メロンダウト

メロンについて考えるよ

話題のニコ生選挙特番を見てみた

あままこ氏が三浦瑠璃氏・東浩紀氏・石戸諭氏の3名を批判していた。
しかしながら、この件に関しては時系列で見る必要があるように思うので、まず確認していきたい。以下、安倍晋三元総理銃撃事件を巡る報道の推移である。
 
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・7月8日
午前11時30分頃、安倍元総理が銃撃される。同日午後5時03分、安倍元総理の逝去が報道される。
山上徹也容疑者が「母親を破産させ家庭を壊した宗教団体に恨みがあった」と供述していることが奈良県警から発表される。報道を受け、ネット上では特定の宗教団体が統一教会ではないかと噂される。
・7月9日
特定の宗教団体は統一教会でほぼ間違いないだろうと言われる。一部メディアでも報道され始める。
フランス『フィガロ紙』の記事
国内『現代ビジネス』の記事
・7月10日
参議院選挙当日。多くの海外メディアで統一教会が事件の背景にあると報道され、特定の宗教団体が統一教会であることはまず間違いない事であると周知される。なぜ日本のメディアは報道しないのかという批判が起きる。
同日夜、東浩紀・三浦瑠璃・石戸諭氏が出演する選挙特番にて
社民党党首である福島みずほ氏が「暴力は許されることではないが、背景に統一教会がいるのであれば追及していかなければならない」と発言。これを受け東浩紀氏が「福島みずほ氏の発言は統一教会信者にたいする差別やヘイトを生みかねないことである」と批判。三浦瑠璃氏・石戸諭氏が東浩紀氏に同調。
・7月11日
統一教会が会見を開き、山上徹也容疑者の母親が信者であったことを認める。「2009年以降コンプライアンスを徹底し、献金による騒動は起きていない」とも発言。
同日、国内マスメディアも統一教会の名前を出して報道。
・7月12日
三浦瑠璃氏がフジテレビの情報番組めざまし8にて「彼(容疑者)の妄想に加担してはいけない」と発言。
同会見にて「統一教会が2009年以降トラブルはないと発言したのは完全な嘘であり、損害賠償請求が成立した判例がある」と説明。また、統一教会の被害者であるA子さんが被害実態を語る(以下URLの35:50~)
・7月13日
東浩紀氏が7月10日の番組にて福島みずほ氏の発言を批判した経緯をnoteにて公開
 
 
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・認識のすれ違いと後天的判断
報道の経緯を振り返ると、7月10日の段階では統一教会が今回の事件と関係していることは確定した事実ではなかった。ここにすれ違いがあったのだろう。まだ確定していない情報をもとに国政政党の党首である福島さんが、特定団体の名前を挙げることは憶測に過ぎないという点から東さんは批判していたのだと推測できる。しかしながら、福島さんにとってみれば7月10日の時点で統一教会が事件と関係しているのは周知の事実だと考えていたのだろう。私も福島氏の認識に近かった。
ただ、日本のマスメディアが報道しておらず統一教会側の発表もなかったので、99%間違いなくとも確定的な事実ではないという認識でいた。したがって、東さんのような批判もあの段階ではありえたのだろう。しかし、翌日7月11日には統一教会が会見を開き山上徹也容疑者の供述(母親が元信者であったこと)を認めたため、統一教会が今回の事件に関係していることが事実として確定した。
この報道を受け、ネット上では統一教会への批判が大勢となる。そこで、統一教会自民党の関係を追及しようとした福島さんを批判した3名の発言がツイッターを通じ拡散、炎上する事態になった。
 
翻って考えるに、あの時点で東さんが福島さんを批判した理由としては2つ考えられる。
・国政政党の党首という福島さんの公的立場を重く受け止め差別を助長しかねるような発言は仮定の話であったとしても控えるべきだとの考え
・東さんが報道に接しておらず統一教会が関係していることがほぼ周知の事実であることを知らなかった
どちらにせよ認識がすれ違っていたと考えられる。7月10日の時点で福島さんが統一教会と事件の関係を認識していたとすれば、あの時点で統一教会の名前を出すことは福島さんにとっては自然だったと言える。
 
現在、事実関係が明らかになるにつれ、東さんに批判が集中しているものの、仮に統一教会が事件と関係していなかったとすれば、今ごろは福島さんのほうが批判されていたのかもしれない。結果的にそうなっただけとも言えてしまう点があり、当時の両者の認識がよくわからない以上、今わかっていることを前提に過去の発言を批判しても詮無きことであるように思う。
東さんの発言は「7月10日の時点で」「当時の東さんの認識において」「福島さんにたいしては」「ありえる批判」だったのだろう。
 
・未曾有の大事件であったという前提
記事を書くにあたって当該番組を見てみたのだけど、安倍元総理の訃報にたいして喪に服すような雰囲気が漂っていた。未曽有の大事件に際して、その衝撃や悲しさのほうが先にきていたのだろう。葬式のようであった。
場の雰囲気を考えるに、故人を追求するような発言は許されないという雰囲気が先走り、東さんはあのような「反応」になってしまったのかもしれない。それに同調する三浦さんや石戸さんも同様であろう。あるいは、そこに流れるコメントも同じである。みなが番組の雰囲気を共有し、福島さんの発言を無神経だと感じ、「葬式においてあってはならない発言」と判断してしまったのかもしれない。
ゆえん死に相対した時、どうあれ人間は感情的になりやすいものだ。そのため、たとえ東さんが福島さんに向けた批判が曲解であったとしても、あの時点での東さんの反応を咎める気にはなれないのだ。
事件の衝撃が抜け切れていないあの段階では、いかな人物であろうとも感情的になるのは致し方ないことであるようにも思ってしまった。あままこ氏はその感情優先的な思考、人間性を優先する態度をジャーナリストや批評家が取るべきではないと批判していたが、あのような反応になることはあの段階では理解できてしまう自分がいる。それがどれだけ政治的に間違っていても、冷静に判断できるようになるにはどうしたって時間が必要なのだろう。
 
 
・後日公開された東さんのnoteと三浦さんの発言を見て
しかしながら、あままこ氏が指摘するように東さんの発言が福島さんの発言を歪曲していたことも否定できない。また、東さんが「統一教会への差別やヘイトを生みかねない」と発言したことについては、その予備知識を咎められても仕方ないように思う。これらの点については冒頭のあままこ氏の記事を読んでいただきたい。至極真っ当な批判だと思う。
 
 
私はあままこ氏の記事を読んでから東さんのnoteを読み当該番組を視聴したのだけど、東さんがnoteで書かれている内容は東さんの著書と矛盾しているのではないだろうか。『ゲンロン0』ではテロリズムについて政治的な視座で捉えても捉えきれないので、ドストエフスキー的な文学的観点からの批判も必要だと書いてあったように記憶している。テロを多角的に判断するその視座の複雑性に耐えるべきだと書いていたのは東さんであり、ウクライナ戦争の時にもロシアの歴史にも踏み込んで考えるべきだと主張されていた。それがなぜ今回、犯人の物語を捉えようとしないのであろう・・・
「彼は統一教会と結びついていたのだから襲撃されるのもやむをえなかった」と解釈できるような発言は慎むべきだと考えます。たとえ、そのような意図がなかったとしても、誤解を誘導するような発言は慎むべきです。そのような誤解は、今後のテロの正当化につながるからです
正直言ってなぜ今回、東さんがこのような主張をしているのかよくわからない。
上述した理由により番組での発言を批判する気にはなれないものの、後日公開されたnoteの記事は批判されてもしょうがないように思う。かなり無理筋の強弁であり、その点についてはあままこ氏の記事で批判されており、個人的にもらしくないと思ってしまった。
また、私は東さんの読者ではあるものの、東さんが「統一教会についてカルトかそうでないか判断する立場にない」と書いていたのは多少なり驚いてしまった。なぜなら、そうした一般論に拘泥し現実をそのまま肯定してきた結果が今回の事件を引き起こした原因であることが、「今となっては」明らかであるからだ。
7月10日と7月13日では、統一教会への言及を避けることの意味は異なっている。7月13日ともなれば、事実関係が明らかになっている。そのため、カルトにたいする批評を避け現実に安住すること、その危険性を突き付けられたのが今回の事件から学ぶことだと、そう捉える他にないからだ。
というよりも、こういう緊急事態で最も必要となるのが批評ではなかったのだろうか。なぜなら、カルトの問題に食い込むにはどうしたって信教の自由に触れないわけにはいかないが、それを言語化することは容易ではない。現実的問題と政治的理念が衝突することになる。とりわけ今のようなSNS時代では、統一教会にたいするバッシングが行き過ぎて他の宗教団体へのバッシングに波及するかもしれない。そのような状況の中で、何が信教の自由に値するのか、何をカルトと呼ぶのかは、宗教弾圧に繋がりかねない危険な論争となるだろう。
しかしながら、だからといって避けて良い論争ではない。そのような論争を避け臭いものに蓋をしても結局のところ問題は何一つ解決していなかった。それどころか最も最悪の形で突き付けられたのが今回の事件である。したがって、安倍元総理の暗殺という前代未聞の事件をきっかけに、カルト問題は政治的に判断「しなければならない」性質のものへと変化した。つまりカルトの問題は国民的な議論として取り上げるしかない状況であるのだ。
そして、そうしたのっぴきならない状況で必要とされているのが批評というものではなかったのだろうか・・・
 
 
三浦瑠璃さんの情報番組での発言を見た時にも同じように感じていた。
7月12日の時点で、三浦さんは「犯罪者の妄想に加担してはいけない」と発言している。この発言も東さんと同様の現状肯定論に見えてしまう。
というより、端的に言えば国民を信頼していないように感じてしまったのだ。カルトを問題視するような報道をすれば国民は愚かなので善悪二元論で捉えてしまうという大衆蔑視が見え隠れする。
三浦さんが主張したように、一般論としては、犯罪者の妄想に加担してはいけないは平時においては真っ当な考え方であるように思われる。しかし元首相が暗殺されるという事態を一般論で回収し、あまつさえ裏付けがとれた犯人の供述を妄想として取り扱うのは、それこそ平時という妄想に逃げ込んでいるだけではないだろうか。
山上徹也容疑者の母親が統一教会の信者となり破産したことは妄想ではなく事実である。また、犯人以外にも被害者がいることは判例として出ていることでもある。あるいは、統一教会の教義がいかに反社会的なものであるかもわかっている。そして、安倍元総理が統一教会に類する団体に祝電を送っていたことも事実である。さらに、統一教会と政治家に歴史的な経緯があることも事実である。
7月10日の段階ならまだしも、今となっては、今回の事件を引き起こした諸原因は犯人の妄想ではなく、すべてが事実にもとづくもので、極めて合理的な犯行だったと認めざるを得ない。そして事実にもとづくものだからこそ危険だと考えるべき事案である。
 
もしくは、三浦さんは「国民はカルトや宗教など難しい議論に耐えられないため、事実であっても報道すべきではない(あるいは慎重になるべき)」と考えているのかもしれない。しかしながら、たとえ耐えられないとしても議論は起こすべきだろう。
なぜなら、繰り返しになるが、理念的な一般論に拘泥し現状を肯定することがどれほど罪深く多くの悲劇を生むのかを突き付けられたのが今回の事件であると、今となっては確定的に明らかであるからだ。
7月10日とそれ以降とでは議論のフェーズが変化している。7月10日には「犯人の妄想」や「差別を冗長しかねない」などの意見は一理あったかもしれないものの、もはやそのような段階ではない。
 
よって、7月10日のニコ生選挙特番での東さんと三浦さんの発言は当時の状況を加味すれば理解できたとしても、その後の発言については批判されても致し方ないことであると言わざるを得ないだろう。
 
長くなってしまったけれど以上です。