メロンダウト

メロンについて考えるよ

うつ病を考える

台風19号で家にいた時、ひますぎて東浩紀さんのゲンロン0を読み返していました。相変わらず、ツイッターで見る東さんとは違ってものすごくピュアな哲学論考でした。再読にも関わらず面白かったのですがすこし思うところがあったので記事を書いています。

 

ところでブログのURLが変わりました。遂にはてなブログPROに課金してしまった。hatenablog.の部分がなくなっただけですが一応報告ということで。

 

東さんのゲンロン0の論旨は主にこの時代の条件を再確認したうえで「どう生きればいいのか」を論じたものになっています。今までは世界と自己が地続きでいわゆる土着的な生、あるいは国家と連動した生、あるいは家族と連動した生などある程度形式的な生きる型がありましたけど今僕達が生きる時代はそうではないと書かれています。

その時代をどう生きるか、その提案として「観光客」という概念が提示されています。

観光客という概念が何かは多くの書評ブログやアマゾンのレビューなどにも書かれていることですので割愛しますが僕が気になったのはなぜ今までの生き方が通用しなくなったのかということでした。

 

 

ゲンロン0で主軸となっている参照点としてヘーゲルやルソーが挙げられています。

ヘーゲルは家族を主とした他者との関係性により自己が形成されると書いています。人倫共同体といって自然に倫理が発生する機能を持つ。しかし同時に家族のような狭い共同体においては個人は共同体のゆがみに埋没していくと書いています。それを監視する機能としての二次的な共同体として市民があり、その上にさらに高次な国家という概念が倫理を形成する概念として機能するとしました。

しかし僕達は今はそうではない。国家による倫理は機能していない。あるいは市民としての意識もない。そうして下次元化し逆流してバラバラの個人になっているとゲンロン0は確認していると読みました。

ルソーは社会契約論その他の著書において「人間は人間が嫌いでも社会をつくる」と書いています。ここが僕が気になったところです。

 

今、僕達が生きている世界におけるマジョリティーの意見としてなにか「人間は人間が好きではないといけない」というようなことを言われている気がするのです。何度もブログにも書いていることなのでもう辟易している方もいると思いますが、しかし僕個人の感覚で言えばすべてがこの好きではないといけないという強迫観念に紐づいて動いているように感じられるのです。

 

たとえばうつ病などの精神疾患等に関しても昔のほうが社会の条件的に厳しくハラスメントなどが横行していたにも関わらず鬱病が取り沙汰されてきたのはここ最近の話です。以前にも確実に存在していた鬱病が最近になって増えてきたことを単に統計の不備というにはいささか安易に過ぎるように感じます。

「適切に治療する対象として発見する機能そのものが絶望を社会から隔離している」

ようなそんな気がするのです。

フーコーを取り上げた時にも書きましたけど狂気は狂気のみで狂気と認識されることはなく狂気を発見する理性側の眼差しによってのみ私たちの世界に現れることになります。

同じようにうつを発見しそれ自体が異常だとする機能がこの社会にあるとして、それははたして本当に良いことなのだろうかと最近は思ったりします。もちろん精神はとても脆くあまりにもたやすく壊れることは経験的に知ってもいます。治療も絶対に必要です。しかしそれを判定して査定しているのは「誰」なのかという問いが残るのです。

 

 めちゃくちゃ具体的に言うと会社で暗い顔をしたまま働くことができなくなっているようなそんな気がするのです。社会人だから自己管理をしないといけない、お客さんの前では闊達でいないといけない。そんな当然のマナーが当然ゆえに当然ではない人間を許さないのだとしたらうつ病はいったいどこからきているのだろうか。

 

 うつ病の人は世界を正しく認識しているという抑うつリアリズム説もありますけど、世界を正しく認識する人間がうつ病になるのは逆説的に世界のほうが正しくないと言うこともできます。

あっちとこっちで分けられるほど単純な話ではないですし世界といっても個々人が認識する世界はあまりにも違うので一概に言えるわけではない。

しかし僕が思うに正しい世界なんていうものがあるとしたら悲しみや絶望を理解できる社会だと思います。

僕達個人は悲しい人や絶望している人がいたら同情し、寄り添うことのほうが多いと思います。しかし社会はそうではないかもしれない。やさしさを持つ個人が多数な社会があるとしても必ずしも社会の論理がやさしいとは限らない。

むしろ僕達の社会は悲しい人間がいたら機械的に治療するべきみたいな定説に支配されている。

 

 ポジティブな人間はその余力を持って働き、悲しくて生産的ではない人は休む。一見正しいその分断は同時に悲しんでいる人を社会に受容しない機能をも持ちうる。

最近、そんなことを考えます。僕はいつまで「社会人」をやらないといけないのだろうかと。学生の時みたいに授業中に寝てて仮に怒られてもそこに居続けることができたころが懐かしい。

人間は人間が嫌いでもいいし悲しい顔をしたままデスクに座っていてもいい。そういう普通の人間が普通のままいられる世界を切望します。

そういえば最近、「普通の男がいない」なんてエントリもはてなにあったね。恋愛の閾値があがっているのと同じように社会人の閾値もあがっているみたいなそんな話でした。