メロンダウト

メロンについて考えるよ

限界集落と自己実現的予言

地域おこし協力隊として限界集落に移住した人が地域の有力者から嫌がらせを受け、ストレスにより入院、引っ越しを決断したというYoutubeの動画が各所で話題になっています。

動画のリンクを貼っておきます。見ると色々考えさせられます。

 

www.youtube.com

 

動画を見ると田舎暮らしの現実を突きつけられる感じがしてなんとも言えない気持ちになってしまうのだが、思い出すのが富山県政をドキュメンタリーとして描いた映画『はりぼて』で、この映画でも地方における有力者の杜撰さ・滑稽さが写されていた。

映画『はりぼて』予告編 - YouTube

領収書偽造・女性職員の机を物色・カラ出張・政務活動費着服などやりたい放題でドキュメンタリーなのにフィクションに見えてくるほどで、最終的には変な笑いがこみあげてくる映画だった。

 

冒頭の動画や『はりぼて』で示されているような状態、つまり「田舎の牧歌的な雰囲気の中で暮らす市民はのどかで良い人である一方、有力者や政治家は保守的で閉鎖的」というのはそこまで特殊ではないように見える。もちろんすべての田舎がそうだということはないのだが、かなり典型的ではあるだろう。

 

そして、こうした田舎の実態を見ると反射的に政治家や有力者を排除すれば解決すると考えがちであるが、事はそれほど単純ではないはずだ。政治家の汚職が悪いのは誰もが同意するところであるが、市民の「のどかさ」というのもけっこう厄介なものであり、もろ手を挙げて肯定できるものではない。というのも、のどかで良い人ばかりだからこそ政治家が汚職をしても寛容さを発揮し「流してしまう」ことがあるためだ。政治に生活レベルの寛容さを援用すると民主主義の機能である権力への監視が働かず、政治家・有力者の保守化を招き、村を硬直させることになる。事実上の独裁政治のようになり政治家も有力者も「調子に乗ってしまう」、あるいはもっと普遍的な言い方だと「権力は腐る」とも言えるかもしれない。つまるところ田舎の牧歌的風景(非政治性)と、その牧歌性により腐る権力はトレードオフの関係にあるのだろう。

冒頭の動画がまさにその典型例で、生活レベルでは皆良い人だと語られているが、政治レベルでは権力が形骸化し人の話を聞かない「はりぼて組織」が生まれてしまっている。

牧歌性というのは単純に称賛して良いものではないように思う。共同体を持続的なものにするためには時に牧歌性を捨てなければならない。腐った権力には退場していただく。そのような「政治的代謝」が、時として必要なのだろう。

 

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また、冒頭の動画を見て「自己実現的予言」を思い出したので、それについてもちょっと書いていきたい。

自己実現的予言とは、心理学でよく言われる「ネガティブな発言をしてると本当にネガティブになる」みたいな話である。

心理だけでなく社会・経済的にも自己実現的予言は機能していると言われる。

経済的に言えば、日本経済は不況だと言っていると皆が収入を貯蓄に回し経済が回らなくなることで本当に不況になったりする。銀行が破綻するという報道がなされればそれがデマであろうとも取り付け騒ぎが起きて実際に破綻してしまったり。あるいは株価が「思惑」によって上下し現実の価格が決定したりする。

その言葉・報道の真実性如何に関わらず人がある状況を真実だと決定し意味づけるとその「真実・意味」に引きずられる形で「結果・現実」が後から追従してくる。それを自己実現的予言というらしいのだが、経済・心理に限らず日本の田舎でも自己実現的予言が起きていると見ることができる。

「田舎は○○だ」という言葉によって定義づけ・意味づけを行うと本当にその通りになっていく。例えば、田舎は閉鎖的だと言うと閉鎖的な空間に適応できる人だけが移住するようになり本当に閉鎖的なところになる。あるいは、田舎は牧歌的だと言うと「非ー東京的」な人、つまり競争や交渉に向かない人が集まるようになり、過剰な寛容さが政治の現場にも発揮されることで民主主義が機能しなくなるという事態が起きたりする。

 

田舎だけでなく、ありとあらゆるところに言えることで、たとえば東京には仕事があると言うと人が集まってくるようになって本当に仕事が生まれるようになる。

インターネット上でも同様の現象が確認できる。昨今ではアンチフェミが行き過ぎていて「フェミニズムは異常者の集まりだ」と言う人がいたりするが、そういうことを言うと自分は異常者ではないと考える市民はフェミニズムから事前にパージされていくようになり、他者の意見を気にしない人が集まるようになることで本当にフェミニズムが異常者の集団のようになっていく。

また、自己実現的予言が最も顕著に表れるのが子供で、子供にたいし「成績が悪い」と怒ったりすると本当に成績が悪くなったりする。

いずれにせよ、なにかを定義づけたり意味づけると現実がその定義に回収されてしまうという事態が起きる。

平たく言えば言葉には「言霊」が宿るのである。

 

 

こうした諸々の予言が的中している例や田舎の実態を考えると、自己実現的予言を回避するのは困難であるように見えるが、対処としてはそこまで難しくはないように思う。

その対処法とは「結果は結果でしかない」と考えることにある。

昨今ではひろゆきの影響か、統計やデータによって論破というのが議論におけるスタンダードのようになっているが、自己実現的予言を勘案するに、結果だけを参照するのは危険である。なぜなら、「結果から結果を再生産」してしまうということが往々にして起こるからだ。それには注意を払ったほうが良い。

もちろん統計をひっくり返すことはできないしするべきでもないが、しかしながら、統計が大事だと言えば言うほど結果に憑りつかれてしまう。エビデンスはその定義上、結果・真実から離れることができないため、現実が結果にスタックし脱出できなくなるというのが自己実現的予言の恐ろしいところであるのだが、そこで大切になるのが一度結果から離れてみることなのだろう。パラレルワールドではないが、別の世界線を引くことで今ここにある結果が「ひとつの結果」に過ぎないという多角的な視座を得ることができるように思う。

とはいえ結果や真実から離れすぎると陰謀論になるのでそれはそれで注意が必要ではあるのだが、しかし真実にだって毒はあるのだ。それを僕達はしばしば忘れてしまう。データにもとづく意見「だけ」を摂取することで社会・経済・心理といったあらゆる側面で真実という毒に蝕まれているとも言える。

しばしば「歴史は繰り返す」と言われるけれど、「歴史は繰り返す」という言葉により本当に歴史を繰り返してしまうことがある。そこから脱出するには歴史は繰り返す「とは限らない」という付言を行うことで現実を再定義可能・訂正可能なものとして捉え返す余地を残す必要がある。予言や統計に縛られるほど僕たちの現実は不自由ではないし、結果や真実というのは元来、自明ではない。自明ではないと考えることで新しく意味づけすることができる。あるいは、自明ではないと捉えることで初めて考えることができるとも言える。その思考の果てに新しい結果がひょっとしたらあるのかもしれない。すごく大きな話にしてしまうとそんなことを思う。

 

 

抽象的になってしまったが、具体的な移住という観点から見れば移住先(結果)に適応する(再生産の駒になる)のではなく新しいコミュニティーをつくる(結果から離れ新しく意味づけをする)ような感覚であればすこし違ったものになるのではないだろうか。もちろん現実的にはものすごく難しいことではあるけれど・・・・

自らが予言に囚われていないか、田舎が牧歌的だという定義に囚われていないか。思想的な意味での「暮らし」はそこからしてすでに始まっている、みたいなことを思ってしまった。

 

冒頭の動画はいろんな意味で「お気の毒」な動画だった。