メロンダウト

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PS5転売とパチプロの絶滅~情報化社会について~

PS5が欲しい。ひきこもってゲームしたい。アマゾンで予約販売前から張り付いてたのに買えなかった。転売屋絶滅しろと個人的には思うのだけどそう単純にも思わない自分がいる。

・・・なんというか、いつか見た景色だと思うからだ。

かつてパチプロという人種がいた。パチンコ屋で日銭を稼いでいた人達だ。

パチンコ屋には優秀な台というのが存在する。店が釘をたたくことによって客が勝つように調整する台のことである。パチプロは釘を見ることによってどれが優秀な台かを見極めて打っていた。それにより利益を得る。それがパチプロの生業であった。本来は普通のお客さんへの利益還元を目的とし、店が釘をたたいた優秀台をパチプロが打つわけで店の思惑とは異なることになる。普通はそう思うかもしれない。

しかしそうではなかった。パチプロが打つことによって出玉アピールにもなっていたのだ。普通のお客さんは2時間程度打って帰るお客さんがほとんどなのでどれだけ釘をアケても大当たりしたらすぐに換金してしまうので出玉アピールにはならない。一方のパチプロは10時間とか打つわけであるがそのぶん出玉が長時間アピールされることになる。奇妙な共存関係にあるのがパチンコ店とパチプロだった。

それをパチプロも承知していたので優秀台で充分に出してこれ以上は店にとって迷惑だと思えば閉店時間までは打たず、他のお客さんに打たせようと離席したりしていた。

本来は店にとって迷惑なだけのパチプロが店にとっての広告塔になり、普通のお客さんにとっては台を譲ってくれる良い人という奇妙な関係が成立していたのだが・・・そんな状況は続かなかった。

 

インターネットの登場によってそれは劇的に変わった。パチンコは勝てるもの、稼げるものだという情報が流布されると店が台をアケても他のお客さんのことを考えず、共存関係なんて無視して閉店時間まで打つだけの人達がたくさん出てきた。あの店は出る、あの台は出せるなど情報として広まった瞬間にどこからともなくイナゴのようにその店にやってきて抜けるだけ抜いて去っていくのである。そこに以前のような関係はなかった。

 

そのような状況なのでパチプロの存在意義はなくなった。優秀台を置けばイナゴに持っていかれるだけなので店にとって釘をたたくメリットが何もないのだから自然そうなる。店も台をアケなくなり、台をつくるメーカーもパチプロに有利な台を出すことはしなくなった。以前は銭形平次に代表されるようにパチプロだけが勝てるように作られた台も存在した。パチプロが出して普通のお客さんが出る台だと思って打ち、店が利益を得るという関係があった。しかしそのような関係も続かなかった。今では誰が打っても変わらない台しかない。

情報化によって情報格差がなくなり、誰もが勝ち方を知った時に共存関係は破壊され、パチプロの存在意義も優位性もなくなることになった。店も台をアケなくなり、台にたいする技術介入もできないのでパチプロは絶滅した。

 

以上のような経緯は転売屋とそれを批判する構造に似たものがある。

情報化社会においてパチプロが出す店に群がるようになるとお客さんが店に迷惑だと言う。その声に店は対応し、全員に平等な台を置き、その要請にメーカーも従い、全員に平等な台をつくるようになる。そしてパチプロは絶滅した。しかし情報化する前までは共存できていたのだ。単に迷惑な存在ではなかった。

それは転売屋にも言えることである。例えばブランド品などが良い例であるが若者に人気なSUPREMEなどが良い例ではないだろうか。あれも転売や流通戦略によってブランド価値が釣り上げられ本来の価値よりも高く取引されるようになった。

メーカーが服をつくり、転売屋や広告業界が宣伝を打つことによってブランド品となり、それをお客さんが買う。ルイヴィトンなども同様であるが中古品を流通させている業者が価格を釣り上げることによって広告として宣伝される効果がある。それだけ高いものは良いものであると。しかしSupremeのロゴがはいっただけの白いTシャツにそんな価値があるわけがない。ブランド品とはつまりメディア戦略の結晶であるがそれを下支えしていたのが中古品流通業者などであった。

 

しかし情報化社会になり、中古品を流通させたり転売することが儲かると周知されるとかつてのパチンコのように共存関係を無視する人達が群がるようになった。Nintendo Switchを購入するためにマナーを無視した買い方をしたり共存関係なんて無視して自分の利益確保に動く人達がたくさん出てきた。それはかつてのパチンコの状況と酷似している。

その結果、転売屋や中古の流通業者は今のパチプロと同じような状況になった。パチプロが単に迷惑な存在になったように転売屋も迷惑な存在としてしか見なされなくなった。

今の転売屋批判を見ているとそのような感想を持ってしまう。上述したように転売や中古品流通業者はその物のブランド価値を高める役割をかつては持っていた。しかしそれは情報化によって物の価値が周知され、開かれた社会において許されなくなった。転売は不当に値段を釣り上げ、サヤをとることとしか見なされなくなった。

AmazonでPS5が50万で出品されていて批判しかされていないが、あれを見てそれだけの価値があるものだと考える人も出てくるだろう。それによって本来の価値よりも高く流通することになる可能性もある点でブランド戦略としてはSONYに寄与しているのだ。ただ、アパレルなどのブランド用品とは違い、ゲーム機のハードはユーザーに届くことが重要なのでPS5にブランド価値が出てもメーカーにとって良いことは何もないところであるが・・・

 

まとめると

パチプロは店と共存関係にあったがそれは閉じた環境の中でのみ成立していたものだった。転売も閉じた環境でのみブランド価値を釣り上げることができた。情報化社会になると全員がその物の価値をすぐさま判断できるので下駄を履かせて売ることが批判されるようになった。

みんな消費者として利口になった。それは良いことである。しかし同時に物やサービスの「幻想的価値」を消滅させた。すべてが本来の価格に均されていく。至極平等で正しいように思える。ケインズの神の見えざる手で言えば当然のことであるが供給曲線をスライドさせることができなくなれば需要曲線のなすがままになる。

それは生産者として考えるとどうなのだろうか・・・物の価値が均されていけば自社工場を持つ大企業が常に勝つことになる。そこに介入する余地はない。Supremeが生まれることもない。

と、考えてはみるもののもはや情報にアクセスするのは人間の権利となっている社会において転売屋が批判されるのは自明のものでしかないのだなと素朴に思ったりもするのだ。それはパチプロが消滅した時と同じである。パチンコを打って生活できていた時代のほうがおかしいのは当然なのだから。