メロンダウト

メロンについて考えるよ

反ユダヤ主義が抱える矛盾と高市政権

最近、スラヴォイ・ジジェクの短編集『分断された天』を読んでいるのだけれど、反ユダヤ主義に関する論考を読んでいて高市総理が言っていた「日本を取り戻す」と接続したのでそのあたりをすこし書いていきたい。


ジジェクは議論の題材としてイギリス敎育省が「資本主義を終わらせる願望を持つ組織から発刊された出版物は教材として使用しないと発布したこと」をあげる。

イギリス敎育省がそのような決断をした理由として反資本主義は反ユダヤ主義だからだというのだ。驚くべきことだが、ジジェクが当該文章を書いた当時のイギリスではユダヤ金融資本が資本主義と結びつけられ、資本主義に反対することは反ユダヤ主義、つまりはユダヤ人差別にあたるというのである。ゆえに差別を助長しないために反資本主義的願望を持つ組織から発刊されたものは子どもたちに配る教材として差別を内包するという観点から「有害」であるとの判断が為された。


反資本主義としてのアナーキズムニヒリズムを幼少期に与えるのは予後が悪そうではあるのでそれ自体が問題になるような話ではないのだが、個人的に反資本主義=反ユダヤ主義であることをはじめて知ったので読んでいてかなり驚いてしまった。

ユダヤ金融資本といえばナチスドイツがユダヤ人を迫害した理由としては知っていてもそれが現在の政治的決定までも左右していることは知らない人が多いのではないだろうか。

 

以上のようなイギリス敎育省の発布に関してジジェクは次のように批判する。

「こうした発布それ自体がユダヤ人を資本家側と見なしている点で反ユダヤ主義的である」


差別とはある特定の集団にたいしてステレオタイプを押し付けることという観点から見ればイギリス敎育省の決断は確かに差別にあたる。ユダヤ人を差別しないというお題目のもと反資本主義的組織から発刊されたものを教材として採用しない決断をしたことそれ自体がユダヤ人を差別しているというのだ。差別をしないために行ったことそれ自体が差別になるというのは極めて難しい問題だが同時に示唆に富むものである。

 

他にもジジェク反ユダヤ主義の欺瞞を暴いていく。たとえばジジェクは民主主義に関してしきりに喧伝される「良心に基づいた投票」は倫理的に最低の呼びかけであると批判する。なぜか。この言葉には主義主張がないからである。本来であれば何を選択するべきか、なにを選択しないべきかを判断することが政治的決定であるにもかかわらず上記の呼びかけは決定することを否定し、すべての選択を良心へ丸投げしている。このような主義主張がない空間では、よく相対主義の矛盾としてあげられるものだが、比較尺度が入りこむ余地がなくなってしまう。みんな違う意見があるよねというおざなりな良心を大上段に据えるとあちらとこちらは常に等価となり、そこでは価値基準を戦わせること、つまりは比較することができなくなる。

主義主張を戦わせて比較を繰り返せば議題にたいして時には比較すること自体がナンセンスであると気づくことができる。たとえば保守とリベラルという枠組み自体ナンセンスであるという結論は保守とリベラルを比較しなければでてこないものだ。しかしながら良心に基づく投票が正しいとされるような一切のラディカルさを排除した空間では比較することができないため、比較それ自体がナンセンスであるという結論に達することができなくなる。言い換えれば比較を拒絶することができなくなる。わけがわからない言い方かもしれないが、比較することを拒絶すると比較それ自体を拒絶することができなくなるのである。


このような現象の具体例としてジジェク反ユダヤ主義をあげる。反ユダヤ主義かどうかであらゆることを判断することはナンセンスであるが、良心に基づく投票というお題目の前では反ユダヤ主義の価値を比較検討することができないので反ユダヤ主義はいつまでも残り続け、反ユダヤ主義かそうでないのかという不毛な尺度も残り続けることになる。それはひとえにユダヤという歴史的被害者にたいして主義主張を戦わせることをやめた良心に原因があるのではないか、というのがジジェクの考えなのだろう。

現在のイギリスはパレスチナの国家承認に踏み切っているので当時とは状況が違うように見えるが、ジジェクが『分断された天』に収録されている評論を書いた2021年以前の反ユダヤ主義は相当に支配的なものだったことが読み取れる。

 


前置きが長くなってしまったので短めになぜこの本を読んで高市総理を想起したのか書いていきたい。

日本では参政党が代表的であるが、政治家はしばしば「取り戻す」という言葉を使う。アメリカのMAGAもそうだ。高市総理も所信表明演説で「世界の真ん中で咲き誇る日本外交を取り戻す」と語っていた。この取り戻すという言葉には妙な魔力があって様々な含意がある。直接的な意味としてはかつて豊かだった日本を再建するという意味なのだが、そこにはこの失われた30年を暗に認めているようにも聞こえる。日本を取り戻すという言葉は日本が素晴らしい国であると主張しているのと同時に日本が没落したことをも意味している。

『分断された天』では反ユダヤ主義を優遇することが同時に反ユダヤ主義であると書かれていたが、日本を取り戻すという言葉にも同様の矛盾があるのではないか。すなわち日本を取り戻すと語ることは表面的には日本を肯定しているが同時にこれまでの日本がいかに駄目だたったかという否定がなければ出てこない言葉であるのだ。アメリカのMAGAの場合は民主党が敷いたリベラル社会を敵と見なしている点で自己否定には繋がらないが、日本においては長らく自民党が政権与党を担当しており、その自民党の総裁が日本を取り戻すというのは、すこし強い言葉を使えば、どのような了見なのだろうかと思ってしまった。


高市政権の支持率は70%に迫るようだが、上述したような高市総理の欺瞞を「良心」によって支持する国民はまさにジジェクが批判した反ユダヤ主義を取り巻くイギリス社会の様相と同じなのではないかと。

バグなき社会と中年男性を不審に見る目

昔の記事にブクマがついていた

 

plagmaticjam.hatenablog.com

メリトクラシーの結果としての推し、そして弱者男性論 - メロンダウト

去年の記事だけどブクマ。選別の手法を洗練し誤選別率を極限まで下げた結果「経済力」「コミュ力」「人品骨柄」「思想信条」「趣味嗜好」は全部比例するようになったことを前提に置かないと現代の構造が見えない

2025/10/03 13:13

b.hatena.ne.jp

能力が社会的地位や経済力と結び付きすぎると能力のない人間もとい収入が低い人間は安かろう悪かろうという具合に、人に対する視座が単眼的になることにメリトクラシーの問題がある

(中略)

メリトクラシーにより能力や収入が「実際に」その人の人格を言い当ててしまう確率が高まれば高まるほど人を判断する時の視座はより単純で貧しいものになっていく。何故ならば、メリトクラシーが蔓延し、能力の多寡により人々が適材適所に配置されるようになれば人格的・社会的・経済的能力のズレが消滅し、貧しくても善き人であるというような「バグ」が生じなくなる。そしてそのようなバグなき社会では連想ゲーム的視座の正答率が「実際に」高くなるのである。

 

 

翌日にちょうどシロクマさんが関連する記事を書いていたのでなにか書きたくなった。

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

記事を読んでいてマックス・ウェーバーの統治の三類型を思い出した。ウェーバーによると人を統治する要素として「伝統」「カリスマ」「法律と合理性に基づいた官僚制」の3種類が数えられ、とりわけ近代社会では3つめの官僚制が支配的だという。法律と合理性に基づく官僚制は「鉄の檻」と呼ばれ、そこから抜け出ることはできないとウェーバーは断言する。具体的に言えば資本主義、社会契約、貨幣経済、金融システム、法律などがそれにあたるだろうか。

なぜ鉄の檻を引き合いに出したのかといえばシロクマさんの記事を読んでいていまや信頼もシステムに埋め込まれていやしないだろうかと想起したからだ。

 

中年男性を不審に見る目と一口に言っても不審者として見られるシーンは限定されているように思う。平日昼間に公園で酒を飲んでいたり身なりが整っておらず無精髭を生やしていると不審者認定される確率が高くなる。なかには中年男性というだけで警戒してくる人もいるが、稀である。ほとんどの場合、働いていないと思われたり、挙動がおかしいと不審者かもしれないと警戒されることになる。

つまるところ中年男性にもかかわらずシステムに組み込まれていないと判断されると不審者認定される。言い換えればその人がシステムに従属しているかそうでないかによって人を判断していると言えるのだが、メリトクラシーによりシステムが洗練されると人が適材適所に配置されるようになり不審者を不審者であると言い当てる確率が高くなるのではないかというのが冒頭記事の論旨だった。

記事ではこうした再配置された社会のことをバグなき社会と書いたけれど年々そうした傾向は強まっていてそれが新たな「檻」として僕たちをとり囲んでおり、果てには信頼を築くためのコミュニケーションにすら鉄格子がはめられているのではないだろうか。

 

ーーー

 

そもそも僕達はどうやって見知らぬ他者を信頼に足る人物であると判断しているのかという疑問がある。対面で話せば様々な判断材料がある。目を見て話しをするとか、屈託なく笑うとか、声の抑揚や表情を材料に無意識に判断してその人のことを見極めようと努める。しかし話すことがない他者を判断する時には外見とシチュエーションで判断するしかない。服装や挙動に姿勢なども判断材料になるだろうか。

そうした第一印象を破って会話するために人は外見によらないなどの想像力を使ってバッファを形成し、会話する余地を残している。そうしたバッファ、想像力が介入する余地が消えつつあるのがバグなき社会と呼べると思うのだが、バッファがないとはつまるところ会話をする余地がないとも言える。そうなると現在そうなっているように不審者と見受けられる人物を見つけた時には会話することは避けて直接行政に通報することが最適解となる。

危なそうな人には話しかけない。それが合理的判断と考えられているが、合理性が極まると人にたいする想像力を働かせる必要がなくなり、信頼できるかどうかの判断は行政に丸投げする。結果として信頼を築くもなにもそもそも会話すらできなくなっているのが今の状況であるように思うのだ。

システムは人々を最適な場所に配置するよう促し、配置されていない(とみなされている)人々はシステムの外にある人と判断され、会話をするまでもなく通報される。信頼とは言葉の定義としてすくなからず人間同士のやりとりを含むことを内包しているが、今起きている問題はそもそも信頼を築くためのコミュニケーションまでたどり着くことができないことではないだろうか。

もはや信頼などという次元ではない。合理的判断の確度が高いバグなき社会では信頼できるかどうかは「見ればわかる」のである。

 

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具体例をあげてみる。たとえばタバコだ。受動喫煙防止法が施行されてから路上喫煙する人が減って多くの人は喫煙所でタバコを吸うようになった。しかしながらまだ路上喫煙する人はいる。今と昔で彼らに向けられる視線の違いを考えると法律というシステムの強烈さがわかるはずだ。

昔であれば路上喫煙している人はあちこちにいた。そのため路上喫煙しているだけではその人がどのような人物であるか判断することは難しかった(言い換えればコミュニケーションの余地があった)。しかしながら安心安全清潔を至上とする今の社会でそれでもなお路上喫煙している人は路上喫煙という行動だけで他人のことを考えない愚かな人である可能性が高い。副流煙が体に悪いことはもちろん喘息持ちの人や子供も行き交う町中で路上喫煙していればそれだけでやばい人だと判断できるようになった。なにより法律を破っている人間だと一目見ればわかる。

喫煙所を設けて副流煙の被害を回避する権利を法律として実装し、喫煙者と非喫煙者を適材適所に配置した結果、それでもなお路上喫煙する人間とはコミュニケーションをとることすら不可能になった。「かなりの確率でやばいやつだから通報しよう」。僕達が考えることはそれだけである。そこに想像力や信頼といったものが介入する余地はない。(公共空間における)信頼とはもはや単なるレガシーに過ぎないのだ。

 

似たようなことはあらゆるところで起こっていて、シロクマさんが書いていた中年男性に向けられる視座もそのひとつであるように思う。中年男性は前時代の価値観を引きずっていてマチズモが抜けきっておらずパワハラやセクハラをする確率が高く、独身中年男性は狂うという話もある。そこに公園で酒を飲んでいたり身なりが整っていないといった情報が加わればコミュニケーションする相手とは判断されず不審者として通報されてしまう。

 

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このようなバグなき社会でなにが最も大きな問題かと言えば、自分が路上喫煙しないよう振る舞う必要が出てくることだ。自らが路上喫煙するような人間ではないというシグナルを纏うこと。言い換えれば「一旦モブになる」ことである。路上喫煙のようなことをするとハズレ値とみなされコミュニケーションをとることが困難になるため、自らがシステムに従属しているとアピールする必要が出てくる。

システムが整備されると「それでもなおシステムをやぶる人間」の潜在的危険度が上がるためその人はコミュニケーションの俎上にあがることができない。ゆえにまずはシステムに従属するモブとして振る舞る必要がある。話ができるのはそれからであるからだ。

結果、雑多な個人はシステムによって事前に排除されるため、出会う人は判を押したようにみなジェネラルであり、概して良い人が多くなった。実際、以前より性格に難があったり気を使えない人を見かけなくなったのではないだろうか。ネット上では誹謗中傷なんでもありのままなのでいなくなったわけではないはずだ。いろんな人がいる。それは未来永劫変わることはないように思う。ただ、社会生活上はその限りではない。雑多な個人は社会契約その他の官僚制によって事前的に排除または矯正されているに過ぎない。あるいは外に出て働いている時は仮面をつけているのか、本当のところはわからないがみな少なからず社会性を装備していることは確かである。僕自身ブログで書くような話を知人に話すことは稀だったりする。みな自分自身の厄介な側面をすくなからず隠蔽する術を持ちながら社会生活を送っているのではないかと勝手に思っているのだが考えすぎかもしれない。

 

 

いずれにせよルールを敷くとルールを破る人間にたいしてそれまではなかった意味が付与され、人格を判断する材料として活用されるようになる。

明文化しなくともそれは作用する。たとえば世論だってそうかもしれない。奈良公園で鹿を蹴っている外国人にたいし憤るのはいまや国民国家というシステムに基づく愛国心と結びついているが、彼らは「単に鹿を蹴っているだけ」である。

システムを整備するとそのようなシンプルな物の捉え方に戻ることができなくなる。鹿を蹴ることは反日行為であるし路上喫煙する人はやばいやつであり公園で酒を飲んでる中年男性は通報するのが妥当となってしまう。一度敷かれたシステムは「それでもなおルールを破る人間」に強烈なスティグマを与える。一見すると整備された町並み、綺麗で静かな公共空間が時に息苦しいと感じることがあるのはそこからハズレることがシステムが敷かれる前よりも難しくなっているためであるが、綺麗で静かな町並みが快適であることもまた確かである。

でも、本当にそれで良かったのだろうかと思わなくもないのだ。むしろそうしたシステムから自由であってこそ過剰な意味づけを回避できてコミュニケーションが取れる。そこから信頼云々が始まるのではなかったのかと思わなくもないのだが、もはやそんなこと言ってもしょうがない気がするのも確かである。

ワークライフバランスにまつわるあれこれ

※みじかめ

読みました

anond.hatelabo.jp

 

高市総理が「ワークライフバランスを捨てる」と発言して増田が落ち込んでいた。

総理大臣が激務であることは想像に難くないのでワークライフバランスを考える余裕がそもそもないのではないかという話はさておきワークライフバランスを捨てている人間が社内にいると本当に迷惑なのでやめてほしいと常々思っている。

理由をいくつかあげてみる

・毎日残業するなどして仕事を片付けるスピードが早くなると経営者が人員を確保しなくなる

・納期が残業込みのものになる

ワークライフバランスを捨ててる人が仕事ができる人だと査定され上にたつと要求水準が捨ててる人基準になるので迷惑

・あの人はあんなに仕事が早いのにと暗に言われる

・上記の理由から離職率があがってワークライフバランスを捨ててる人と彼らの仕事につられて消耗する人しかいないブラック企業が出来上がる

 

ワークライフバランスを考えないと個人の心身の健康を損なうとよく言われるが組織の健康も損なうのでそうせざるを得ない理由がある場合を除いて働きすぎるのは基本的にやめてほしい。

 

こういう人が出てくるから

www.daily.co.jp

 

昔、自分も「捨ててる人」につられて働きすぎたら一週間下痢が続いたことがあった。働きすぎると自律神経が乱れ、自律神経が乱れると回復に時間もかかるし結果的に生産性も下がる。もっと進行すると適応障害や鬱に発展するし最悪の場合には過労自殺のような事態になる。そしてそれは増田のように壊れるまでわからなかったりする。

働いて働いて生産性を上げて利潤をブーストさせるんだという人はせめて一人で勝手にやっていただきたいものである。周囲の人間にとってはっきりと迷惑だから