メロンダウト

メロンについて考えるよ

物語をあてがわれるということ

ゲームオブスローンズ最終章でティリオン・ラニスターが「この世界で最も強いものは物語だ」と言っていた。最近、この言葉をとみに思い出す。

 

安倍元総理銃撃事件から一か月以上経ち、山上容疑者の生い立ちや境遇に同情する声が聞かれるようになってきている。いわく「山上は烈士である」「山上は現代のジョーカーである」など彼の物語に同情する声が少なくない。最近は山上ガールズなども出てきているみたいである。統一教会との関係も引き合いにしながら自力救済に至るしかなかった彼の境遇に同情が寄せられるのは自然といえば自然ではあるのかもしれない。

 

しかし思い返すに、僕たちはいつだって物語に振り回されてきた。昨今のフェミニズムに代表されるような女性の物語、SDGsのような地球の物語、弱者男性論などの男性の物語、戦争、差別など物語を導線に人が集まり群れをなすことでなにか大きなものが形成されていった。他人と物語を共有することで共同体を形成するのはいたって普通のことではあるけれど、同時に思うのが、ネット社会になったことで物語の流通速度が極端に高まるようになったことだ。

もはや映画のような感覚でインターネットを眺めている人が少なくないのではないだろうか。僕たちは今、ネットを覗けばすぐさま他人の物語を見ることができる。その物語を背景に展開される主張に賛成反対などと鍵かっこつきの「批評」をすることもできる。あるいはその物語が他人からどう見られているのかという客観を眺めることもできる。

物語・批評・客観的評価を即座に並べることで何がどこに位置し、どう判断すべきなのかも瞬時に知ることが可能になった。

その連環の中で起きるようになったのが誰の物語が最も強いか、である。女性のほうが社会的弱者である、あるいは男性のほうが真の弱者であるというジェンダーの議論にしてもどちらのほうがより強い物語を持っているか、という話に結局のところ着地する。あるいは政党政治の現場にあっても保守やリベラルという思想よりも党としての物語が強いほうに票が集まることになる。その「物語政治」の代償として陰謀論などの嘘の物語を展開する政党とそれを支持する人々も出てくるようになった。

いずれにせよティリオン・ラニスターが言うように政治や社会を動かす上で物語が最も強い力を持っているのは、この日本社会にあっても変わることはないように思われる。

 

以上のような観点から振り返るに、「山上の物語」は、彼の境遇から生み出される政治的主張とは裏腹に、非常にわかりやすくかつ強烈なものとなっている。だからこそ危険であると注意したほうが良いように思う。

 

統一教会が裏で自民党に食い込んでいて、その権力構造が宗教2世が抱える苦悩をより困難なものとし、堆積したルサンチマンが爆発し、日本で最も力のある政治家を刺したというのはあまりにも物語として強烈すぎる。それぞれを事実として並べてみればどこにでも転がっている話ではある。自民党に食い込んでいる宗教団体は統一教会だけではないし、氷河期世代が抱える苦悩もよくある話で、毒親のもとに生まれるというのもよくある話である。単体として見ればよくある話でしかないのだが、それゆえに物語として提示された時に僕たちはその物語に同情しやすいと言うことができる。逆に言えば「山上の物語」に吸い寄せられる可能性が高いと言える。

しかしながらその犯行動機や理路がどうであれ山上の物語は山上の物語でしかない。その物語に過度な同情を向け「同化」するのは、絶対にやめたほうがいいだろう。あくまで彼の物語は彼のものでしかないのだから。

 

しかし同時に、これだけ強烈な物語を提示されると共感せずにはいられないのが人間の厄介なところでもある。個人的なことを言えば、山上容疑者のツイッターをすべて読んだのだが、読んだ時に思ったのが「おまえは俺か」であった。フェミニズムにたいする忌避感、リベラルの偽善性、自民党への支持不支持という捻じれなど重なるところがかなり多かった。正直言えばツイッターを読んでいてすこし涙腺にきてしまったぐらいだ。恐らくはかなり似ているところがあるのだろう。

けれど私は山上ほどの物語を持っていない。したがって山上にその物語を仮託することで「彼と私の物語を政(まつりごと)として混ぜ込む」ことだってできるし、そうしたほうが楽に政治的主張を行うことができるだろう。より大きな物語を持っている人に自己を委託することは、たぶんとても自然なことではあると思う。ただ、それはしてはいけないことだとも考えている。

なぜなら「物語を持っていない人が物語を持っている人に自己を委託する」というのが情報化社会において物語の奔流を生み出していると考えているからだ。その弊害はもはや無視できるものではない。

女性という大きな主語でフェミニズムが括られるようになったり、リベラルが無知蒙昧な人々を大きな物語で啓蒙するようになったり、国という大きな物語を使い悪いナショナリズムが復興してきたり。物語を持っていない人に「物語をあてがっていく」ことが個人の主体性をなきものにし、大衆を畜群として扱うことで権力ー非権力の構図及びその構図にもとづく不毛な競争を生み出している。

 

山上の物語はかつてないほど強力である。いままで自民党を支持していた人でさえ統一教会の問題にたいしては解明すべきだと答え、殺人という方法をとりながらも彼の目的は半ば実現されかけている。しかし同時にその物語の強烈さには警戒したほうが良いように思う。

という当たり前の話を、事件から一か月経ったところで備忘録として書いておくべきなのかなと思いました。