メロンダウト

メロンについて考えるよ

統一教会と安倍晋三元総理銃撃事件についての見解を整理したい

衝撃的過ぎる事件のせいかSNSの意見は混迷している。

統一教会(現家庭連合)を糾弾する意見では陰謀論めいたものから告発文のようなものまで見つけることができ、正直言って判断がつかない。しかし判断がつかないからと放置して良い話ではないとも思うので、今回の件にたいしてどう考えるべきか、その個人的見解を書いていきたい。

 

 

宗教団体の不透明さ

日本において宗教はかなりの部分が聖域化しており、社会の内部に位置しているとは言い難い側面がある。そのため、宗教団体内部における独自の論理、具体的には戒律や教義のようなものが、宗教の自由のもと、事実上野放図となっている。お布施や上納金、年会費、花籠代、祈祷費など調べれば怪しい名目のものが様々出てくるが、非課税であるせいかどこまでが真実であるのかネット上の情報だけでは判断がつかない。今回の事件発生後、統一教会が会見した際にも容疑者の母が破産した経緯を示す帳簿などはわからないままとなっている。事実上闇に埋もれたままであり、団体を糾弾するにも改善するにもエビデンスがあまりないのが現状である。

したがって、非課税であっても確定申告とは別に信者個々人の寄付金額等を記録し、出納帳を保存させるなどの措置は今後議論されるべきだろう

 

 

統一教会の過去と現在

一般レベルでは旧統一教会創価学会の名前は知られていてもその実態までは知られていない。今のところ統一教会という名前だけが独り歩きし、内部事情まではよくわからない。ネットで検索したり、SNSはてな匿名ダイアリーなどに出てくるものを読むに相当やばい団体であるらしいのだが、しかし報道されたものではないため、なんとも言い難いのが実情だ。一部ゴシップ雑誌などで潜入取材を行った記事などを見つけることができるけれど、報道ベースの情報となると数十年前の霊感商法合同結婚式などまで遡ることになる。現在、旧統一教会(現家庭連合)が改善しているのかそうでないのかは不明である。そのため、今ある情報だけでは旧統一教会を社会悪と見なしたり政治的議論の俎上に載せていいかはわからない。但し、過去において統一教会が信者にたいする洗脳活動をし、家庭崩壊を引き起こしていたとするのであれば、今回の事件にたいしての責任は免れないと考えて良いだろう。また、当然ながら霊感商法や洗脳活動は社会悪と断ずる他ない行為であり、糾弾されてしかるべきである。

 

 

宗教の自由と社会的善悪

統一教会について、あるいは犯人の母親が破産したことについて、「宗教の自由」で一点突破するかのような言説が見られる。いわゆる自己責任論者というやつだ。

これについては単純に、宗教の自由は責任を免れる理念ではないし、善悪判断から逃れられるものでもないとだけ書いておきたい。自由は絶対の理念ではないし、洗脳活動のような人民にたいする戦争行為を行えば、人々は家族を守るため、自衛行為を政府に促し国家権力に委託するのは当然である。そのための政治的議論が起こるのもまた、民主主義国家における当然の権利である。

 

 

陰謀論か、そうでないか

一部界隈で、今回の事件を統一教会のせいだとするのは左派による陰謀論だという言説がある。現状では統一教会がどのような団体であるかについて、告発文と過去の報道と団体本部による不明瞭な会見ぐらいしか情報がない。そのため、陰謀論だというのも頷けそうではある。現在の統一教会がどのような団体であるかはよくわかっておらず、教祖であった文鮮明の死去後、団体が改善したのか、権力闘争が起きて過激になっているのかは不明である。

しかしながら、犯人が統一教会に恨みを持っていたという明確な動機を供述している。したがって、統一教会と今回の事件が関係しているという言説を陰謀論とするのは統一教会への批判を無効化し、類似の事件を引き起こしかねない点でそちらのほうが危険な言説であろう。統一教会の実態や事件の背景がどうあれ、犯人が統一教会への復讐心から犯行に及んだことは明らかな事実である。陰謀が事実と紐づいている可能性があればその陰謀を紐解いていくべきであろう。

 

また、統一教会を糾弾するのは陰謀論だという主張が出てきているのは、リベラルがかつてアベヤメロなどのシュプレヒコールを行っていたこととも関係しているように思われる。今回の事件を陰謀論的に論じているリベラルはアベヤメロの責任から逃れるために行っているのだろうと邪推しているのだろう。安部氏の訃報にたいしてリベラルの責を政治的に訴えたいという反リベラルの動機が統一教会への糾弾を陰謀論として扱っているように思われる。

当然ながらリベラルのポピュリズム的動員や「アベシネ」などは、それはそれとして問題であるが、それと今回の事件は今のところほとんど無関係だと判断できる。

 

 

無敵の人か怨恨か

いわゆる今回の事件は無敵の人によるものかそうでないかという議論がある。

個人的見解としては、前回の記事に書いた通り、動機としては怨恨だが境遇としては無敵の人に重なると考えている。動機が統一教会への復讐であったとしても、その物語や恨みを発露する時には境遇が引き金となることがある。動機だけを単純化して見るとイレギュラーな個人がいたという言説で処理されてしまうし、孤独な境遇という大きな話で捉えた場合にも大きすぎる話に回収されてしまう。そのどちらもが危険であるように思う。小さい物語と大きな物語のどちらもを注視し、複層的に考えるべきだろう。

無敵の人、怨恨、宗教二世、ロスジェネ、孤独など様々な要素があるので単純化して捉えるべきではない。

 

 

組織票が影響力を持つ投票率の低さ

安部元総理がなぜ統一教会と関係しており、機関紙である『世界思想』の表紙に出ていたのかについてだけれど、これについては国民の投票率の低さも関係しているのではないかと思われる。というのも、統一教会の会員は2015年時点で国内に56万人いるとされており、かなり大規模な集団である。安部元総理の立場になって考えた時、思想云々の話ではなく、これだけの数を政治家が無視できるかと言えば、そのイデオロギー如何にかかわらず相当難しいことが推測される。到底無視できる数ではない。ましてや政権与党である自民党は国民全体から支持を集める必要がある。その中で56万人は極めて大きな数字である。

さらに言えば、日本では政治的無関心が長年続いており、投票率が依然低いままだ。また、イデオロギーや政策によって票を集めようとしても国民のイデオロギーはバラバラに発散しており、雰囲気で票が右往左往しているのが現状でもある。実際、保守と呼ばれる自民党でも岸田総理の政策は左派寄りであり、イデオロギー対立はどこ吹く風なのが今の政治である。これは浮動票が大半を占める国民感情を反映していると言えるだろう。

しかし、そのような浮動票が大勢となった時に問題となってくるのが「政治家はどこから票を集めるのか」である。

以上のような状況下では、経団連や医師会に宗教団体などから票を集めることは、極めて合理的な行動だと言わざるを得ない。ましてや、安部元総理は自民党の代表でもあったわけで議員を数多く当選させるのが職務でもあった。こうした政治状況の中で、票田としては極めて強固な宗教団体の56万票を無視できるかと言えば、かなり難しいと考えざるを得なかったはずだ。

理路として帰責するのであれば、国民の政治的無関心が組織票の影響力を強くし、政治家は票としての清濁を併せ飲むしかなくなったことを国民は考えるべきであろう。国民が政治家を注視し、悪を排除できるだけの信任を与えることで政治が政治として屹立し、宗教団体の政治的影響力を小さくすることができたのではないかと、今更ながらそんなことを思ってしまう。

 

 

テロリズムかそうでないか

今回の事件は私怨によるものであり、犯人が政治的な目的を持っていないのでテロルではないという意見がある。確かにそういう見方もあるかもしれないけれど、結果的にはテロルである可能性は否定できないだろう。

犯人の動機がどうであれ、戦後最長の任期を務めた元首相が暗殺されるという事態、その衝撃はなんら変わるものではないし、社会の動揺も極めて大きい。そして暗殺という結果にたいしては、たとえば警備体制が見直されたり、政治家と宗教団体の関係にメスが入り、自民党内部の勢力図が変化することになる。そしてその果てに統一教会が解体されることにもなるかもしれない。仮にそうなれば、暴力を行使した事により犯人の目的が達成されたと言えるだろう。動機や過程がどうであれ結果が達成されてしまえば、法外の暴力がこの社会においては有効だという不安を国民全体が抱くことになる。

その不安を宥めるのがテロにたいしては肝要なことであるように思う。今回の件に関して言えば統一教会の実態などを明らかにし、政治が時に介入することも辞さないなどの結論になれば国民の不安感情は、程度としてではあるが落ち着き始めるはずだ。

しかしながら、逆に言えば犯罪者にたいし過度な同情を向け、政治は信頼できないから自力救済するしかないという方向に行けば、それは今回の事件がテロリズムであったと後天的に証明することになる。

今のところテロルかそうでないかはわからないように思う。ありていに言えば歴史が判断することではないだろうか。

 

 

以上です