メロンダウト

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再現性一般に関する雑文~老害を嫌うこととオウム真理教~

こちらの記事の話

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外的要因を考慮しないで自らの成果は自らの努力の結果であるという意識が老害の条件であると。よくわかる。

こうはならないようにしようという自省的な話としてはよくわかるのだけど、逆に考えるとこの記事の定義で言うところの「老害的ではないもの」があるのだろうか。再現性のあることとないことを峻別し、自分と他人は違うことを念頭に置くべきだと。それはよくわかるのだけど再現性の話で言えばそれこそADHD鬱病の方にとって見れば「普通に考えて再現可能なこと」が難しかったりする。

あるいは、もっと一般に文字起こしの作業ひとつとって見ても今まではタイピングでやっていたのを音声入力にしたりエクセルでマクロを組んだり、再現可能なものでも再現すべきではないこともある。

職場の人間であればその人の能力等がわかっているので再現可能なことを取捨選択できるけれど、それもまた聞く人にとって見れば老害のように見えるかもしれない。仕事やビジネスの話全般の再現性をとって見てもその人が健康だった以上終了みたいな話にもなってしまうし。再現性を突き詰めていくとなんのことかよくわからなくなる。

こうしたら健康になれるよという万人にとって再現可能な話をしてみても「うっせぇわあなたが思うより健康です」とか言われちゃうしもうそうなったらどうしたらいいのかわからなくなるよね。健康になりたくない人もいるだろうし。タバコ吸って酒飲んで不健康に生きてさっさと死にたい人もいる。話がとっちらかりすぎているのだけど雑文だから気にしないで話をすすめるとこういう話はある程度同じ世界を見ている人の確認作業みたいなものなんだよね。ビジネスだったらビジネスで成功したいという前提が共有されていれば再現性の話ができるけど世の中には「ビジネスとかクソでも食らってろ」と言う人もいて、その人にこれはビジネス的に再現可能だからなんて話をしてもクソを投げつけてる以上の話にはならないわけで。健康になりたい人同士であれば健康になる方法について語り合うことができるけど健康など意に介さない人もいる。つまるところ前提を共有してるかどうかに再現性の話は限定されていて、たぶん上記記事もそうした限定の中で書かれているのでそれはそれとしてよく理解できるのだけど、それを老害にまで広げてしまうのはどうなのかな。広義の意味で言われている「老害」って言葉はそれだけではとらえきれないのではないだろうか。もしくはとらえてはいけないのではないだろうか。

 

「自らが達成した成功体験の再現性を考慮しないで人にそのやり方を説くこと」が老害の一要素なのは間違いないけど、まったく個人的なことを言えばそういう人が僕は好きだったりするんですよね。飲み屋でずっと同じ話をしてるおじさんはむしろ好きだし、昭和の武勇伝をこの時代にしてる人を見るとむしろ和んだりする。再現不可能なことこそむしろどんどん話してほしい。成功体験含む個人の執着にこそ人間的な部分が出るので熱量を持って話す人が多い。そういう話をどんどんしてほしい。むろんそういう話はまったく参考にはならないわけだけど、そういった話に感銘を受けたりして「物語」にするかどうか、再現可能か不可能かはこちら側が決めることなので、その話が再現可能かどうかは言ってしまえばどうでもいいんですよね。ゲイの話がヘテロには再現不可能なように人それぞれの物語は個々の選択のうえにしか成り立たない。なので再現可能か不可能かはこちら側の判断に委ねられると考えるべきだろう。

逆に言えば再現可能な話をして啓蒙してくるような人のほうが嫌悪感を持つ。再現可能かのように見える話をしてきてこちら側を誘導しようとする人間のほうが得てして邪悪なのである。

(上記記事の内容とかなりズレているのは承知しているけれど再現性や老害一般にまつわる話として書いているのでご了承ください。別な話です。)

なぜ邪悪かと言えば、僕は文系の人間なので再現性という言葉を聞くとかならずオウム真理教のことを思い浮かべてしまうからなんですよね。あれもつまるところ再現性の話だった。修行を積んで解脱を目指し超越世界に到達すれば麻原のようになれるという「再現教」だったと言える。多くの場合、再現性があるかのように見えるほうに人々は吸収されていく。再現可能だと思い込んでいるからこそそこに没入していって取り返しがつかないことに、時になる。それにたいして警戒し過ぎることはない。むしろ一見して再現不可能だと判断できる老害的な話のほうが「安全な話」であったりする。バブル時代の名残を引きずっているような典型的な老害話はそれが不可能だと瞬時にわかる。瞬時にわかるとはつまり誘導的ではないということであり、その意味で老害的な話のほうが心理的な安全度は高い。逆に言えば心理的安全度を偽装して再現可能かのように見せてくる話のほうが疑ってかかったほうが良い。それはあらゆる歴史がそう言っている。オウムに限らずともたとえばナチスドイツもそうだった。優生思想を民主主義で実現可能かのようにアジテートをして、大虐殺を行った。あれは民主主義という「こちら側」がヒトラーの演説を再現可能だとして現実にしてしまったたゆえにおこった悲劇であることを忘れてはならないだろう。ナチスが民主主義を経てそうなったように「それを実現するか、再現するか」は「こちら側の決断」だという自覚を持つべきであって、他人が何を言おうがそれを判断する構えが必要だというだけの話である。関連して言えばアーレントが凡庸な悪と書いたことにも接続するが、それが再現可能かどうかは究極的にこちら側の問題と考えるべきである。それがオウムとナチスに学ぶべき教訓であろう。他人が何を話すかだったり、それが再現可能か否かは本質ではない。実際的にはそれを実現するか否かというこちら側の判断「だけ」が重要なのである。

 

現実のコミュニケーションにおいてもこちら側が再現性という尺度を用い、相手の話を説教として聞くので老害的な話を老害だと断定してしまう。そのような態度は相手に何を話すべきかという尺度を委ねてしまっているのでむしろ危険ではないだろうか。逆に言えばそれは自分にも再現可能なんだと理解させるように相手がうまいことアジテートしてきたらその話に乗ってしまいかねない態度だとも言える。それはナチスやオウムの再現性と地続きな考え方であろう。

他人の話は原理的にすべて老害的なものでしかなく、違うのはそれが再現可能かのように偽装されているか否かである。そして、えてして再現可能かのように見える話のほうが危ない。一般に老害と言われる話のほうが個人の執着という域を出ない点で、けだしまともなものであったりする。

 

ようするに、これはあなたにも再現できますよというスタンスでかかってくるのは仕事の時だけにしてほしい。それ以外の場面については再現不可能な話をしてくれたほうが美味しくお酒を飲める。再現可能な話でこちらの警戒心を揺さぶってくるのはやめていただきたい。再現性一般について言えばそのように考えている。