メロンダウト

メロンについて考えるよ

アドレセンスを見たので感想〜弱いサイクルと先験主義の時代〜

※ネタバレありです。けど本作品はネタバレを見てから視聴したほうが良いかもしれません。

 

ネットフリックスで話題になっているアドレセンスを見た。

 

ごく一般的な家庭で育った少年(ジェイミー)が同級生の少女を殺害して逮捕される話である。

ドラマの主題はインセルの言説に毒された少年である。一般的な少年がインスタグラムなどのSNSを通じて先験的に女性嫌悪を募らせ少女を殺害してしまう物語だ。


最初見た時にこれはサスペンスなのかと思っていた。第一話でドラマが始まるとすぐにジェイミーが逮捕されるのだが、逮捕されて警察官に調書を取られる際、「僕はやっていない」と容疑を否認していた。その後、警察官から犯行の証拠となる防犯カメラ映像を見せられた時にもやっていないと否認して一話が終わる。

一話を視聴した時には冤罪をかけられた少年の物語なのかと思っていた。しかし二話三話と見続けるとどうやらジェイミーは本当に犯行に及んでいたようであるのだ。

三話まで見るとジェイミーはどうもインターネットのインセル的言説に毒されていたことが明らかになってくる。三話では心理療法士がジェイミーと対話するのであるが、そこで薄っすらとジェイミーの動機や衝動性が垣間見えるようになる。「男らしさ」という言葉に過剰に反応したり、対話相手である心理療法士がジェイミーにたいし好意があるか執拗に問い詰めたりとジェイミーが抱える心理的問題が見えてくるようになる。

4話ではジェイミーの家族が悲しみ葛藤する様子が描写されてドラマは完結する。


見終わった時は肩透かしを食らった気分になった。冤罪をかけられた少年がなにか陰謀に巻き込まれてしまう物語だと期待していたからである。しかしながらそうではなかった。少年がインセル的言説に毒され、殺人を犯し、家族が悲しむ。物語の構造としてはそれだけである。

本当は罪を犯していない、なんてことはなく淡々と物語は進行していった。最後までジェイミーは罪を犯していないと主張しているので本当のところどうかはわからないが、ドラマの結論としてはジェイミーが同級生を殺害したであろうという確度の高い情報だけが提示されて終わってしまう。

少年が逮捕され、所定の手続き通りに事は進行し、普通に家族が悲しむなんて見終わった直後はわけがわからなかったけれど、このドラマの主題は「インセル的言説を流布することの危険性」と「外付けの思想」にあるのだろう。


13歳の少年という無垢な存在、なにものでもない子どもがどこの誰が書いたかもわからないインターネットの言説に影響され、自身にインストールし、特にそれといった経験も持たないまま一足飛びでインセルと化していく。なにかステップがあるわけではない。作品内では単にジェイミーはSNSのそういった界隈を見ていたことだけが提示されている。

結果としてはそうした言説に毒されたジェイミーの牙がちょっと素行の悪いだけの同級生の少女に向かうことになるのであるが、何がジェイミーをそこまでの行動に駆り立てたのかは、見てるだけでは判然とせず視聴者側の想像力が必要とされる作品になっている。

一般的に映画やドラマのキャラクターにはバックストーリーがあり、その背景が登場人物の行動理由になっているため、視聴者はその背景によって物語を理解する手助けにする。しかしアドレセンスにおけるジェイミーの犯行理由は見ているだけではよくわからない。ジェイミー自身に少女を殺す動機など、彼の内側にはないからである。作品内では外側の理由だけが提示されている。インターネットのインセル的言説に触れていた、男らしさという言葉に過剰に反応する、自身を理解してくれているかもしれない心理療法士にたいし異常な感情を表出するなど断片的だがこの少年はなにかおかしいと思わせるピースが散りばめられている。ジェイミーの異常性の一端だけが羅列されるだけで、それらを組み合わせても殺害理由としてはあまりにも弱く、見ている側としては納得性に欠けるものになっている。


しかしそれこそが本作品の主題で、無垢な少年が刺激的な言説に影響されるとそれが外付けの思想であろうともその言説が少年自身を構成することになるということなのかもしれない。一般的な見方で本作品を見ると肩透かしを食らう。インセルの言説に毒されて殺人をするなんて行動の結果と動機があまりにもかけ離れているからである。ジェイミーを演じている少年の演技力でなにかたたごとではない雰囲気は伝わってくるが、提示された動機だけを取り出してみると犯罪の背景としては理解し難いのだ。

しかしながら「外付けにすぎない弱い動機が残忍な結果を生む」。

その恐ろしさが本作品が訴えたいことだと思いながら見ると今の社会においてこれほどクリティカルな作品はないのではないかとさえ思えてくる。


僕達は今、あらゆることに「弱く影響されている」。ネット上の言説なんかは良い例だ。誰かがなにかを書く。するとそれが巡り巡って誰かに刺さる。それを受け取った人がその「棘」を増幅再生産していき、また別の誰かに刺さる。そうした弱いサイクルの中に僕達は生きている。その棘は弱いがゆえに放置されがちである。しかし確実になにかを蝕んではいる。

物語としては説得力に欠ける言説、外付けの思想。そんなものをまともに受け取る人なんていない。そういう当たり前の分別がもはや意味を為さない時代がこれからくるのかもしれない。

いまや自己の外側のほうが自己よりも自己である。恋をするまでもなく失恋をし、異性を憎むことができる。そんな先験主義の時代なのかもしれない。