メロンダウト

メロンについて考えるよ

「嘘」に手を突っ込むことは差別なのかについて考える

先日の記事に興味深いコメントを頂いたので記事にして返信したいと思います。
 
Runawayfromwarsofjusticeさんのコメントです
 

確かに「リベラル」が杉田氏の論文を読まずに過剰反応しているといったことはあるでしょう。また、本件に限らず、「リベラル」が「差別的言動」に対して過剰反応した結果対話可能性を失っているとか、選択的に「敵」の差別のみについて問題視しているとか、そういったことはあると思います。また、当の「生産性」についても、かなり誤解を招くつたない表現ではあると思いますが差別の意図があったとまでは言えない、という指摘はその通りかと思います。しかし、杉田水脈氏の新潮45論文を「差別とは言い難い」とするブログ主さんにも賛同できません。]

>普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。

>T(トランスジェンダー)は「性同一性障害」という障害なので

これらは、LGBを「普通ではない」と言い、Tを「障害」と断定しています。この二つ、特に後者については、はっきり差別と言っていいと思います。

 

 
杉田氏の論文に関しては一字一句までは覚えていないのでこうしたコメントをいただけるのは大変ありがたいです。
 
>T(トランスジェンダー)は「性同一性障害」という障害なので
これはまあ、差別だとは思います。トランスジェンダーは左派からもTERF(トランス排除的ラディカルフェミニズム)とも議論になっているので現状で最も難しい性ですよね。
 
>普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。
「LGBが普通ではない」とまでは書いていないので評価しづらいですが、文脈からしてそうとも読み取れるので差別的だとは思います。
 
気になったのが後段の「『これ(同性愛)でいいんだ』と、不幸な人を増やすことにつながりかねません」の部分でした。この文章を解体すれば保守とリベラルが同性愛の問題で何故対立するのか、あるいは何故保守の言葉はすぐさま差別として回収されがちなのかがすこしだけ理解しやすくなるのではないかと思い記事にしてみます。
というのもこの文章を見た時に思い出したのですが、現実にこれを言い出した友人を知っているのですよね。その友人とは仲が良く昔一緒に飲みに行ったりしていたのですが、久しぶりに会った時に彼女いるのかみたいな話になり友人が「女性に興味がない」と言いだしたことがありました。その友人とは「そういうお店(キャバクラうや風俗等)」に一緒に行ったこともあるのでそんなわけはないと思っていたのですが、結局、皆の前では自己防衛的にアセクシャル(無性愛者)を謳っているだけだと帰り道で言われたことがありました。人が大勢いる場所だったので非モテだったりそういう面倒くさい話になるのが嫌だったのだと思います。
 
男性だけでなく女性に関しても似たような事例はあると思います。たとえば同世代が結婚や出産をしていく中でバリキャリで働きながら男性には媚びないと対外的にはフェミニストを名乗るけれど、内心では「女としての幸せ」のような近代では忌避される動物的葛藤に苦しんでいる女性もいるでしょう。
 
人が語っていることが本当かどうかはまあ、傍から見てもよくわからないものだと思います。
 
似たような話で、病気を装うことで利得を得ようと振る舞うことはミュンヒハウゼン症候群と呼ばれたりしますが、性やイデオロギーを表明する場合でも自らをマイノリティーの立場に置き利得を得ようとするのはよく見られることだと思います。同性愛というポジションを「利用」する人は一定数います。嘘としての同性愛を装備することで自己を聖域化ししてしまうことはままあるように感じます。日常に目を向けて見ても軽い嘘で自身を良く見せようとしたりその場を乗り切ろうとするのは皆がやっていることで、それを恋愛や性の場面でも使っている人がいるというだけの話ではあります。
 
しかし利用するだけであれば良いのですがやはり嘘には弊害もあり、嘘をつき続けているといつのまにか性自認だったりがその嘘と同化してしまい、杉田氏の指摘する「これでいいんだ」の「これ」から抜け出せなくなるということがあると思うのです。見せかけのつもりだったのに虚実がよくわからなくなってしまう。他者にたいして向けていた嘘が自らに跳ね返ってくる。自らが自明だと思っている性や、あるいは価値観だって決して自明ではなくどこかでその「矛盾の咳」が切れてわけがわからなくなってしまう。自分が何をしてるかわかっている人はほとんどいないなどと言われますが、しかしなんとか整合性を取りながら自らを維持しているのが人間の、まあ心なのだと思います。そしてその整合性が取れなくなった状態(ポジショントークを続け自己が嘘に縛り付けられた状態)は杉田氏の言うところの不幸と、一般的にはそう呼べるのではないでしょうか。
 
つまるところ同性愛には本当に同性愛の人と同性愛を騙っている人がいるということです。あるいは自己防衛的に同性愛を騙り続け不幸になった人も、中にはいるでしょう。同性愛と一口に言っても虚実が入り混じっているのが実情なのだと思います。そして、ここに保守やリベラルという政治的なイデオロギーを加えて考えると杉田氏の主張にも「含意」があることが読み取れます。というのも保守的なイデオロギーでは共同体が自己を形成すると考え自己の薄弱さを前提に人間を構想します。他方、リベラルは多様性などに代表されるように個人を肯定するイデオロギーです。その前提を持って同性愛を考えた時、リベラルは個人が自認する「本当の同性愛」を認め包摂しようとする一方で保守は「嘘の同性愛」を射程にしているという思想の違いが見えてくると思います。保守は共同体や共同体にまつわる言論の影響力やその危険性を考慮し、人間がその共同体によって変質するという前提を持っています。それゆえ保守は善き人間や善き国民になるための触媒、つまり伝統や慣習に重きを置きます。それを「性」にたいしても援用したのが杉田論文なのでしょう。(無論、その援用が適切かどうかは議論の余地がありますが。)
そして逆にリベラルから見た場合、保守が「嘘の同性愛」を語ることは同性愛の存在を認めていないように映ります。嘘を射程とする保守の態度は「同性愛の本当を肯定し認めようとするリベラル」から見た場合、差別にあたります。
そうした保守とリベラルの考え方の違いが同性愛が政治対立や差別問題になる原因なのだと思います。保守が「嘘」を語りリベラルが「本当」を語る。そのようにして読めば差別に回収されることなく「保守の同性愛論」を読むことができるのではないでしょうか。
 
 
とりわけ今のリベラル社会では「性」について嘘を前提にして何かを書くことは大変危険となっています。誰かの性に疑義を呈すること自体が今の社会では差別に当たるからです。しかしながら、対外的な性が嘘か本当かは実のところよくわからなかったり「も」するのでしょう。現実の性はあまりにも混沌としており、LGBTといった枠組みによって定義しうるものではないと思っています。それゆえ何が差別にあたるのか、「本当」を否定することが差別なのか、誰かに打ち明けたその性が嘘の可能性を考慮する必要はないのかなどかなり入り組んだものにならざるを得ません。あるいは、同性愛を差別問題とし聖域とすることで自己防衛の「装備品」として利用されていることも事実です。社会、もしくは人間は多様な性を肯定するだけで回るほど単純ではないと思います。その入り組んだものに手を突っ込むこと自体が差別にあたるとすればそれは議論を妨げることになるはずです。そこで重要になるのが「発話者の表現ではなく態度が差別にあたるかどうか」を注視することだと考えています。読む時にどこが差別かを探すのではなく、「なんか危ないこと書いてるなあ」ぐらいの感覚で読むことで、表現が仮に差別的であろうとも解釈の余地を残せるのではないか、なんてことを思ったりします。無論、それでも差別は差別であると言わなければならないとは思いますが・・・
 
まとめますと、同じ同性愛を語っていても保守とリベラルでは「喋っている言葉」や「前提としている人間観」が違うのです。それを念頭に置いて考えると、表現の適切さといった細部よりも総論が差別に当たるかどうかのほうが重要な観点ではないかと個人的には考えています。そして杉田論文は確かに差別的表現はあると思いますが、総論としては差別ではなかったと、私はそのように捉えています。
 
 
PS: Runawayfromwarsofjusticeさんへ 勝手にコメントを載せてしまったのでご迷惑あれば記事削除など対応致しますのでお知らせいただけると幸いです