メロンダウト

メロンについて考えるよ

エビデンスに耐え僕達の実存を取り戻す方法~東京都受動喫煙防止条例~

東京で屋内の一部を除いて全面禁煙となるみたいです。↓

http://www.metro.tokyo.jp/tosei/hodohappyo/press/2017/09/08/documents/09_01.pdf

 

このブログではしばしばタバコのことを取り上げて書いています。しかし科学的なタバコ論争、また屋内禁煙等の制度設計には実際のところ興味がありません。法律で分煙するより年間2兆円あるタバコ税を喫煙所設置などに使えば分煙問題もほとんど解決するだろうとは思いますが大きな声では言いません。

とりわけ僕がタバコについて書くのは社会の様相を最もとらえやすくしてくれる記号がタバコだからです。

 

書いている立場だけで見れば喫煙擁護ととられかねないかもしれませんが、タバコが禁止になろうがなるまいがどうでもいいです。僕は喫煙者ですが最近はもう諍いを考えるのもめんどくさいので外ではほぼ吸っていません。

と長々と前置きを書かなくてはいけないほどの嫌煙社会ですが

タバコこそが実存対合理、利己対寛容、言語対非言語の構図をよく表していると僕はとらえています。

 

 

言語対非言語

コミュニケーション能力という言葉が最近になって取り沙汰されるようになってました。ちょっと考えればコンビニや牛丼屋などこれだけコミュ力が必要とされない社会も過去になく個人でも生きていける環境がある、にも関わらずコミュニケーション能力が逆に必要になってきたのに非言語コミュニケーション(ノンバーバル・コミュニケーション)の没落が関係しているように感じることがあり、その代表的なものがタバコだと言うことができるでしょう。

タバコを吸う方なら知っていると思いますがタバコはコミュニケーションの道具として非常に優秀なものです。ミラーリングといって相手と同じ動きをすることにより親密性が高まると言われています。飲み会での乾杯などもそうですね。タバコでも同様で人と一緒に吸うとミラーリングが成立しコミュニケーション能力がない人間でもノンバーバルコミュニケーションにより人間関係が始まりやすくなる。

またタバコには沈黙の共有というノンバーバルコミュニケーションも組み込まれています。タバコを吸う動作を介在させ煙を愉しんだりすることで言葉を発さずとも沈黙が気まずくならない。

嫌煙によってタバコで成立していたノンバーバルコミュニケーションが消えたのがコミュニケーション能力が過剰に必要になった遠因だと見ることができ経験上も確信してそうだと言えます。

 

 

利己対寛容

寛容とはそもそもなんだろうか・・・

一般に相手のことを許すとか多様性を尊重するとかの意味で使われ非常にポジティブな意味合いが強いがしかし

僕が思うに寛容はそんな楽しいことではなく、ただ耐えることでありどこまで沈黙できるかでしかないように思える。

というのも人間には好き嫌いがあり、嫌いなものはもうどう考えても嫌いなので沈黙することしか現実的な手段がない。例えば自分はラーメン二郎が嫌いなのだが二郎を美味しいと思うことは自分には不可能なんですよね。臭いも嫌なので店の前も通りたくないのだがじゃあ自分が二郎の味に多様性を認めるとしたらもう「食べないこと、食べてまずいと言わないこと」しかできることがない。

あらゆることでも同じことが言えてLGBTの性癖なんかも理解不能だけど異性愛者にできることは時に気持ち悪いと思ってしまうその声を押し殺して黙るしかないわけですよ。

何が言いたいかというとつまり寛容を現実というフィルターに噛ませた時に出てくる回答は沈黙しかない。そしてその沈黙の強要は悪しきようにに見ればはっきり言って迷惑と言うこともできる。100%の主観で世界を見るならば僕は世界に二郎がないほうがいいと思っているのだから。思っているが黙る。それしかない。

 

タバコも同じ論理で言うことができる。臭いと非難するのははっきりと寛容の精神に外れており利己主義者の言うことなので喫煙者は無視すべき。また寛容を謳うリベラルで嫌煙は自己矛盾しているので自覚的になり黙るべき。

喫煙者は副流煙健康被害にだけ気をつけて吸えば問題あるはずがない。(副流煙についても5年ぐらい前にいろいろ調べたんですが情報が混乱していて3万人の標本をとった論文で害がないとされたものがあるようです、が加害の可能性がある以上は遠慮したほうがいいでしょう。)

寛容の精神、多様性の観点からタバコが臭いことを問題視する人間は利己的でありそちらのほうがむしろ問題と言えます。

 

 

実存対合理

これは以下の記事に感銘を受けたのではじめに紹介しておきます。自分が考えていることにかなり近いと、何度もうなずきながら読みました。

言葉にできなかった漠然としたものを明確に言葉にしてくれることのなんと頼もしいことでしょうか。。。

10plus1.jp

エビデンシャリズムには、互いの想像を信じ合う者としての、あるいは裏切り合うかもしれない人間を不在にしたい、という欲望すら含まれているように思われる。 

 

エビデンシャリズムは合理主義と換言することもできるように思えるのでここでは便宜的に合理主義、対実存主義の立場から書かせてもらうことにします。

タバコに関する文章を読んでいるとタバコを吸う人間のことを嫌煙者は考えていないように思うことがある。

喫煙者の実存を無視してタバコを科学的に悪であると語ることはまさに合理そのものであるがその意見には身体を伴った人間を想像していない。喫煙者という他人の存在を無視し合理という名を借りて発散させた欲望がまさに嫌煙だと言うことができるでしょう。

タバコだけに限らないが対面性がないコミュニケーションにおいては常に合理が勝つがしかしそれは人間を想像していない時点で前提から破綻しています。

タバコのようにまったく合理を見つけることができないがしかしコミュニケーションを時に円滑にしてくれたりするもの、非言語的で不定なものはエビデンスがないとして弾圧され消えていく。

しかし合理主義を突き詰めて人はいったいどうしたいのだろう。みんな個人の生活においてはそんな合理だけで生きているわけではないことももちろん知っています。しかし集団として意見を集めた時に合理だけが勝つことをインターネットなんかではよく見る。そしてその合理が人間の非言語的実存を殺していく。

 

他人の実存を草食男子や喫煙者などとパッケージ化することで意見を発する先に想像するのが正義だったり社会だったり合理だったり世論でしかなくなっているのではないだろうか・・・この文章もあるいはそうですね。

意見を発した先に居る「個人」、その身体を想像することだけが合理(エビデンス)に耐え僕達の実存を取り戻す方法かもしれませんね。

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