マッチングアプリに絶望した増田
についたブコメ
まず女を人生をひっくり返す魔法のカードと思うのをやめてもろて
この言葉の前提になっているのは「自分を変えるのは自分」という考えだと思うけれど、「自分を変えるのは自分」はそんなに確かなことではないんじゃないかな。
思い出すのが恐山院代を務めながら独特な言論を展開している南直哉さんの言葉で、南さんはことあるごとに「人は自らが望んで生まれてきたわけではない」と書かれている。この言葉は単純に解釈すれば反出生主義のような悲観論に繋がりかねないので警戒しなければならないけど、見方を変えると自分を取り巻く環境を変えることで自分を変えることができると解釈することもできる。
人は産まれた時から関係性の内に埋め込まれていて、「自己ははじめから関係している」と南さんは言う。自己を確立するのは親・友人・恋人のような他者、学校や会社のような環境であると。仮に他者や社会と関わらないひきこもりであってもそれまで生きてきた中で培った社会観・世界観の中に自己は存在している。
言い換えれば、これから出会うだろう人や環境に自己は左右されていると言うこともできる。
子供が生徒会長を任されるようになれば責任感を持つようになるように、大人になり恋人ができれば垢抜ける。結婚すれば夫や妻の顔になる。子供ができれば親の顔になる。サラリーマンはサラリーマン然とした相貌をしている。漁師は漁師の体つきに。駅伝選手は駅伝選手の走り方に。経営者は経営者の喋り方をするようになる。みなやっていることは違えど自らが属している環境に「向かうこと」は同じなのである。
もちろんサラリーマンがみな同じであるとするのは言論として雑すぎる。しかしながらそこにある種の同質性が宿ることを僕達は知っているはずなのだ。
にもかかわらず今の社会では上記ブックマークコメントのような「自己完結型の自己」を前提として捉える人が多い。あなたの自己はどこからきたのかを問えば少なくともゼロから自分を始めた人はどこにもいない。なんらかの関係性や偶然があって今ここに自分がいる。自己は自分の外「にも」ある。その前提をいつのまにか忘れてしまう。
はじめて友人と出会ったのはどこか、はじめて推しを知った時は、はじめて就職した会社は、受験は、学校は、と遡及的に辿っていけば自分が自分であることは決して必然ではないと、少なくとも僕はそう思ったりする。
つまり「女は人生をひっくり返す魔法のカード」はある意味で本当のことだったりするのだろう。魔法のカードという表現は語弊があるけれど、恋人ができると人は変わる。恋人ほど自分を変える存在はいないと言っても過言ではない。大げさに言えば恋人は魔法使いと言ってもかまわないぐらいだ。
それがどんな魔法であるのかはそれぞれだけれど、大事なのは誰のどんな魔法にかかるかであり、魔法にかからない自己というのはおそらく幻想に過ぎない。
とはいえそのような幻想(魔法にかからない自己像)を抱くこともよくわかるのである。
実際、自分が自分ひとりで生きているような、そんな錯覚に取り込まれることがあったりする。現に「人間関係という魔術」を解除していく趨勢(客観性を付与する傾向)が強いのが現代社会であるように思う。あらゆることが個人に最適化されていて一人でも生きていけるような気になってくるように社会は設計されていて、その中で生活していると自己は自己で完結しているのではないかと思うようになってくる。
そのような社会では恋人であっても他人は他人であると考えるのが「まとも」なのだ。
一般的に「まともな人間関係」と呼ばれるものは主体的な大人同士が節度を持って付き合うことであり、逆に他者に依存するような関係は良くないものとされている。
しかし主体的であることと依存的であることは必ずしも両立しないわけではない。おそらく主体というのは自分で考えているよりも不安定で揺蕩うものでありいろんなことに影響される。恋人が自分を変える魔法のカードであることは時として事実であり、恋人に依存して頑張っていくうちに主体らしきものが立ち上がってくるのが一般的な自己の芽吹き方ではないかと思う。
問題となるのは依存の仕方であったり、関係の仕方のほうであり、依存それ自体を回避しようとすることは不可能であり、恋愛を始めようとする時に依存するなという提言は大きな罠となる。仮に依存的でない関係であるのだとすればそれは恋愛関係と呼ぶ必要がないもの、たとえば共同生活者と呼んだほうが適切であるからだ。
もちろん現実には自己を他者によって確立しようとすると愛憎や共依存の問題が発生するので程度問題ではあるのだが、恋人が魔法のカードというのは「場合によっては」ポジティブな考え方であるにもかかわらずいつのまにか恋人を魔法使いと捉えることはネガティブなことであるかのように刷り込まれている。
自分が恋愛をするにふさわしい主体を構築してから恋愛をするというのは順序が逆で、恋愛をしているうちになにごとか恋愛的主体のようなものが内に宿ってくるようになる。恋愛に限らず、人間、なんかいろいろやっているうちに変化する。そっちのほうが一般的なのではないかと。