こんにちは。ここ最近スト6ばかりやっていたのですがとりあえず目標だったマスターまで行けたので久しぶりにブログでも書いてみようかと思います。
本題とは関係ないですが、格ゲーを自分でやってみて思ったのはプロゲーマーは本当に化け物ということでした。ウメハラさんのような有名な方は前から知っていたのですけど自分でプレイする前と後では完全に見方が変わります。小パンカウンターヒットすれば中パンがコンボで繋がるので確認して動くとか、ケンの龍尾脚は弱中強でフレームが変化するので暴れ可能かどうか見極めるとか、いろいろあるのですが実践するとなるともう人間業じゃないです。
それはともかくジャニーズの件についてちょっと思うところがあったので書いていきます。指名NG記者のリストが見つかったことが問題となっている件についてです。
真っ先に思ったのが、これを問題だとするなら記者クラブも問題にしなければ整合性が取れないのではないかと思った。
当然ながら一私企業の会見よりも政府の定例会見のほうが重要度は高く、厳しく質問されるべきである。しかし今のところ指名されたメディアだけが参加・質問を許されている。記者が角の立たない質問をして官房長官は官僚が用意した答弁を読むのは茶番であると長年批判の対象となっているが、今のところ改善される様子はない。
そのような記者クラブの体制を批判することなくそこから得られる権益を享受しているマスコミが指名NG記者リストを批判するのはどういうことなのだろうか。自身の権益を守るために記者クラブは問題にしないがジャニーズの会見における指名NG記者リストは批判的に報道するのはいわゆるダブスタである。
そしてこのマスメディアが何を報道するかという「報道の恣意性」が変わらない限りジャニーズ問題に類似する問題はまた出てくるのではないかと思う。何故なら、各所で指摘されている通り、ジャニーズ問題とはようするにジャニーズとマスメディアが利益共同体として長年切っても切れない関係となった結果、ジャーナリズムが機能してこなかったことに原因があるためだ。報道機関がなんらかの共同体に取り込まれその共同体に忖度する形となればその問題を顕在化させないような力が働く。そのため、問題が表に出る時には臨界点を超え、手遅れになった時となる。言い換えれば報道に恣意性を働かせるとは公益と恣意性とが綱引きをしているような状態だと言えるわけだが、そのような状態では問題が表ざたになる時には明らかに公益に反する最悪の形となってしまっているのである。
また、恣意性は裏を返せば「問題が問題化されなければ(問題が選ばれなければ)問題ではない」と言うことができる。
周知の通り、ジャニー喜多川による性犯罪が問題とされたのはイギリスのBBCが報道してからであり、それまでは「身内の論理」で無きものになっていた。みんななんとなくは知っていたけれど昔のことだし、所属タレントもテレビには欠かせない存在だし、スポンサーもたくさんいて視聴率も取れるし、なによりあの事件が世間的に問題となっていなかった。なんとなく問題がある事務所だと薄々わかっていたけれど当時は社会問題にまでなっていなかった。つまり問題として選ばれていなかったと言うことができる。
トートロジーのようであるが、その問題が発見されるまで問題は問題ではない。「そういうこと」になっている。そしてこれはけっこう普遍的に見られる事態である。
記憶に新しいところで言えば自民党と統一教会の関係がそうだった。洗脳商法を行っていた統一教会の集会に政治家が出席したり選挙協力することはよく考えれば問題とわかるはずであるが、安部元総理が殺害されるまで統一教会の問題は表に出てきていなかったため、多くの政治家が統一教会と関係を持っていた。つまり事件前までは「問題が問題とされていなかったため、問題が問題ではなかった」ということになる。文章にするとほとんど意味不明ではあるが、しかしこれが現に起きていることであり、政治家のような一般に優秀とされる人々の一部が「何が問題かほとんど考えていない、判断していない」ということになる。実際、ジャニーズの件もBBCが報道しなければ何も変わらなかっただろうし、統一教会の件も安部元総理が殺害されるという最悪の事態が無ければやはり何も変わらなかっただろう。
何故こうなるのかはいろいろな見方ができると思う。自浄作用の無さ、同調圧力で皆が口を噤む、アイヒマン的な職務主義、利益共同体に権力構造、一人が手を上げたらみんなが手を挙げる国民性などなど
ただ、僕が思うのは、なんとなくではあるが、日本社会には「過剰な具体性」があるのではないかということだ。
かなり一般に、具体的に物事を捉えるのは良いこととされている。僕もそう考えている。このブログのように抽象的に考えることに意味など、生活上、ほとんどない。具体的に問題に取り組み、解決し、成果を出すのは疑いなく良い事であり、それ自体を批判したいわけではない。仕事や雑事などほとんど具体的である。生活は具体性に支配されていると言っても過言ではない。ただ、具体的に物事を捉える視座には限界がある。ジャニーズと統一教会の2つの事件からそれは見えてくる。
テレビが視聴率を獲得するためにジャニーズを起用して面白い番組をつくることにコミットすると別の視座(ジャニーズ事務所のコンプライアンスという問題意識)を持ちづらくなる。政治家が選挙で勝つために統一教会を利用すると統一教会という団体の正当性に関心を持ちづらくなる。言い換えれば何かを見ていることは別の何かを見ていないということである。それは実際の視線に限ったことではなく認識にも及ぶことであるように思う。具体的なプロジェクト(選挙での得票、視聴率の獲得)に関する役割が与えられるとその人がどういう人物や団体であるかは二次的なものになりそのプロジェクトを成功させるための駒として「単ー目的化」する。ジャニーズ事務所と職務上・プロジェクト上で共同関係にあるマスコミはその付き合いが仕事に限定されることになるため、ジャーナリズムという視線が外されることになる。つまり過度で具体的な職務の数々がメディア本来の役割であるジャーナリズムを二次的なものに成り下げるということである。終いには習慣化し忘れられていくことになる。
具体性が行き過ぎると目の前の物事に集中し過ぎるため問題が問題とされるまでそれと気づかない。そもそもとして見ていないからである。それが高じて外部から指摘されるまでそれを問題だと認識できない。つまり気づかれるまで問題が問題ではないという現象が生まれてくる。
何を問題とするかはネット・世論・外圧等々からの「気づき」に委ねられるため、必然、一部の政治家やマスコミは自浄作用を持たない。何故なら、繰り返しになるが問題が問題化されるまで問題は問題ではないからである。そうした構造では自身で判断する必要がそもそもとしてないか、あるいは自身で判断しそれが間違っていることのほうがややもすると怖いこととなる。つまり、一般的に言えば問題を発見しコンプライアンスに沿った企業経営をすることがガバナンスと呼ばれているが、それとは逆に積極的に判断することを回避し問題を発見しないこともガバナンスになっておりその両方が矛盾しながらも同時に走っているのが日本社会の特徴と言えるのかもしれない。
(話が逸れるけれど海外では云々という規範を輸入し日本社会は遅れていると批判する主にリベラルな人々がいるけれど、こうした批判が「効く」こともまた僕達が主体的に判断する能力に欠けているゆえなのかもしれない。問題が問題化されるまで問題ではないというのであれば問題を問題化するための規範や気づきを輸入してくることが効果的なのであろう。)
「過度な具体性」が生み出す「問題が問題とされるまで問題ではない」「気づかれるまで問題ではない」という考えは、思い返すに、インパール作戦や原発事故もそうだったのかもしれない。原発事故に関しては議論があるところだと思うけれどインパール作戦に関しては大局観を失い無理な継選を続けた結果、甚大な被害を出したことから見ても具体的かつ局所的判断によるところが大きかったと言うことができる。これも「過度な具体性」ゆえの失敗と言えるように思う。
しかしながらそれらを後悔してももう後の祭りであるし、今更批判しても後出しじゃんけんに過ぎない。今だってそうだ。ジャニーズ問題で皆が語る正義だって後出しジャンケンに過ぎない。手遅れになってから皆で議論し動いたところでなんだというのか。思い返せばそのような「虚しさ」がいつも残り続けてきたのである。
そしてそのような「悲しみ」や「危機感」に「虚無感」を共有することこそが大切なのではないだろうかというのがジャニーズ事件を見ていて思うことである。
現にジャニーズ問題における加害者である当の本人は亡くなっており、謝罪を求めようにも親族や事務所関係者に限られている点からしても一抹の虚しさは拭えない。補償や謝罪ももちろん大事だけれど、今この瞬間流れてくる具体的なニュースの数々にたいして正義を語り一大事務所の凋落という事態に熱狂するのではなく加害者が亡くなってから騒ぎ始める虚しさを共有することも大切であり、それこそが「次」への足掛かりとなるように思う。
でなければまた過度な具体性(コミットメント)がまた別の問題を生成し、問題化される時にはすでに分水嶺を超え、決壊し、溢れ出してからになっているはずであるからだ。
※具体的に物事にコミットするとは抽象的に言えば経験主義や現場主義といった「思想」であり、こうした考えは一部の人々の間では特大の正義として信奉されているし、実際、そのようなコミットメント、つまりは仕事が人生の充実度に寄与することは間違いないけれど、ただ、外から中が見えないのと同じくらい中から外も見えづらいものであるため、人間の視野は「どこにいたとしても」万能ではないということには留意しておきたいものである。
ちょうど東浩紀さんの『訂正可能性の哲学』を読み終え、その中にウィトゲンシュタインを引く形で「人はなんのゲームをやっているかわからないゲームをプレイしている」という一節があったのを思い出したけれど自分で自分が何をやっているのか本当にわかっている人などあるいはいないのかもしれない。いや、もちろんそんなことはないし僕も明日の朝はいいかげん洗濯しないといけないわけであるが、しかし何をやっているのかわからないと考えるぐらいでちょうど良いのであろう。そのような虚しさが物事が手遅れになる前に訂正する礎となる。なにかそんなことを思う昨今である。