メロンダウト

メロンについて考えるよ

貧すれば転ずる

もう随分前から転売が批判されているけど、転売批判を見てるとパチンコを連想してしまうこの頃です。

昔ちょろっと書いた記憶があるのだが、個人的な話をすると、大学3・4年次の学費をすべてパチンコで支払っていたことがある。当時、とある事情により学費を自分で払わなければいけなくなったのだが、僕が通っていた私立文系の学費は年間90万ほどでアルバイトで支払うには生活費を加味すると難しい金額であった。また、時間的にも拘束される。そのため、授業の合間など空いた時間にパチンコを打って稼いでいた。時給2500円ほどで月50時間ほど打ち、運良く期待値とそれほど乖離しない収支になり学費を支払うことができたのだが、正直言ってあまり楽しい時間ではなかった。しかしパチンコに「助けられた」のも事実だ。

 

転売批判を見ていると、当時のことを思い出してしまう。

はてなのようなエシカルなコミュニティーに自分はいたりするけど、もともとそんな高尚な人間ではないんですよね。フミコフミオさんのブログだったかがたまたまキュレーションサイトに流れてきてはてなに漂着したのが最初だったように思う。その後、なんとなくブログを書き始め今に至るものの、「転売的」なものと自分は縁がないわけではない。パチンコで稼ぐというのも一般的には何の生産性もない迷惑な行為であり、店にとっては必要ない客ではあるだろう。転売も似たようなもので、様々なところで指摘・批判されているように社会悪としての側面が強いのは間違いなさそうだ。似たようなところで言えば最近はパパ活などもそうかもしれない。

そうしたある種グレーゾーン的な「稼業」について第三者的に批判することはものすごく容易であるが、現実的に考えた場合、彼ら彼女らにとってオルタナティブがあるかと言えば、個人的には口を噤み同情してしまうところがある。なぜなら、僕自身がやんごとなき現実に直面した時にやはり「小さな悪」を選んでしまったからだ。

 

転売に関する議論を眺めているとそのような想像力が働いてしまう。

先日、転売ヤーを特集していたNHKねほりんぱほりん』でも転売で家族を養っている男性が出てきた。

www.nhk.jp

ネット上では批判一辺倒で「転売で食う飯は美味いか?」というものまであったけれど、彼にたいし就職しろと言ってみたところで生活水準を維持できるような所得が得られなければ「小さな倫理」よりも「現実(生活)(家族)」のほうを優先するのは自然であるように見えてしまった。なんというか行為それ自体を批判し、その悪辣さを論証するのは簡単であるが、こちら側が想定する倫理にあちら側の現実が追い付いていなければ善悪を説いてもまったくもって無意味だよなとしか思わないのだ。ご飯をどうやって食べるか考えてる人に「ご飯の属性」を説くのは空々しく響いてしまう。

僕自身の経験を振り返るに、アルバイトで学費を賄うのが難しく、けれどなんとか工面しないといけないとなった時、ネット上でそれは社会悪だと指摘されたところで「だからなんだ」以上の感想は持ちえなかった。ましてやそれを生活の糧にしている人にとってはなおさらだ。踏み越えうる悪の境界線はそれぞれ違う。おそらくは転売ヤーも、転売と商社の商倫理的な違いを説明されてもどこ吹く風なのであろう。それは容易に想像がつく。

転売ヤーと商社を一緒だと思っている人もいるのでその違いを説明する - Togetter

 

 

というか転売批判のようなネット上の議論を見てると単眼的ではないかと思うことがある。転売は悪い、パチンコはギャンブル依存のように認識しがちで「話の外に出られない(連言錯誤に陥る)」ということが往々にしてあるように思う。人間は両義的な存在で端から見るのとは全然別の側面・機能を持っているものだ。人はどんな形であれ社会に参加している以上、役には立っているのだろう。同情的に過ぎるかもしれないが、『ねほりんぱほりん』に出演していた転売で家族を養っている人も、転売という悪行をしながらも子供を育てるという別の側面から見れば社会の役にたっており、「もうそれでいいじゃないか」というおよそ論理的とは言えない結論を持ちそうになる。

 

無論、こうした話が議論としては間違っているうえ「同情論」の域を出ず、また、同情論が行為の正当性をひっくり返すということもないのだが、転売ヤーをどうやって社会の一員として包摂し転売をやめさせることができるかを考える時、大切なのは論理ではなく感性のほうではないだろうかと、そう思うことがある。

悪行をしているから悪人ではなく、悪もまた現実であり同じ社会の一員だと歩み寄る(部分的同情を行う)ことでその人が悪行から脱出しようとする動機付けになりうる。逆に、経験上、論理的説得というのは最も危うい。善悪を超えた感性によって歩み寄り、集団として混ぜっ返され、個人的利得と社会的善悪の相克に相対した時、はじめてそこに倫理が現出しうるように思う。平たく言えば倫理が重さを伴うようになることではじめて現実と天秤にかけられるような議論が可能になる。逆にレトリックや感性を排除し、初手から倫理や道徳を説くというのをネット上ではやりがちだが、それは議論の為の議論にしかならず、そのような論理で現実を掬うことは、経験上、まずもってありえない。赤の他人が説く倫理には現実的な「重さ」がないからだ。

 

 

こうした「言論の射程距離」みたいな話は転売に限ったことでもないように感じている。社会的なフェーズで言えば、「個人主義により個々の現実が断絶された以上、他人を批判したり善悪を説いても空虚に響くだけ」という側面がある。

かつてのような互助的な共同体の中であれば倫理(掟)を説くことに意味があったのかもしれないが、ムラを解体した今、ネット上で倫理を説いたところで「住む世界が違う」「だからなんだ」で切断処理されて終わりである。

転売だけでなく、政治的言説の分断もそうであるが、本邦のムラは軒並み島宇宙化し、個人はその「離れ小島」を自由に行き来する存在になっており、そこでそれぞれが独自の宇宙(世界観)を形成しているのが現状だ。

かつてムラが果たしていた「仲間を諫める」というような社会的機能は喪失し、同じ目的・同じ趣味・同じ倫理観で集まった集団、つまりエコーチェンバー内で自分たちの正しさ・現実・境遇を共有することに注力し、批判が届く(効く)ためのプラットフォームはもはや失われてしまっているのだろう。かつてはムラにおける「仲間意識」が倫理を守るための土壌として機能していた。しかしそのようなムラは存在しなくなった。上述の転売ヤーを例にとって見れば、ムラがなくなったことで他者との緊張関係がなくなり、家族を守るための「方法論だけが現実」になるのである。

そのような社会において、倫理を実装する代替手段として採用されたのがSNSにおける炎上のようにも見える。ネットでの炎上をもってしてカオスな個人を正すことを社会のブレーキとして採用しているのだろう。現実ではハラスメントやコンプライアンスにより他者へ侵犯するのが部分的に難しくなった結果、ツイッターで引リツしてツッコミを入れるというのが今の社会で他人にたいし倫理を説く唯一の機能のようにも見えるが、しかしながら、そのような「赤の他人が説く倫理」にはどうしたって限界がある。特に転売ヤーのようなネット上のプレゼンスを気にしない人にたいしてはなおさらだ。キャンセルカルチャーが問題だと言ったところでキャンセルされるのは社会的信用を持つ人に限られるのが現状で、そのような「政治」とは全然別の生活世界が他方では広がっている。

つまるところ転売ヤーとはゆえん「不届き者」の類であるが、転売を批判してもその倫理・言論が届かないという状況、その絶望的な距離・世界観の相違を考えると、近年しきりに言われてきた共同体の崩壊といった社会的背景もやはり無関係ではないように思える。

そして、このような状況を突破するブレイクスルーが「感性」ではないかと思うのである。

 

すこし長くなってしまったので端折るけれど、転売の話で思い出すのが『ブルシットジョブ』の件だ。

人は相応の現実が投げれば倫理を切り売って生活する、というのは働いていても感じることで大なり小なりそういうものだと思う。『ブルシットジョブ』にも「人間はクソどうでもいい仕事をしながら社会の役にたっているフリをする」と書かれていたけれど、本当に社会の役にたっているかどうかは多くの仕事をとってみてもよくわからなかったりする。転売をやっている人も「転売は流通経路を提供している」という点から社会の役にたっているフリをしている人もいそうだ。転売やパチンコほどわかりやすい形ではなくとも、エッセンシャルワーカーを除けばなんのためになっているかよくわからない仕事は今や山のようにある。こうした点から言っても「転売的」「フリをする仕事」は拡大していると言うことができる。

厳密に定義された論理によって「あなたの仕事は社会に必要ない」と導き出されるということもこれからの社会ではないわけではない。転売は誰もが批判できるだけで、自らの仕事が功利主義的に考えて社会の役にたっていると言える人がどれだけいるのか。転売屋に向けていた批判がそのまま自分に返ってくることがないか。そのような戦慄・不安からも転売を直接的に悪だと言うことに躊躇を抱いてしまうのだ。

 

「未来の言論風景」と「身も蓋もない現実」と「倫理を説く社会的土壌(ムラ)の喪失」を考慮すると安易に転売を批判する気にもなれなかったりする。

 

※無論、PS5を買えなかった恨みは忘れてはいない

 

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