杉田氏と小川氏の記事が原因で休刊というはこびになった新潮45
何か違和感がある。
というかブログを書くのが一ヶ月ぶりですね。おひさしぶりです。
発端は杉田氏がLGBTを称して生産性がないといった記事を掲載したことであるがそもそもこの記事が炎上し袋叩きになったことにもすこし違和感がある。
LGBTが生産性がない・・・というのはこれはヘイトではなく認識の錯誤でしかないようにも思える。実際こういうLGBTの理解が前時代的な人はすくなからずいる。ゲイwwwなどと嘲笑するような人ではなくとも時代がLGBTを存在せぬものとして扱ってきて教育も受けていない人が(いくら年齢を重ねていても)そういう甘い認識になることは当然だとも言える。
「大人」というとあらゆる事物にたいして適切な見方ができる人のことを想像するだろうが正しい認識を得る機会がなかった人はいくら年齢を重ねていようとも乳飲み子のような無知を披露してしまうことがある。それが恥だといってしまう言論空間そのものの空気こそが問題だとも思える。というかそういう正解不正解で決定するような教育や言論空間が前時代で恋愛的不正解としてのLGBTを供出したのではないのか・・・
いまLGBTに関する正解不正解は逆転したけれどその空気そのものは変わっていないんだなというのが一連の騒動にたいする僕の見方だ。
寛容さとは何かという問題だと思う。単にヘイトだと片付けていい問題ではない。
LGBTに関して無知だと言ってももちろんなかには知らないことにたいしても思考を働かせ感性によって正しい行動を取れる人もいるだろう。しかしあまり一般的ではない。何が正しいのか、何が適切なのか判断する時に多くの人は知識によって判断する。何が是か何が非かっていうのは時代によってめまぐるしく変わる。原理的なキリスト教的世界観ではLGBTはいけないものだと考えるだろう。多様性のもとにおいてはLGBTは肯定される。
そしていまの時代では個人の生活一般にたいして「神的」に規律を強制することは自由のもとにおいて許されない。
大きな話にすればLGBTに限らず社会的に望ましい人間像というものを語ること自体が許されていない。社会人的スキル、恋愛に最適化された性格、良い夫、良い妻など語りうるものがさまざまあるにはあるがそれは一般化して語られた瞬間に批判される。
しかしなかにはそういった人間像や規律が人間を構築すると信じている人、規範や権威が大人をつくると信じている人がいる。ヘーゲル的世界観だと言ってもいいかもしれない。ヘーゲルが「人倫」と言っていたものだがそういう客観的人間像は語ることそのものが許されない。
それは恋愛におけるLGBTもそうだろう。「客観的性」なんてものはこの世界に存在してはいけないのだ。
さて
杉田氏がLGBTが生産性がないという発言をしたことについてだがこれに関して思うのは彼女への批判にさいして誰も憐れみの視線を向けることがなかったことに違和感があった。
LGBTがなきものとして扱われてきた時代の被害者だという視点が抜け落ちているように見える。たとえば子供がゲイを気持ち悪いといった時に大人はそれを諭す責任があるし実際にそうする。同じように教育上そういう知識を得ることがなかった大人にたいしていまこの時代のマジョリティーと言っていい僕達がやるべきは知識がない大人にも子供にたいするそれと同様のまなざしを持って諭すことのように思える。
これは保守とかリベラルとかいう話ではない。なにせ彼ら彼女らは右左を考える以前にLGBTに関して考える機会すらなかったのだから。前時代の常識をそのまま吹聴する言論にたいしては断固として批判すべきだが彼ら彼女らを多様性のもとにヘイトだといって排除するのは寛容性においてしてはならない。
ヘイトには先天的なヘイトと後天的なヘイトがあると思っている。
子供が無邪気に人をいじめ障碍者を馬鹿にするような人間の動物的感情によるヘイトが先天的だとしたら前時代の価値観をそのまま言ったらヘイトになるような後天的ヘイトとがある。杉田氏のそれは明らかに後者だろう。ヘイトだといって批判することは僕もするべきだと思うが前時代の世界観そのままに現在も生きているだけの無知であれば教えてあげればいいというそれだけの話にも思えてくる。
リベラルは多様な人が存在することを受け入れる寛容さだけではなく無知な人を受け入れる寛容さもあって然るべきだ。それはヘイトを受け入れるべきという話ではない。
ヘイトは許されないがヘイト的無知は受け入れ諭すべきである。それが自由主義者の数少ない責任のひとつでもあるし他者へ及ぼせる数少ない善のひとつでもあると思う。