メロンダウト

メロンについて考えるよ

主体の消滅

小泉進次郎さんを見ていてなぜ彼があんなに人気があるのかと素朴に考えるようになった。

端正な顔立ち、名家の生まれ、主体性のなさ、若者的、無謬などいくつか考えられる。なによりあそこまで御しやすい若者像を演じきれるのはすごい。普通、人間なんて表に出てくれば多少なり歪みが出てくるものだが彼の白く清らかな印象はどこまでも濁らない。しかし同時にそこまでしてなんのために政治家をやっているのかという疑問も出てくる。

普通、政治家の家の息子でもない限り、政治に参加しようなんて人はそれぞれビジョンを持って立候補している。NHKをぶっ壊すなり女性の社会参画なり目的があって政治がある。

 

しかし小泉氏にそれは見受けられない。すべての政策について無回答という珍しい政治家でそもそもなんのために政治家をやっているのかがよくわからない。政治家をやるために政治家をやっているみたいな印象を受ける。

 なんというかこれほど日本的な政治家もいない。すべてのことはないものとするかあるものは先送りにしてしまうか、あるいはすべてに回答しないことで完璧の側に立つという処世術は小泉氏だけではなくあらゆるところで見られる。

 

よく日本人は議論ができないと言われる。ネット上においては議論が成立しているように見えるがネット上の議論は主体対主体ではなく客体対客体でどちらが客観的かということにしか感心がないように見える。

政治でも議論でもそうだが単純な意思決定においても主体となり決定する側にたつ能力がある人間はそれほど多くない。実際、今の日本の若者は各国に比べ会社内での出世意欲がものすごい低いという記事も最近あった。決定する立場に立ちたくない。意思を決定する主体になれば必ず誰かから批判を受けることになる。責任を伴うからそんなことはしたくない。あるいはしないほうがいいと考えているし、実際にしないほうがいい社会になっている節さえある。

これだけすべての物事が人目に晒されそれが見える社会において自らが主体となることはそれだけで大変にリスキーな行動だと言える。それを小泉氏はよくわかっているのだと思う。

 

もともと共同体意識が強く村社会的な側面が強い日本だけれどネットの登場によって主体になる人間はさらに減少していっている。それは若者を見ればよくわかる。ジェネラルでニュートラルな人がやたら増えた印象を強く受ける。齟齬がない。歪みもない。愚かしさもないと同時に主体もない。

 

そんな状況なので意思を決定する側に立ちたい人はそれだけで小数派となる。その意思の出来に関わらず意思決定する人は社会の上に立ちやすい。行動力やコミュニケーション能力がやたらともてはやされる理由はすべてこれである。意思決定できる人間の絶対数が少ない社会において行動力があり意思決定できる人間はその意志の如何に関わらず成功しやすい。だから単に行動しろみたいな自己啓発本が売れてそれが実際に機能しうる。

しかし主体になれば批判を受けやすいので間違わないようにしなければならず、それを無謬性により補填する。そうして小泉進次郎が生まれる。

 

 

なので今度は主体性のない主体のような変なものを作り出そうとする。それがVtuberという仮想体だと思っている。Youtuberのように人間のまま主体をやろうとするとリスクが高すぎる。身バレリスクの少ないVtuberっていいアイデアじゃんと主体のリスクを取りたくない人たちの間に広まっていった。

Vtuberはオタク趣味として日本的であり、同時に主体のリスク回避という点で日本的なのである。

 

 

なぜこんなに主体のない社会になったのかと言えば、すべての物事は客体による選択によってその善悪が決定する社会になったからだろう。

極端なことを言うが

レイプ被害にあった女性にたいして「男を誘惑する服を着ていたのが悪い」と言ったとすればこれは袋叩きにあう。レイプにおいては男性が主体で女性が客体という原理原則のようなものが立ちふさがっている。しかし女性が男性を誘惑した。女性が主体で男性が客体であるということも言えなくはない。レイプ被害にあった女性に間違ってもそんなことは言ってはいけないが社会的なレベルにおいてそれが言えないというのは奇妙だと僕は思っている。

問題は誰もが主体であるはずなのに誰もが客体の側に立とうとすることにある。男も誘惑された側に立ちたいがために女が悪いといい女性も男性が悪いと言う。

そして僕たちは男が悪いと言う。女性の主体はなきものとして見る。女性が男性を誘惑したとしてもそれは原因として取り扱わない。取り扱うべきではないが因果関係として想像可能であるぐらいの考えは持っておくべきではある。

 

加害者と被害者、主体と客体。ふたつを分断して考えた時に被害者や客体が正しいと僕たちは考える。ほとんど無条件にそう考えがちである。様々な映画やアニメなどの創作物でそう刷り込まれている。

壁と卵があれば常に卵の側にたつ。

みんな村上春樹

しかしそんな単純な話なのかとも最近は思うようになってきた。無謬性に拠ることなく主体を構築し、加害性を取り戻すことこそがむしろ肝要なのではないかと考える。

こんな文脈で書くとレイプを擁護しているみたいになってしまうけれどそれは断じて違います。ダメ、ゼッタイ。

 

恋愛も仕事もなにもかも他者と関係している以上、加害性からは逃れられないのだからどう加害するのが適当かという最も根本的な話をしようということですね。

ネット上や見ず知らずの他者だとそれが逃れられている気になることが何もかもの元凶になっているようなそんな気がしているのです。