メロンダウト

メロンについて考えるよ

何故トランスジェンダーの議論は終わらないのかを考える

最近またトランスジェンダーの問題が議論になっているようでいろいろ見ていた。

 

トランスジェンダー性別変更、生殖不能の手術要件は「違憲」 最高裁:朝日新聞デジタル

トランスジェンダーが戸籍上の性別を変えるのに、生殖能力を失わせる手術を必要とする「性同一性障害特例法」の要件が、憲法に違反するかが問われた家事審判で、最高裁大法廷(裁判長・戸倉三郎長官)は25日、要件は「違憲」とする決定を出した。

最高裁違憲立法審査権を行使するのはかなり珍しいみたい

 

「女性スペース守れ」有志デモに罵声 新宿 - 産経ニュース

女性トイレや更衣室など「女性専用スペース」の利用は生物学的な女性に限るべきだと主張する女性有志のデモ活動が21日、東京都新宿区であった。

こちらはTERF(トランス排除的ラディカルフェミニスト)によるデモ

 

 

アメリカだと銭湯の女湯にトランス女性が入れないことは不当だとして人権委員会に申し立てを行う例があったりするみたいだけど、下手すると日本でも同様の事態が起きる可能性がある。

この話題でいつも思うのが「差別は論理で解きほぐせない」ということである。論理的に言えばトランス女性が女湯に入れないことは差別にあたるけれど、現実的に考えた場合、屈強な肉体を持ったトランス女性が女湯に入るようになれば恐らく単純に営業がたちゆかなくなるはずである。「あの銭湯はトランス女性が女湯にいる」とGoogleレビューに書かれれば女性客はほとんど来なくなる。そして女性が銭湯を利用できないとすれば家族連れで来店する人も減るため、結局のところ店舗ごと潰れるしかない。

思えば新宿のジェンダーレストイレもそうだった。設置された当初は平等を謳い理念に満ち溢れた先進的なものだと考えられていたのだろうけれど、結局のところうまくいかなかった。ある特定の層に配慮した結果、全体の営業利益が損なわれることになり全部まるごと消滅するのが是非もない現実なのであろう。それにたいし何々が差別だと論理的に議論したところであまり意味はないように思う。議論してトランス女性が女湯に入れる社会にしたところでその議論が適用する場所は資本淘汰によって排除されるしかないからである。とどのつまりお金を支払う人がその施設を支えているのであり、経営側からすれば人権というのは時にそこにフリーライドしてくるための方便に過ぎないということなのであろう。それでもトランス女性の人権を守るために銭湯に入れるようにしたいというのであれば法改正を伴う必要があるが、その場合、銭湯という文化そのものを消滅させる覚悟を持って運動を展開するべきだと思う。

 

 

それとは別にトランス周りのアレコレを見て思うのは「思想の甘美さ」についてである。反差別のみならず何事かを変革しようと熱狂したり正義を振りかざすことはとても痛快なことであり、そういう言論を声高に叫ぶことは「気持ちの良いもの」なのだろう。僕も長いことこうした政治的な話を書いているけれど、「社会の痛点」をひっかいてやったみたいな時は脳内麻薬みたいなものが出てるのではないかと思う。そういう快楽によって駆動され書かされてるのではないか、と感じる時は確かにある。ブログという斜陽メディアならまだしも多くの人にリーチするツイッター(X)でそういう運動に励みインプレッションを稼ぐことは思想や運動の甘美さをよりダイレクトに受け取ってしまう危険性があり、けっこう怖いことなんじゃないかというのが個人的な肌感覚である。

そして、そういう議論にまつわる肌感覚が顧みられないことのほうがなにか根本的な問題なのではないかと思うのだ。議論においては常に論理と事実が重要視されがちで、それを発する人の熱量であったりその熱量の出所に焦点があたることはない。あるいはそうした熱量、つまりはトーンを批判的に捉えることはトーンポリシングだとして批判されたりもする。もっと単純に言えば誰が言っているかではなく何を言っているかで判断するのが議論においては正しい態度とされている。そしてそうした話を繰り返していくたびに言葉の熱量・温度・湿度を感じとろうとする人は少なくなっていく。

 

 

普通に考えてトランス女性が女湯に入ることができるようになるなどありえない。しかしトランス女性の人権を守るべきだと叫ぶことは気持ちがいいことであるため、現実で実装不可能な構想であるにも関わらず議論はループしていく。

一見すると人と人が争っているように見える議論は、傍から見れば離れたいものだというのが一般的な認識で、議論している当人達は面倒くさい人々だと思われているが、そうではない。彼ら・・・いや僕らは「やりたいからやっている」のである。そしてやりたいからやっているということは、表面上は対立する陣営をやりこめようとしているように見えても、その実、議論を終わらせることを望んでいるわけではなく、議論そのものに快楽を覚えている。終わらない議論(特にネット上)に耽溺することそれ自体が目的であり、つまり、議論は終わらなければ終わらないほど良い。この点から永久に現実と折り合うことがなく、しかし同時に論理的な正しさを主張することができるトランスジェンダーの女湯問題は恰好の材料なのである。

 

議論には快楽が伴う。気持ちが良いものである。そしてその気持ちよさを持続させるには終わらないネタが要る。そしてそのネタを擦り続ける。枯れ果てるまで、である。