メロンダウト

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役立たずになったウサギ~終末論に関する雑感~

おひさしぶりです。アメリカで終末論が流行っているという記事を読みました。

 

econ101.jp

 

(記事で書かれているのは正しい情報を知ることで過度に悲観的になる必要はないということで、たとえば「格差や貧困の問題は世界全体で見れば良い方向に向かっている」などの正しい情報を知ることで終末論への免疫になるのだと読める。したがって以下に書くことは冒頭記事への批判ではなく、終末論一般、あるいは楽観や悲観に関して個人的に思ったことになる)

 

 

日本でも終末論はよく見聞きする。

代表的なものでいえば橘玲氏の『無理ゲー社会』あたりだろうか。一昨年に読んだっきりで内容はあまり覚えていないのだが、覚えている範囲で書くと

自由主義により格差が広がりメリトクラシーその他が勃興してきているけれどメリトクラシーや資本主義から逃れても性愛や評判といった形での評価システムが個人を追跡するみたいな話であったり、やる気を持つことや努力できるかも遺伝的要因が半分を占めている」

といったことが書かれていた。『無理ゲー社会』はそのタイトルに違わず終末論に近い内容だったと記憶している。

 

・役立たずになったウサギ

リベラルが個人を推し進めた結果、能力主義が蔓延し、中間共同体が崩壊し、剥き出しの競争社会になったというのは、僕もよく書くことではあるけれど、この手の話が機能的に悪影響を及ぼすというのもよく理解できる。実際、終末論・悲観論を唱えたところで役にたつようなことはほとんどなく、仮にそれが真実であるとしても、終末論の役割はせいぜい自身の人生が失敗した時に他責化・エクスキューズできるという程度のものだ。社会の真実を暴き立てたところで一市民としては話のネタになるのが関の山で、最も有効なものでいっても選挙の時に投票の参考になるくらいのものだろう。

なので冒頭記事で書かれているように終末論を唱えるよりもウサギを撫でるほうがマシという話は支持したいところではある。

しかしながらウサギを撫でているだけでは物事は解決しない。いや、もちろん、かつてのような農耕社会であればウサギを撫でて飽きたら殺して食べればそれで完結するのかもしれないが、終末論や違法薬物のようなものが生活のいたるところにある今の社会にあっては終末論から単に離れるのは対症療法にしかならないだろう。なぜなら、そうしたものはレコメンド機能を通じて追いかけてくるのが今の社会だからである。何の気なしにYoutubeを見ていたら文字が流れるネトウヨの動画を見つけたり、アジテーションにまみれた「世界の不都合な真実」などがそこかしこに流通しているのが現状だ。そうしたものが悪影響を及ぼすことは間違いないが、それを単純に回避できる社会でもない。アドブロックやペアレンタルコントロールのようなものをつけても限界がある。終末論も同様に、仮に悪影響であるとしてもそれを回避することは難しい。

そこで大事になるのは、終末論の機能的悪影響を「悪」や「毒」であると批判するだけではほとんど意味がないため、終末論に吸い込まれる回路にこそ注視すべきだということが言えるし、同時に終末論を直視しそれに取り込まれない胆力をいかに養うかが重要なのではないだろうか。

 

 

・楽観性が終末論への回路になる

終末論がどこからやってくるかに関してひとつ言えるのは「楽観と悲観の溝」からであるように思う。一般に楽観と悲観は対義語として認識されているけれど、それほど明確に区別できるものではないように思う。

感覚的に言って、人は楽観的に物事を見た結果として悲観的になりやすい。終末論のようなカロリーの高い議論に触れられるのはその人が楽観性を持っているゆえだったりする。終末論に触れても自身の意志・格率には影響を及ぼさないという楽観性、または子供のような無邪気さこそが終末論への足がかりとなり、そこで「世界の真実」に触れれば結果的に終末論者へと至る。似たような例でいえば、違法な薬物を楽観的に摂取すれば、将来的には悲観どころか悲惨な結末になる可能性が上がるといった具合だ。冒頭記事でノアスミス氏は終末論に触れるのはやめてふわっふわのうさぎちゃんを撫でようと提唱しているが、まさにうさぎに触れるような心性・楽観性こそが終末論をカジュアルに摂取することに繋がる。したがって楽観的でいることは終末論への処方箋にはならない。

楽観の裏ではなく先にこそ悲観がある。それが終末論の回路であるように思う。楽観的に物事を捉えれば事態が解決するというのは、ニーチェが言うところの「末人の思考」であり、それこそ最悪の終末を迎えかねない態度であるだろう。

 

・自己と社会、幸福と不幸の連関を直視する胆力

僕も多少なり終末論的な議論には触れてきた。いわく民主主義は限界・資本主義では環境破壊を止められない・少子高齢化社会・年金や社会保障は将来的に破綻する・AIが人間の仕事を奪うなどなど。終末論めいたものはそこかしこに転がっている。それが真実かどうかに関わらずネガティブな情報には訴求力がある。したがって終末論は商業的に流通しやすく、かつ悪影響を及ぼしかねないので警戒しなければならないまでは理解できるものの、反転して現実を生きるべきだというおざなりな意見にも疑問が残ってしまう。

というのも、厄介なことに、現実だけを見つづけてもいつかその現実がたちゆかなくなる時がくるのが人生というやつだからだ。楽観的に生きて現実だけを肯定していれば人生がうまくいく、なんていうのは、はっきり言って壊れたことがない人間の戯言でしかないだろう。

多くの場合、人生がどんづまった時にこそ哲学のような自己を解体するような「他者の言葉」が必要とされるし、それらに触れれば、過去の自分が考えてきたことが部分的にスクラップになる。そうした過程を経て「なにがしかの善きこと・幸福なこと」を見つけ取り込むことで自己を再修復・ビルドするというのが哲学、あるいは自己啓発の役割だと思う。

社会学も同様で、自助だけでは成り立たなくなった時に初めて社会へと目が向けられる。そこで自己と社会の関係を知ることになり、全能感や自己責任で生きてきたような人も社会の重要さを認識して自らを改めることになる。終末論もそうした自己代謝における養分のひとつに過ぎず、仮にそれがネガティブであろうとも自身の状況を理解する触媒として役に立つことはやはりあるように思う。いずれにせよ、自己完結的な世界観を持っているだけで満足し社会に目を向けないのは認識の欠落でしかないはずだ。

このような話を補完するわけではないが、ひとつ例をあげると氷河期世代で成功した人が典型的だ。日本においては氷河期世代の苦悩が政治的失策や社会環境にその原因があることは今となっては明らかであるが、そうした悲観的社会観から(幸福にも)離れることができていまだに昭和の自己責任論を唱える人がいたりするが、それはそれで不幸ではあるだろう。苦しい時代でも自身は成功したという矜持は裏返せば傲慢になる素地(生存者バイアス)になってしまうため、自身の成功と世代的問題を相対化しなければ成功した自分自身に囚われるという事態が起きてくる。同様のことは若者特有の全能感にも言えることで、社会など関係なく生きるという根拠なき自信は、多くの場合、そのうち破綻するし、破綻するべきだとすら言える。

ようするに楽観的に生きるというのは人生の道程を念頭に考えた時、ほとんど無茶な話であるように思う。同じように悲観的にだけ生きるというのも極まれば自殺などに至る危険性があるため、もちろん駄目だ。

事程左様に社会を悲観することも楽観することもそれ単体ではどちらにせよバランスを欠いてしまう。そのため、肝要なのは楽観や悲観みたいな極端な話に囚われず、社会云々という話も二次的な条件として「棚にしまっておく」ぐらいがちょうど良いと感じている。社会に原因を求めない(自己完結)も問題があるが、しかし社会にすべての責任を帰属させる(他責化)もやはり問題である。

 

時に個人は儚く脆い。ゆらゆら揺蕩い、惑う。その戸惑いを社会へ追及するだけになると「怪物」となってしまう。肝心なのは終末論のようなセンセーショナルな言論に触れた時に自らが戸惑うこと、その揺らぎを引き受けることであるように思う。

なればこそしなやかな感情を醸成することができるのではないか、なんて思ったけれど、そんな抽象的な話はともかく一部の終末論は単なるチェリーピッキングだったりするのでノアスミスがそうしていたようにファクトベースで批判するのが最も効果的ではあるように思う。

 

書いてて、そらるさんの『ユラユラ』を思い出しました。

世界は残酷で、でももうそれでいいじゃないかという曲です

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