メロンダウト

メロンについて考えるよ

喫煙者差別とうんこ議論について

公的空間における合理解によって分断が生じている。結論から書けば喫煙者の人格を否定している人は議論の素養がない。

タバコだけに限った話じゃないですけどあるテーマで議論した時に二元論で語りだし合理によって決着をつけると、勝者が敗者の人格否定を始めることがあるのですよね。

 

憲法もそうですが護憲か改憲かなんて人格になんの関係もないのに在日や売国奴など差別発言を繰り返す人がいます。逆も然り。凝り固まった護憲主義を持つ人にたいして現実が見えていないから「老害」なんて言う人もいたりする。この点でネトウヨ嫌煙家はマクロな正しさをミクロな人格を規定する材料として持ち出している点で同相であると言っていい。タバコにしても憲法にしても夫婦別姓にしてもなんでもそうですがマクロな政策を議論する時にミクロな人格まで話を広げて規定する人間は議論の素養がない。政治においても保守かリベラルかなんて日本の一般レベルにおいては単なる嗜癖、もしくは見聞の偶然性の問題であって人格とほとんど関係がない。

議論なんかしょせん議論であってはっきり言ってどうでもいいんですよ。

 

そこになにか正しさを持ちだして決着をつけようとすることによって弊害が出てくる。それが分断と呼ばれる。

タバコもどうでもいいまま放置しておくべきだったんですよ。だってどうでもいいでしょ。自分が子供のころは大人がタバコ吸っていようがなんの査定もしませんでした。くさいとは思ってましたけどね。嫌いだけどどうでもよかった。そんな子供のような無査定、無根拠、無合理な態度。その純粋性だけで臨むのがむしろ正しい感性となるような議論がいろいろある。

大人になって権利を考え出し、思考をはじめ、論理を構築しだすのは良いことと思われている。しかしそれら合理性によって無理矢理ひねくりだしたうんこ議論はくさいだけなんですよ。合理的に議論することによって合理が勝ってその反論不可能性ゆえに価値観が常識化する。しかしそれは言語の限界でしかなくて合理がそのまま正しさと考えていいかはまったく違うのですよね。

そんな合理的な常識が「教育化」して若者に考えを周知し決定づける。昔で言えば大人はみなアニメを見ている大人はダメと言っていた。自分もそんな常識に感化されアニメはダメだと思っていました。しかしアニメと人格が全く関係ないことはあきらかです。

昔のオタク差別といまの喫煙者差別が構造的にもう完全にイコールにしか見えないのですよね。

議論することそのものが分断を生み差別を生む。これが議論の弊害だと言えます。嫌煙は時代とか一言で片づけていい問題ではないですよ。うんこ議論が始まったら誰にも止められないのだからまた新たなうんこ議論をはじめる前にうんこは便所でしろと言っておく必要がある。

 

 

憲法みたいに外部から不可避の事態が押し迫っていて議論する必要がある議題については議論するべきだけど無意味な議論は人間を分断するだけ。何が問題かを峻別する必要があって功利的に議論する価値かどうか考える必要がある。議論をはじめる必要性とはじめたことによる分断を天秤にかけて測る必要がある。LGBTフェミニズムはあきらかに必要性のほうが強い。

タバコも健康被害を考えれば必要性があるように見えるがしかしここまで差別的な発言が許されるほどの議論になるのは日本人の性質とかなんか合理の絶対性みたいなものが裏に透けて見えるのですよね。ヘイト的だとすら言っていい。

あるいは単に喫煙者はうんこ議論に参加する前にタバコ吸ってどうでもいいと考えているのかもしれない。どうでもいい議論には参加しない点で議論の素養があり黙る人達なのかもしれない。その比率により嫌煙者の趨勢のほうが強く見えるだけだったり、ネットの議論には熱量を持った人間しか書き込まないので人格否定までいく愚者が可視化されただけかもしれない。

 

とにもかくにも嫌煙家はネトウヨと構造的に同じですこし前に生きてればアニメwwwきもwwwwwとか言ってた連中とまったく同じにしか見えない。アニメとタバコは違うというかもしれないが差別は構造と理念の問題であって対象の具体性をあげつらっても意味はない。というか進歩がない、と思う。