メロンダウト

メロンについて考えるよ

差別論争の思い出、あるいは禁煙ファシズムについて

最近の差別論争を見ているとミイラ取りがミイラになってる感を強く持ってしまう。

anond.hatelabo.jp

 

男と女、世代論ばかりで社会問題を語りすぎなのはその通りだけど、それ以外の異物を排除していった論法がそのまま返ってきているだけなのでは、と思えてならない。
誰かにたいしてやったことがそのまま自分達に返ってきて自縄自縛になっている。相対化と言っても良いけれど、なんにせよ僕達の社会は差別を肯定してきたという側面がある。


代表的なのがタバコであるが、公共空間や街中からタバコを排除していっていまやタバコを吸うのは喫煙所だけとなった。あるいはニュータウンなどをつくり「民度」をゾーニングして快適な空間をつくることに躍起になってきた。他にも排除アートや非正規雇用といったものも差別の一種だと言えるだろう。
いまやこうしたものが差別問題として語られることはない。喫煙所以外でタバコを吸っている人は狂人と見なされ、「社会の異物」として扱われる。言い換えれば全員が差別しているため、喫煙が差別問題として扱われることはない。「終わった話」であるため差別ではない、というのが社会的なコンセンサスとなっている。いまや堂々と喫煙者は採用しないと言いだす企業まであるくらいだ。

タバコだけではなく、非正規雇用ウイグルの問題もまた見えないところで行われているだけで差別の一種だと言えるだろう。もっと遡って考えれば、福島第一原発で発電されていた電力のほとんどが関東園で使用されていたことも忘れてはならない。快適な暮らしを得るため、見たくないものを外部にアウトソースし、ゾーニングしてきた。それが僕達のもともとの社会なのだ。

 

適材適所、ゾーニングと言えば聞こえは良いけれど、いずれにせよ僕達は分断≒ゾーニング≒差別を社会に実装してきた。経済的にも社会的にも、そして心理的にもである。

その結果、社会は分断され、個人主義が蔓延し、島宇宙化などと言われ、人々が混ざらなくなり、ストレンジャー(完全なる他者)との関係性を失い、みなが自己に閉じられ、些細なことでも差別だと感じてしまう神経症的社会が出来上がった。それを逐一あげつらったところでしょうがないのであるが、こうした社会の様相そのものを無視し、自らがゾーニングされる段となったら差別と言うのは端的にいって誠実なものとは言えないであろう。

 

言葉を選ばずに言えば男女も世代も差別されうるのは「おまえらの番がきた」というだけなのではないか。

 

今日の差別論争は時に全体主義であると批判されているが、タバコを規制し始めた当時も禁煙ファシズムなどと一部で言われていた。その時の議論をそのままなぞっているかのような論戦に見えてしまう。既視感があるのだ。


厳に言えばフェミニストにとって性的な絵だったりは「不快」なのだろう。タバコがそうであったように。
性的な絵を公共空間から排除することはタバコを排除した時と同じ論理でもって「いける」と考えても不思議ではない。当然ながらオタクは喫煙者と違い静かではないので反論されることになるが、フェミニスト達がそうした言説を採用すること自体にたいし、元喫煙者として痛快に感じる部分もあったりする。

不快をそのまま社会的言説としてぶつけて良いとなれば男女の問題も快不快で争われることになるのはほとんど自明だったはずなのだ。喫煙問題が議論されていた当時からそのような兆候はあったのだから。
そうした言説の危険性を無視し、喫煙や非正規雇用を社会の外部に追いやり、ゾーニングしてきたのだからそれが跳ね返ってきたとしてうんざりするのは筋違いだと言えるだろう。みなが不快を表明して良い社会、かつ不快を理由にゾーニングできるのであれば不快を声高に叫ぶことがつまり社会運動であるという図式が成り立ってしまう。そうした論法には本来、逐一反論しなければならなかったのではないか。
不快でも同じ人間だと、見えないところに追いやるのは差別の一種であると、相容れない他人とコミュニケーションを取るコストはみなが負担すべきであると、そう言わなければならなかった

しかしながら僕達は他者とコミュニケーションするでなく他者を事前に腑分けし規定する道を選んでしまった。そうした社会様式が根底からして間違っていたのではないだろうか。

 

僕達は喫煙者を臭いとして遠ざけた。そうした歴史がいま、男性は危険などという論法を許してしまい、男性が差別される段となっている。女性にたいしてもそうした排除の論理は牙を剥く。「女性はすぐハラスメントなどと言い、被害者面をする」みたいな言説も言われるようになる。老人も認知に問題を抱えている可能性があるため社会にとってリスク要因である云々
などという言説は断じて許されるものではないが、そうした論理で社会をつくってきたこともまた事実であるのだ。「くさい」「リスク」「健康」といった題目を社会的なゾーニングの論理として採用してきたことが今日の差別論争に接続しているように思えてならない。

 

その点、いまネット上で行われている差別論争がラディカルで目を背けたくなるものに見えるかもしれないけれど、まだ見えているぶんだけマシだと言えるであろう。そのうち、喫煙者のように社会の外部に位置付けられ、見ることすらなくなるぐらいであれば差別心は社会の内部に留めておくべきだと言える。論争になっている時点でまだマシなほうなのだ。話が終わり、ゾーニングが完了した時こそ人を異物と見なすような本当の差別が始まるのであるから。


根本的に考えると、なぜ僕達がくだらない男女の差別論争に晒されているのかは、すでにそうした論法が成功してしまっているからである。すでに成功した論法を援用し、対象を変えてぶつけているにすぎない。
そしてこうした剥き出しの本音が肯定されてしまう素地自体は以前から存在していた。関わりたくない他者は遠ざけ、ゾーニングし、不可視化することで快適な生活空間をつくる。そのような「癖」が社会を飛び越え個々人の思考にまで根付いてしまっているのだ。ゆえに場所にたいし属性が付与され、公園にただいるだけの男性が通報されるような神経質な対応をする人々も出てきたのではないか。そうした社会のアーキテクチャーがつまり人にたいしても属性分けするような疑似差別的視点を生みだしてしまい、今日の差別論争に繋がっている、

 

ゾーニングは差別をマイルドにしたものに過ぎず、その本質は差別心を社会に実装するためのエクスキューズでしかないと言うことができる。
喫煙者も貧乏人も私達の生活空間からは見えなくして、彼らは彼らの人生を送れば良いというゾーニングは厳密に言えば差別とまでは言えないけれど、しかしながらそれは差別に接続しうる危険な方法であることは確かなように思う。

 

それをまず「思い出す」べきであろう。