういうものに即時的に反応すること。それは絶対に正しくない。正しくないと、すこし冷静に考えれば誰でもわかることなのにそれでも敵を設定せずにはいられない。
考えるよりも先に感情が動く。そういうふうに人間はできているものなんだろう。そして僕はそれはそんなに悲観するべき現象ではないような気がしている。それだけの悲しみを持つほどに何かを好きでいることは良いことだ。愛情が強ければそれを失った時に同量の悲しみや憎しみを持つことになる。それだけ京アニは愛されていたんだなと、それだけの話のように見える。
悲しくてそれを忘れるためにフェイクニュースに飛びついたってどうということはない。それが真実でなければ一時的に消化されるだけのものだ。それで溜飲がさがるのであればフェイクもデマゴギーもどんどん自らのために利用すればいい。それでもフェイクニュースが特定個人の現実に侵食するほどに悪意をもって拡散した場合には「それはまずいよ」と冷静でいられる人が言ってあげればいい。今回のツイッターはマスメディアという個人に比べれば抽象的なものを材料にしているのでそこまでの悪影響はないだろう(仮にフェイクだとすればの話)。
マスコミ叩きの材料に利用されるぐらいかわいいものだ。
悲しい人がいて悲しさゆえに間違った行動や考えを持ってしまうのはとても人間的である。それがインターネットを通すとなぜか悲しさゆえに間違う人を愚かだと思ってしまう。しかし僕は彼らの立場に立たざるをえない。
きっと僕は同じように最大限に愛している何かを失った時に、同じように冷静でいられなくなり、同じようにそれが嘘でも自分の悲しさを消化せずにはいられないからだ。
今回はまだすこし距離を置いて物事が見える「他人」でいられる。しかし彼ら(フェイクやデマゴギーに踊らされる人)と僕はそれほど・・・というかまったく違わないだろうと確信もしているのだ。