最近話題のタコピーの原罪を13話まで読んだ。正直、途中から読んでいられなかった。自殺、いじめ、毒親・・・の中に放り込まれた善意の空回り
描写が生々しいのもあるし、僕自身学生時代にいじめというかいじられというかそんな経験があるので「いじめ物」は正直あまり好きになれない。なので「聲の形」もあまり好きではない。世界が優しくないなんて今更言われたところでなんだっていうのか、と考えてしまうのである。もちろん作品自体は大変に面白く示唆に富んだものであることは間違いない。けれど読んだ時に思わざるを得なかった個人的な感情をあえて書いていきたいと思う。
善悪を描写する時によく引き合いに出されるいじめではあるけど、善悪では語れないという描写そのものが果たしてどれだけいじめ当事者の救いになるのだろうか・・・正直言えばそんなことを思ってしまった。
タコピーの原罪に関するネット上の反応を見ていると「単純な善悪で語れるほど物事は単純ではないことを教えてくれる」という評が多かった。
「単純な善悪で語れることなどほとんどない」その通りだと思う。
まりなちゃんもしずかちゃんも東くんもやんごとなき事情を抱えていて、その末にいじめや自殺などに至ってしまう。誰が悪か、誰が善かというほど単純な話ではないと、タコピーの原罪を読んだ人はみなそう感じるはずだ。タコピーの原罪だけではなく、たとえば進撃の巨人や鬼滅の刃なども悪人のバックストーリーを描くことで読者の善悪判断を揺さぶってくる。いまや多くの作品に広く見られるこうした構造だけれど、ひとつ読者として注意すべきなのは「複雑性を単純化」して読まないほうが良いように思う。
「世界には善も悪もごちゃまぜになっており、単純に判断できることなどほとんどない」は正しいけれど、しかし判断すべき自己は存在する。なぜなら僕達は世界ではないし、現実には読者でも作者でもないからだ。世界が複雑だというのはその通りであるが、それでも判断すべき自己は残ってしまう。
世界の複雑さと僕達のあるべき視座は決してイコールではない。僕達はある物事に直面した際、なにが善か悪かを判断しなければならない。世界が複雑だろうがなんだろうが、である。
ロシアが侵攻してきたら戦うか、逃げるか、交渉するかを決定しなければならない。遠い目で「世界は単純ではない」と宙空を見やってもたいした意味はない。
タコピーの原罪においても、たとえ読者や作家にとって善悪が存在しなくともまりなちゃんにとっての善悪、しずかちゃんにとっての善悪、東くんにとっての善悪は厳として存在するのだ。誰にとってもそうではないだろうか。善も悪もない(判断できない)世界というのは自らを軸足に据えた瞬間に瓦解する「ただの思想」でしかないように思う。あるいは、世界の複雑さに自己判断を「エクスキューズ」してもらうための装置でしかないのではないか。「すいません、世界は複雑なんで判断できません、という判断」こそがむしろ悲劇をもたらす。それこそがタコピーの原罪に書かれていることだと、僕なんかは読めてしまった。
『タコピーの原罪』に描かれている悲劇がなぜ引き起こされたかといえば「善悪判断の不能さ」にある。登場人物全員が不能であるのだ。
たとえばタコピーは異星人であり、人間の感情の裏を取ることができないため、「笑っていればハッピー」という不能さを持ち合わせている。善意を行使するだけの能力を持ち合わせていないのでひどく直列的な感情判断により、悲劇を引き起こしてしまう。つまり「感情的不能」である。
東くんも別種の不能を抱えている。母親の顔色をうかがい、兄との比較でしか自身の存在価値を見いだせないため、善悪を判断するだけの自己を持っていない。自己をもっていないため、しずかちゃんに簡単に篭絡されてしまう。つまり「意志の不能」だと言える。
しずかちゃんも同様にいじめられるのは自らの母親が悪いと考えており、自分の存在をないがしろにし、自殺してしまう点で「存在の不能」だと言える。
まりなちゃんもすべての原因は他者にあるという考えからタコピーに殺人を依頼したりする点で「責任の不能」だと言える。
もちろん子供が不能であることは当たり前ではあるけれど、子供の世界のどうしようもなさをそのまま現実世界の複雑さとして読み、あまつさえリアリティーがあると言うのは正直ちがうように思うのだ。子供には子供のリアリティーがあり、多くの場合、それは子供の不能さゆえに引き起こされる点で世界が複雑だということとはほとんど関係がなかったりする。問題となるのは善悪ではなく善悪を判断する能力のほうであろう。
実際、タコピーの原罪も読めば読むほど「まともな大人はどこにもいないのか」という感想が強くなる。まともな大人、つまり「能力」が必要とされるのがタコピーの原罪に書かれていることではないだろうか。
実際、僕がいじめ、というかいじられを消化できるようになったのも単に大人になり、子供であれば「能力」がなくて当たり前だよなと事後判断できるようになったからだけだったりする。単にそれだけだったのだ。あいつが善だったか悪だったかどうかなんて知ったこっちゃない。あの時あの瞬間、あいつは「嫌な奴」だった。それを判断し、退けるだけの能力を僕も持ち合わせていなかった。必要なのは能力だった。すごくベタにそう思う。
タコピーの原罪は描写や見せ方が上手すぎるのでなにかそこに真理があるように思えてしまい、読者のほうからリアリティーを見出そうとしてしまうのだけど、個人的にはリアリティーやらなんやらというよりも単に子供は無能である。だから大人が必要だというすごく当たり前の感想を持ってしまった。
13話までの感想なので全話読み終えた時にはまた変わるかもしれないけれど、今のところはそのように思う。
以上がタコピーの原罪の感想だけど、もうすこし話を広げて「中庸」について愚考してみたい。
タコピーの原罪だけでなく、多くの作品で「僕達は世界の複雑さを直視し、善悪で判断することは容易ではないと考えるべきだ」と語られている。
こうした話の構造だけれど、正直どうなのかと思うようになった。相手の立場を想像し、それを慮るというのはかなり多くの場面で正しいと思うのであるが、しかしそうした中庸こそがあらゆるところで決定そのものをポーズさせているのではないだろうか。経済にしても今の経済をそのまま維持しようとした結果衰退してきたのが日本経済だとよく言われる。こうした決定の不能は悪い意味での中庸だと考えられるけれど、善悪を中和する思考そのものがむしろ善悪判断をできなくしてしまうのではないか。それぞれの人にとって見れば善悪はある。中庸とはつまり神の視点であり、作者の視点でしかないのではないか。
タコピーの原罪を読んでいたらそんな危惧を覚えてしまったのだ。ありていに言えば「中庸はラディカルではない」と考えるのはそれこそ単純化された世界観であるように思う。中庸には罠がある。
中庸には但し書きが必要だ。世界が複雑だというのは文言として足りない。
正確には「世界は複雑であり物事は単純ではないが、ただしそれはそこから逃げられない場合に限る」である。
たとえば戦争がそうだ。国から逃げれば解決するなどという単純な話ではない。あるいはタコピーの原罪に書かれてるような条件的にどこにも逃げられない子供のいじめなども同様である。もしくは政治や思想など大勢を調停するものもまた単純な善悪で語ることはできない。
しかし現実には僕達は政治家でもなければ思想家でもないし、戦時下にあるわけでもない。世界は無限に開かれており、個々人の善悪が折り合わなければ離れるという選択を取ることができる。
つまり世界が複雑だと語るためには条件がある。
語るべき対象が閉ざされている場合、もしくは無限に開かれている場合である。
前者について言えばいじめがそれにあたる。いじめのような閉ざされた空間であれば善悪で語ることに「意味がない」。子供にたいし善悪を持ち出しても善悪を判断する能力がないためだ。そこで必要とされるのは能力のある大人だと言える。
後者について言えば政治がそれにあたる。無限の他者を語る時にもまた単純な善悪で語ることはできない。誰がどういう生活をしてどういう経緯のもとでどういう考えを持っているか知りようがないため、善悪で語ることは原理的に不可能であるためだ。「私はこう思う」という形でしか善悪を語ることはできず、決定は民主主義に委ねられるのが今の僕達の社会ではある。
逆説的に言えば善悪判断を持ち出しても良い場面とは仕事や恋愛などである。
一見すると仕事や恋愛も無限に開かれているように見えるけれど個々人にとってみれば出会う人もできる仕事も限られているため、無限とは言い難い。また、対象が限定されてもいない。仕事や恋人から離れたければ離れられる点で閉ざされてもいない。ゆえに善悪、いや好悪判断を持ち出してもかまわない領域だと言える。
しかし恋愛もまた中庸的に語られているように思う。ありていに言えば中庸にはまり好き嫌いを判断できなくなっているのではないだろうか、ということを書き出すと「いつもの話」になってしまうので省略するけれど
タコピーの原罪的な作品が日本人にウケるのは世界の複雑さという最もそうな話よりも、もっと単純に「中庸精神に刺さるから」ではないかと思っていたりするのだ。三島由紀夫的な空気に迎合する日本人に、そんな簡単に善悪判断できないよなと語りかけることで「彼らの中庸の慰め」になっているのではないかと、ものすごく露悪的に言えばそんなことを思ってしまったのだが、正直なところただの推測でしかない。ただ、30年後くらいに「中庸ポルノ」みたいな造語も出てくるかもしれないとひそかに思ってしまったのは、リアルに言うとめんどくさそうなのでここだけの話・・・だっピ