メロンダウト

メロンについて考えるよ

自由の二面性と自然権、そしてラブドール

小児性愛者がラブドールを購入したくだんのツイートだけど

ものすごく単純化して言ってしまえば加害性のない人、事、物はないという大前提が無くなっているのが諸々の問題に見えてしまう。

今の言論、特にネット論壇において支配的なのは被害者が善であるといったリベラル的思考様式だが、それゆえに小児性愛の加害性にたいして拒否反応を示す人がいる。けれど、そう言っている人もなにがしかの加害性は持っている。人間の存在そのものがパーソナルスペースにたいする加害であるし、カップルが街中を歩いていることも独身者の嫉妬感情をかきたてる点で加害であるとも言えるし、親子で街中を歩いているのも不妊治療をしている方からすれば加害性を持つ行為だと言える。

もちろんこういった当たり前の日常にたいして加害という言葉を用いる人はいないし、用いるのが適切とも言えない。しかし厳に考えればこれらも加害である。

同様の理由で小児性愛を模したラブドールや関連するフィクションも当然ながら加害性を持つ。フィクションにかぎらずノンフィクション作品も加害性を持つ。しかし小児性愛などが上述したような日常的行為と決定的に違うのは小児性愛が自然的、動物的な行為ということである。

 

社会契約論を提唱したルソーの理論的礎となったものにジョン・ロック自然権といった概念がある。社会が社会として構想されるには社会以前の状態がどのようなものかを仮想しなければ社会を語ることは難しいと考えた。

ロックは社会が成立する以前の状態を自然状態と仮定し、自然状態で人間が生来持っている権利は「生命」「自由」「財産」「人権」の4つであると提唱した。これらの4つをロックは自然権に数えた。近代国家における社会契約や法律、善の基準はこれらの概念が根底にありこれらを侵す行為は犯罪として処罰されることになる。

自然状態を仮定した時に最も重要な権利は何かを構想し、そのうえで社会状態をつくりあげていくのが近代国家の成立に大きくかかわっている。

そのような経緯を考え、小児性愛を考えるに小児性愛を実行したら子供の自由を侵している点で当然ながら処罰対象になる。子供は自由に基づく合意をとれるだけの力関係にない点で子供の自然権に反する。しかし小児性愛を嗜好することは誰の自由も侵していないので処罰の対象とはならない。児童ポルノ所持などはそれらの需要を生むという点において子供の自由を侵害しかねないので処罰の対象となる。

ラブドール所持の議論に関して思うのは単純にこれだけであるが

 

一方でラブドール小児性愛を助長するのかといった問題がある。これに関しては助長することも当然ながらあると考えている。一般的な意味であるというわけではなく可能性としてゼロではないといった意味である。フィクションが現実に影響を与えることは事実としてある。それはみなが知っていることだがそれ自体が問題として考えられるべきではないというのが僕の意見である。

 

もっと一般的に問題として考えるべきはすべての人・物・事が加害性を持つ原罪にたいしてどうやってその加害性を担保するのかではないだろうか。聖書やコーランもそれによって宗教戦争が起きて数えきれない人が亡くなってきた。焚書なども表現の自由にたいする悪しき歴史として語られることが多いが焚書は自由に反する行いではなくむしろ自由のために行われてきたという側面がある。本を出版し、読ませ、だれかの心境を変化させることは加害的行為と言うこともできる。あるいはもっと単純に言ってしまえば本は洗脳的な装置として働くこともある。このような理由から本を読ませることは誰かの意識を変化させる点で他者の自由を侵害する行為とも言える。もちろんこのような理由から焚書が正しかったと言いたいわけではない。

本の著者と読者のような相互関係において考える時には自由は二面的だということについてこそ留意すべきではないかと考えている。

ここでいう自由の二面性とは表現の自由と見聞の自由がそれにあたる。誰かが何かを表現する時にそこには当然ながら加害性が含まれる。しかし僕達には見聞の自由がありその加害性を受け取らないという選択を取ることができる。あなたが何を言おうとかまわないがそれは聞き入れないといった選択ができないことがこの手の問題を複雑にしている。つまり表現の加害性を当然のものとして考え、問題を見聞的に判断すればいい。こちらが受け取らない限りそれは問題とはならないという視点が欠けている。あるいは誰かがそれを受け取らないという想像力に欠けている。小児性愛を題材としたフィクションを好んで読む人が現実にその行為をするものとしてそれを受け取らないという他者の自由にたいしてを想像するべきだが、そのような自由については誰も考えない。他者は自由を行使できないとパターナリズム的に考えている人が今回のような批判をおこしがちであるが実際のところなにかを見聞し、反社会的な行為をするとすればそれはその人の理性の無さによるものがほとんどでありフィクションがそのスイッチを入れることは稀か、もしくは偶然である可能性のほうが高いのではないだろうか。

 

あらゆる加害性を言い出したらすべてのものに加害性は含まれているわけだが僕達はそれを受け取らないことによってはじめて「こちら側の自由」を生きることができる。それは大人になれば誰しもが無意識にやっていることだけれど、無意識だからこそこういった議論の場で明言されることがない。受け取らない選択をした人はみな一様に黙るからであるが黙ることがむしろ真にリベラル的な行為であったりする。もちろん批判するのが悪いことだと言いたいわけではない。

見聞の自由を放棄し、問題について無視せずに批判をするには相手の加害性と向き合う必要が生じ、その点で批判者はすべて被害者となる。あるいは批判者は被害者を代弁することになる。そして批判者と被害者が重なることによってよからぬ方向に議論が進むことがある。批判者=被害者=リベラル=自由といった図式が単純化されすぎていることが諸々の問題で見られる傾向である。誤解を恐れずに言えばこの世界には被害を回避する自由があるのと同時に加害する自由もあるのである。

見聞の自由を行使せず、無視せずになにがしかの表現を見た時に表現には必ず加害性が含まれているのでそれを批判した時に批判者は必ず被害者になることができる。それが被害者の聖域となっているがその聖域を批判するモデルが議論の場においてほとんどない。

そしてその聖域はどんどん拡張していき、被害者が正しいといったリベラル的世界線によってすべてのきわどい表現が敵化されていくことになる。

こういった被害者的な価値観によって世界をならしていくとあらゆる欲望はいただけないことになるだろう。小児性愛だけではなくたとえば肉食も出生も異性愛も同様だが原理的に加害性を含む行為にたいして被害者的視点で世界を語るとかなりおかしなことになるというのがここ数年で見えてきたことである。

 

ものすごく開き直って言ってしまえば加害することの何が悪いといった強弁ができないところに諸々の問題がある気がしてならないのだ。今の論調を見ていると加害性は悪、被害者は善といったモデルに立脚しすぎている。

しかし本当に考えられるべきは見聞の自由のほうではないだろうか。見聞は自由ではないと考えている人が大勢いてそれが小さな問題を大きくしている。それが今回だけではなく様々な議論を見ていて思うことである。

 

 

 

自由には当然ながら責任が伴う。何かを自由に見聞きし小児性愛を題材としたフィクションをなぞるように現実にその行為を行えばそれは法律によって裁かれる対象となる。しかしそれは責任を逸脱したことにたいする処罰であり表現の加害性にたいする罪ではない。性犯罪を犯せばそれは当人の行為にたいする処罰である。

もちろん動機やその背景には無限の可能性がある。小児性愛を題材にした作品を読んだことが犯罪のきっかけになることもあるだろうがそれだけではなくもっと無数のスイッチによって人間を駆動させると考えたほうが自然ではないだろうか。

つまるところ人間が何に影響されるか何によって駆動されるのかはわかったものではなく残虐な作品を読んで残虐な行為をする可能性もあれば秋葉原で通り魔を行った犯人のように明るい社会にたいする反発としてそういう行為がなされることもある。つまり表現がどうその人の心に影響するのかは実に多面的であって一様にこういう作品はこういう行為を助長すると言えたものではないと思うわけである。 むしろもっと別の、もっと根源的な歪みがないと児童犯罪には至らないだろう。それは異性愛者の男性が全員レイプ願望を持っているかという問いに近いものがあるが性的欲求がそのまま性的加害性として認知されるのはどうにもよくわからない話である。それは男性としての身体感覚から言えばまったく別のものでしかないからだ。

なんにせよフィクションが現実に影響を与える可能性はゼロではない。

しかし それをどう見聞するかの自由は自然権によって担保されていて、そして自由を侵す行為は社会契約として罰せられる。いまのところそれ以上有効な方策はないのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

ところでなんで今になって小児性愛等の作品が問題になっているのだろう。ラブドールを問題にするのであればもっと広範に女子高生をかわいく描いているほとんどのアニメ作品や同人詩もアウトになるわけだがなんか直接的なのがアカンのかこの手の話題は基準がかなり謎に見えてしまう。