メロンダウト

メロンについて考えるよ

コロナは自由に傷をつけるか

一日あたりの感染者数が過去最多を更新している。

デルタ株の感染力が強いこと、緊急事態宣言の効果が薄れていること、国民の恐怖感がなくなっていること、五輪開催との不平等感、これまで自粛してきた飲食店の限界などなど。感染者が増加しうる要素をあげればキリがない。

一方で唯一感染を抑える要素がワクチンだったけれど、それも五輪までには間に合わず、国民の限界もとうに超えてしまっている。

もうよく頑張ってきたよ。自分の狭い観測範囲でも閉店した飲食店があるし、闇営業に踏み切った店もある。会社が潰れて無職になり、Ubereatsを始めた知人もいる。外出自粛もみんなで頑張ってきたし、もういろいろ限界にきているのはよくわかる。生活面、精神面の両方でもう限界なのだろう。自分ももう限界で、人混みには行かないけれど車やバイクで普通に出かけたりしている。サービスエリアに行ってメロンパン食べて帰るだけとか、一人で森(野営地)に行ってコーヒー飲んで読書して帰るとかそのぐらいだけど。飲みに行く人がいても責める気にはなれない。自分は孤独耐性みたいなのはあるほうだけど、人と触れ合ってないと駄目になってしまう人もいるだろうし。ましてや若い人は飲み会での偶然の出会いのあるなしが人生を左右してしまうこともある。若い時の出会いや、仲間と一緒に過ごす時間は決定的に重要な要素だったりする。医療体制が逼迫していると連日報道されているけれど、逼迫しているのは医療だけでなく、生活・経済・精神などすべての面においてである。それを忘れてはならないだろう。自粛警察のような歴史を繰り返してはいけない。今こそ他人への想像力を開く時だと思う。

 

それにしてもコロナによって失われたものはとても大きい。亡くなられた方々はもちろんだけど、社会的な側面に関して言えば、自由の意味がすこし変質したのではないかと感じている。

一年前は飲み会している人を狂人扱いしたり、営業しているパチンコ屋をつるしあげたりしていた。相互監視社会と言うつもりもないけれど、僕たちが信じている自由はこの程度のパンデミックで簡単に崩れてしまうものなんだと、実感として知ることができた。僕たちが大事にしていた理念「集会の自由」「移動の自由」「営業の自由」「表現の自由」などは情報化社会における通報によって簡単に潰されてしまう。路上飲みに警察が出てきたり、パチンコ屋に市長が営業を止めるよう出向いたり。この一年半余り、ありとあらゆるところで自由という理念がないがしろにされる瞬間をいくつも見てきた。もちろんそうしたものは単なるサスペンド、一時的なものだと言われるかもしれないが、「相応の理由」があれば営業の自由も集会の自由も停止できることを、この社会は証明したのだ。しかもそうした社会を国民全体が肯定してすらいた。このような非-自由はかつての全体主義と地続きで、とても危うい。むしろそういう公共性のようなものよりも自由を一義的なものとして近代社会は成立していたと思い込んでいたけれど、それは幻想に過ぎなかった。この社会において自由は一義的なものではなかったのだ。あるいは、自由を信じている人などほとんどいなかった。それを暴露したのが新型コロナウィルスなのだろう。時に人は社会という圧力に抗いがたいものだ。にもかかわらず社会は常に流動し、変化し続けている。それはとても怖いことである。社会全体が合意する理由を調達してしまえさえすれば世論があらぬ方向に流れる危険が常にある。そして僕たちはコロナ禍において「それ(非-自由)に同意した」のである。その事実が自由という理念に禍根を残さないか、すこし心配である。

というよりも、こうした「自由につけられた傷」によって成立しているのがキャンセルカルチャーなのではないかと思うこともある。けれどそれは妄想の域を出ないので割愛する。

 

いずれにせよこれまでと同じような社会でいられなくなったことは確かであろう。東日本大震災は自然災害という外部からの破壊にたいして「社会をもとに戻す」ことが主たるものだったので社会のありかたを変質させるほどのものではなかった。もちろん自然の脅威を突き付けられ、それにたいする考え方は劇的に変わった。しかしコロナ禍においては「社会のありかたそのもの」を変化させる必要性に迫られ、実際に変化させてきた。それは東日本大震災とはまた異なる経験だと言える。

その変化のありかたが良いものだったのか悪いものだったのかは徹底的に総括されるべきであろう。

西村大臣が飲食店にたいして自粛要請するのに取引金融機関を経由しようとしたこと。デュープロセスの喪失。不平等な補助金の問題。菅政権の説明不足。アベノマスク。五輪開催の是非。一斉休校。リモートワークやリモート授業の是非。医療提供体制拡充の不備。濃厚接触者追跡の方法。ダイヤモンドプリンセスにおいてグリーンゾーンとレッドゾーンが隔てられていなかったことの問題など

 

すべて僕達の社会及び投票した政治家が選んできた結果なのだ。当然ながら未知のウィルスにたいしては間違った選択をすることもあっただろう。しかし間違ったことをすることと、間違ったことを振り返らないことは決定的に違う。間違いを間違いとして認識せずに放置することで社会が受けるダメージは思いのほか大きいはずだ。間違ったなら間違ったでいい。しかしそれは総括されてしかるべきであろう。間違いを間違いとして振り返ることで「自由につけられた傷」を、あるいは癒すことができる。そうでなければこの社会は「十分な合意がある瞬間においては全体主義を肯定する社会」として続いていくことになるであろう。唯一それだけは回避しなければならない。