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梨泰院クラスの感想

あけましておめでとうございます。年末年始にすこしいろいろありすぎてブログを書くMPが残っていませんでした。知人が逮捕されたと聞いたり、父がネトウヨみたいなことを言いだしたり。ひさしぶりに会うとみんないろいろあるなと・・・
 
以前下書きしてた記事ですがよければどうぞ
 
すこし前に梨泰院クラスを見ました。海外ドラマはよく見るほうなのですが韓国ドラマはあまり追っていなくて梨泰院クラスも最近になってようやく見たのですが、面白いのはもちろんかなり多彩な論点があるドラマだったので、そのへんのことをすこし書いていきます
以下ネタバレありです。
 
 
失われた男性性
梨泰院クラスの主人公パクセロイは信念を大事にする人として描かれている。父親に信念を大事にするよう教育され、信念に従って生きた結果、多くの苦難と闘うことになる。苦難と相まみえても彼の信念は揺らがず父に誇れる生き方を貫いて生きていく。大筋としてはそのようなドラマであった。
パクセロイは学生時代、悲劇に見舞われる。父親を同級生であるチャン・グンウォンに轢き殺されてしまうのだ。父を慕っていたパクセロイはグンウォンが事故を起こしたことを知り、救護義務も怠っていたことから激昂する。グンウォンに復讐しようと暴行するのだが殺人未遂の罪により逮捕されてしまう。一方のチャン・グンウォンは財閥の息子という立場を利用して交通事故の罪を別の誰かに着せ、のうのうと生きていく。その後、出所したパクセロイはチャン・グンウォンをはじめとする財閥(長家)と闘うことになる。
 
見た人であればわかってくれると思うけれどパクセロイはいわゆる古いタイプの男性だ。コミュニケーションに齟齬がなく女性の気持ちをよく理解するタイプのイケメンとは異なり、馬鹿のつくほど実直で、女性の気持ちにも鈍感な男性として描かれている。それでもその実直さに人はついていくのだけど、視聴していて思ったのはパクセロイは「かつて日本が失った男性像」なのではないだろうか。現在の日本で一般にイケメンと定義されるのは中性的で穏和な性格をしており、闊達で仕事ができるコミュニケーション上手な男性のことであるが、日本でも少し前はパクセロイ的な男性像がイケメンと呼ばれていた。いわゆるディターミネーション(決意)を宿し融通が利かないけれど頼れる男性がすこし前まではイケメンと呼ばれていたように思う。木村拓哉反町隆史など日本のドラマにおいて人気があった俳優の役どころも「男性的な男性」であった。それがいつしかイクメンや理解のある男性に役どころが置き換わり男性像そのものが変わっていった。あるいは男女平等などが盛んに言われたことにも関係していると思うが男性を取り巻く男性像がここ数年で劇的に変わったことは間違いないだろう。男性における一義的な価値観は実直さや信念といったものではなくは中性的で鷹揚なものへとスライドしていった。もちろん信念や実直さはいまだに残っているもののかつてのように一義的ではなくなっている。
梨泰院クラスはそのような価値観の変遷に気づかせてくれるドラマだった。日々の生活ではあまりにも現実を内面化しているので自身の性格や自国の価値観を相対化して見ることは難しく、ドラマなどを媒介としてはじめて見えてくるものがある。パクセロイは一言で言えば「なんか見たことある感じの男性」なのだ。
反町隆史が演じたGTOにおける鬼塚栄吉の無鉄砲さ、スラムダンクの主人公である桜木花道が山王戦で見せた「ディターミネーション(断固たる決意)」など、パクセロイと重なる人物像は日本でも数多く描かれている。それらを思い出させてくれる。かつて日本でも「男性的な男性が男性として」描かれていた。かつての僕達はそこにある種の憧れを持っていたし、生き方の雛形のようなものを見ていた。しかしそういう男性はあまり描かれなくなり、中性的な人物像が男性の理想の姿として喧伝されるようになった。
どちらが良い男性像かというのは語る意味がないし多様性に吸収されることになるのだろうけど、パクセロイを見ていると「かっこいい」という言葉の意味の変遷を考えざるを得なかった。パクセロイは僕達がかつて憧れていた鬼塚栄吉であり桜木花道なのである。
 
 
ジェンダーロールからの自由
梨泰院クラスにおいて語るべきは男性像だけではない。梨泰院クラスではいわゆる「フローラ・ビアンカ論争」が描かれているのだ。この点でも「かつての日本的」だと言える。梨泰院クラスにのヒロインはオスアとイソの二人となっている。
オスアは幼馴染でパクセロイが学生時代から思いを寄せている女性。イソはパクセロイが出所後に出会った仕事のパートナー。
それぞれ魅力的な女性なのだが、パクセロイは自身の復讐が終わるまで幸せにはならない=恋愛はしないと決意しているため、彼に好意を寄せているオスアとイソは振り回されることになる。
結末を書いてしまうと最終的には仕事のパートナーであるイソを選ぶことになるのだけど、なんとも意外な結末だった。オスアは物語において重要な役割を占めておりパクセロイの初恋相手であると同時に、刑務所でも手紙でやりとりをしていた仲である。その手紙のおかげでパクセロイは心が折れないで生きていくことができたと語っており、てっきりオスアと結ばれるものと思っていた。3話まで視聴した時には復讐を果たしオスアと結ばれることが物語の結末だと誰もが思うのではないだろうか。しかしパクセロイはオスアではなくイソを選ぶ。意外だった。
オスアとイソは対照的な存在であり、イソはパクセロイの仕事を支えると同時に、パクセロイの復讐相手である財閥とも戦っていく。「あの人を傷つける人は全員私が潰す」というセリフが象徴的であるけれど、事あるごとにイソはパクセロイの助けになるよう自ら動いて自身の存在を印象づけていく。一方のオスアはパクセロイの復讐が終わるのをほとんど待っているだけである。その対比が印象的だった。
初恋に甘んじてしまったオスア、自ら動いて気持ちを動かしたイソ。対極的な両者であるが、イソを選んだことで作者は何を言いたかったのだろうか?
 
一般に僕達は恋愛をする時、男性が能動的で女性が受動的であるというステレオタイプな恋愛をいまだにしている。雄がアピールするのはたぶんに生物学的ななにかを含むのだろうけど、恋愛する時の形式として僕達はステレオタイプを軸に恋愛を考えている。相手を見てそのステレオタイプを逸脱するかそうでないかを決め、より良い関係になれるよう適時振る舞っていく。しかしそれでも「軸」は残っている。それが僕達の恋愛を取り巻く現状だと言える。梨泰院クラスでパクセロイがオスアを選ぶだろうと見積もっていたのは僕自身のステレオタイプによるところが大きいのだろう。パクセロイが学生時代から好きなのはオスアであり、その能動性を持ってして「何もしない受動的なオスア」と結ばれると見積もっていた。
しかしそうはならなかった。パクセロイがイソを選ぶことはステレオタイプな恋愛観への反論だったのだろう。イソのように女性が能動的になり男性の心を動かしていく物語の構成は僕達のステレオタイプを揺さぶってくれる。僕達は恋愛をする時、ある種の形式に埋もれていたりする。男性と女性をそれぞれ役割化してその通りに「なぞる」ことでむしろ恋愛としては歪なものになる。そうした軸やステレオタイプから自由になるには性役割を転換させたり逆転させることが「時に」必要なのだろう。たぶん本来、フェミニズムの役割とはこういうことなのだろうなと思う。オスアを選ぶだろうというこちらの思惑とは逆の結末を描くことで「恋愛がありうべき別の形」を示してくれたのだろう。それはどこか納得がいかないものだったけど、他人の納得なんてどうでもいいのがたぶん本来の恋愛なのだろうなと、すごく当たり前のことを思い起こさせてくれるドラマだった。
 
 
 
僕達は「当たり前」を忘れてしまった。常識と言い換えてもいいかもしれない。多様性によりすべてが細分化された世界において根差す男性像も失われ、恋愛の軸足も失われた結果みなどうして良いかわからなくなっている。そのように思う。梨泰院クラスで描かれているのは古い価値観には違いない。しかし、だからこそ新鮮に響くのだろう。それはかつて僕達が確かに持っていたもので、そこに郷愁を馳せざるを得ない。そんなドラマだった。