メロンダウト

メロンについて考えるよ

フェミ不美人説について

また身も蓋もない話を読んだのですこし(1500文字ぐらい)

 

nnjnews.net

 

美人→男性からチヤホヤされる→フェミにはならない

不美人→男性からチヤホヤされない→フェミになる

記事はこれだけの話である

 

配信者の加藤純一さんも似たようなこと言ってたな。たぬかなさんもツイッターのフェミ論壇よりかはすこし一般向けの人であると思うけれどこういう話が大手を振って話されるようになったのに隔世の感がある。

 

実際こういう図式があてはまることって男女共に否定できない現実としてあるにはあるわけだが、ただ、それは個別的現実として受け止めてこそ意味があるのではないかと思った。

ネットには「代弁者」のような人がいっぱいいて世の中の真実を穿つことに心血を注いでいる人がけっこうな数いる。僕もそのうちの一人かもしれない。社会には理不尽があって平等ではなく云々という話は本当に腐るほどあり、それらを誰かが指摘したりすると痛快であるわけだ。フェミニストは不美人であるという話を聞けばフェミニズムが単なるルッキズムの発露でしかないと安い納得感を得られ、それにより男女の複雑さを飛び越えて「思想はその個人の境遇でしかない」と切断処理することができるわけである。そのような「個人の一家言」を皆で称賛し、膨張させること。それ自体になにか大きな間違いがあるのではないかと思うのである。

なぜか。たとえば、たぬかな氏の言葉をそのままインストールした人がフェミニストと話す機会があれば、その人は先入観や予断を持ってフェミニストと接するようになるため、フェミニストの言うことはすべて彼・彼女女自身の境遇によるものだとして真に受けて聞くことはなくなるだろう。しかし世の中にはまともにフェミニズムを体現している人もおり、フェミニストと一口に言っても多様なのが現実である。そのため、先入観を持ち、予断によって個人の話を処理する人はまともなフェミニストの言葉を聞く機会を逸することになる。

また、代弁者の言うことを自身の考えとして採用することは単純に自分自身で考えなくなることにも繋がる。フェミニズムという単一の切り口ばかりでなく、そのような自分で考えない思考様式は他の物事にも波及しかねない。その時に口が上手い人に騙されたり魅力的な結論に飛びついたりといった致命的な間違いが起きるかもしれないし、また、誰かの話を聞いてそれをそのまま受け取るということは容易に矛盾を引き起こすことになり自分自身の中で整合性が取れなくなる。その時に起こるのが党派性的思考であり、「まったく別の誰かと誰か」の話を聞くのではなく「同じ党派の誰かと誰か」の話を聞くことで半自動的に整合性を取るようになるのであろう。それがいわゆるエコーチェンバーに至るひとつの理路ではないかと思う。代弁者と代弁者が同じ立場を取っていれば、ギターとベース、音楽のように共鳴しあうことができるが、ノイズが混じるとたちまち脳内で不協和音が響きわたることになる。

 

けれど本来的に言えばそういう不協和音、つまりは他人が何を言っているのか何を歌っているのかが「なんだかよくわからない」ということが考えることの大事なプロセスであるように思う。

他人の言うことに納得しない。切断処理しない。矛盾を見つめる。ノイズを排除しない。で、結局のところ答えが出ない。そして何も言えなくなる。

男女の問題なんか実際、相当複雑な話であり、美人か不美人かというのはファクターのひとつでしかない。別の代弁者の言葉を借りれば「美人のほうが楽して生きているため性格が悪い」としばしば言われたりすることもあるし、いずれにせよ人の言うことを真に受けすぎないほうが良いように思う。

インターネットで世の中の真実を穿ってやろうなどという人の言葉など特に、である。