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メロンダウト

メロンについて考えるよ

木村拓哉が貫き通した「悪」とは何か?大人とは何か?

スマップ解散のニュースで木村拓哉さんの人間性が見えた・・・ような気がするのですこし文章を書いていきたい。

 

SMAP解散までの経緯については以下サイトを貼り付けておくのでご存じない方は参照してください。

 

SMAP解散騒動 - Wikipedia

 

今年12月末日をもって解散するSMAPだが木村拓哉さんだけがジャニーズサイドにつき、他のメンバー4人はお世話になってきたマネージャーサイドに立った。

事務所、そしてメンバーの内部分裂によって今年12月を持って解散という形となってしまったSMAPだがこのニュースを見た時に最初に思ったことがある。なぜ木村拓哉さんだけがジャニーズ側にたったのだろうか?

 

木村さんだけが既婚者だったから?もともと事務所内の権力構造でジャニーズサイドにいたから?

などと想像してあれこれ憶測で書いても真相を知りようがない。現状わからないので意味のない話はやめよう。

 

木村拓哉の悪

解散のニュースを聞いて木村さんだけが孤立していた状態だと報道で聞いた時に草薙さんの飲酒騒動の件での木村さんの発言を思い出した。

僕はファンではなくたまに月曜の夜に帰ってきてスマスマなどが流れていれば見る、そんな程度の見聞しか持っていないのだが当時の木村さんの発言は覚えている。それはとても衝撃的だったからだ。

草薙さんが自宅謹慎処分になった時に他のメンバーが連絡して「大丈夫か?」と心配するなか、木村さんだけが何もしなかったそうだ。

理由は「メンバー全員で心配するようなことをしたら反省の意味がない」というものだった。

木村さんのかっこよさや人間性の根幹がおそらくここにあるんだろうなと思った。だから覚えている。つまり彼は「偽悪」なんだなと。

 

メンバーが自宅謹慎処分になりSMAPが5人ではなくなったことは木村さんにとっても相当に心配する出来事なはずだし、友人とか仲が良いとかそんなことは置いておいても長年一緒に仕事をしていた草薙さんのことが心配にならないはずがない。

しかし木村さんは連絡しなかった。自らの配慮とかやさしさとか欲望とかは棚上げし、なんとかバランスをとるために悪にも善にもなることができる。

木村さんのような人は一般社会でもかなり少ないように感じる。ボランティアのような偽善的行動*1をする人はかなり多いが偽悪的に行動できる人は相当すくない。

なぜなら偽悪というのは外部から見たら単なる悪に見える場合のほうが多いし、内部でものちに軋轢となって残ることがある。本人にとって偽悪は何の得にもならない。

 

ブローノ・ブチャラティのバランシング

同じような自分の欲望を棚にあげる話で思い出したのがフィクションであるが「ジョジョの奇妙な冒険5部」に出てきたブチャラティのことだ。

ブチャラティは幼いころに両親が離婚しどちらと一緒についていくかという選択を迫られた時に父のほうを選んだ。

ブチャラティは幼いながら両親のことを良く見ていた。活発で旺盛な母、堅気で律儀な職人気質の父だった。ブチャラティは堅気な父は僕と一緒にいないとダメになると判断し自分がどちらについていきたいかという欲望を棚上げして父のほうを選んだ。

 

 

大人とは何か?

木村さんの偽悪、ブチャラティのバランス

そういう目線で今回のSMAP解散を見てみるとすこし違った景色が見えてくる。今回の記事を書くにあたりすこしSMAP解散についてざっとネットでの記事を読んでみたがなかには木村さんのことを裏切者と書いている記事も目にした。

それに関してはおいちょっと待てよと言いたい。僕はジャニーズサイドに一人だけたった木村さんのことを非難することは非常に浅はかだと思っている。

草薙さんの件と同じように木村さんはSMAPのために偽悪となったんじゃないだろうか?

騒動の発端は長年SMAPのことをお世話してきた飯島氏がジャニーズ事務所を退社するというお家騒動で香取さんなどが飯島氏のことを慕っていて彼も一緒にやめるというものだった。

そして木村さん以外の4人が同調するなか木村さんだけがジャニーズサイドにたった。しかしジャニーズをやめ飯島さんのもとでSMAPとして活動するという算段になった時に自分たちをここまでにしてくれたジャニーズ事務所への義理はどうするのか。世間ではジャニーズ事務所の経営陣を老害などと侮蔑する書き込みがあるが当の本人達にとって見ればそんな簡単な話なわけがない。なんたって25年である。会社に忠を尽くすなど時代遅れもいいところだがSMAPという会社員は特殊であって通常の物差しで測るのは難しいのは容易に想像できる。

 

ひょっとしたら最初の騒動の時にSMAPのことだけを考えればジャニーズをやめて活動するほうが良かったかもしれない。しかし木村さんはメンバーと事務所との相克に悩んだ。そうしてまたバランスをとるために「悪」として振る舞うことを選んだ。

しかし騒動から半年後SMAPは解散を発表。木村さんはメンバーから孤立して裏切者の悪として認知(する人もいる)されることになってしまった。

 

思い返せば木村さんはあれだけかっこよくドラマにも何本も出演し国民的スターの地位にありながら彼をテレビで見かけるとどこか臆した顔をしている時が多かったように思う。日本でキムタクほど承認されている人間はどこにもいないというのに傲慢さが見当たらないどころか自信がなさげなようにすら見える時があった。

 

番組内容もいつも全力で楽しむというよりも心の中心にスッと柱をたてているような感じだ。

笑う時も全力の笑顔ではなくメンバーがみんな騒いでいる時も一人だけ良い意味で一線をしいているようなそんな顔をしていた。

 

 

今回の騒動で木村拓哉がメンバーを裏切った。それだけなら話は簡単だ。

しかしファンでもない、内部事情も知らない、会ったことなどもちろんない、テレビから流れるキムタクをぼんやりと見ていた僕でもほとんど確信して言えることは「どう見ても彼はそんな人間じゃないだろう」ということ。

 

木村さんが悪だと思う人はその悪は偽悪ではないか?そして組織の中で悪になり嫌われてでもバランスをとる役割を果たす「大人」とはなんなのか?

キムタクを見て考えたほうがいい。解散はただただ残念です。

www.youtube.com

*1:ボランティアが偽善かどうか論じるつもりはないのであくまで参考として

SEALDsとセックスピストルズの違いは狂気だった

SEALDsが解散したらしい。参院選自民党が過半数を獲得して改憲に向かうのだろう。そこで祭りが終わったSEALDsについて個人的な感想のようなものを書いていくことにする。

 

Sealdsを一番最初に見た時に抱いた感想が「スマートすぎる」だった。イデオロギー的にどうだとか右左関係なくそれ以前の印象として綺麗すぎてまったく政治っぽくなかった。だからここではあえて政治的な話はしない。改憲が是か非か以前のデモや反体制とはなんなのか。

 

 

大人が望む記号として祭り上げられたSEALDs

SEALDsは反体制組織としての渇きがまったく見当たらなかったのだ。若者の鬱屈だとか激情だとか怒りのような危うさがなく大人が望む大人しい記号としてただ「居た」という印象しか受けなかった。

存在自体が時代の流行が作った像だった。自民党にたいして敵となりうるような主張も若者を動員するだけの激情もなにも受け取れなかった。

若者のほうを向いて本当にしいたげられ憤っている人間(低所得者ニートフリーターやブラック勤務、ブルーカラーや非正規、派遣)を巻き込む集団とはなりえなかったのがデモ組織としてのSEALDsの失敗(もしくは成功?)なんだろう。

代表の奥田さんや牛田さんなども大学院生やサークルでhiphopをやっていたりおよそこの国の若者の漆黒の闇のようなものとは実際的にほぼ無関係な人達だった。むしろ彼らは現状としては完全にレールに乗っていて大人が望む理想的な若者像を生きている人間だった。それで反安倍などと歌っていても若者が同調しないのは当然だ。

 

 

 

 

SEALDsとセックスピストルズの違い

歴史を見てみればわかるがほとんどの革命や反権力組織に見られたのが激情であって怒りであってそれをぶちこむ狂気だった。対案などそっちのけでとにかく現状をぶっこわす、論理を超えた感情の爆発が人間を突き動かす。それが良いか悪いかなんて話ではある意味ではどうでもよいものですらあってデモに人を動員するのはそういう政治への怒りなんだろう。

SEALDsも憲法改正には怒っていたのだろうが狂気に達するような怒りには僕には見えなかった。

それはどういうことかというと

 

1970年代にセックスピストルズというパンクバンドがいた。彼らは無政府主義をうたいイギリスの若者から絶大な支持を得ていたが彼らのやったことで一例を出すと

 

ゴッドセイブザクイーンというイギリスの国家と同名の曲をつくりそれをエリザベス女王の王位25周年の式典で勝手に演奏して逮捕された。

 

セックスピストルズにあってSEALDsになかったものがこの法律を無視してでも逮捕される危険を侵せるか侵せないか?の違いであって

僕が見ていたかぎりSEALDsのデモにそれはなかった。もちろん法律は守らなければいけないなんてのは社会生活において当たり前

 

しかし人間、ぶちきれた時には相手の胸倉をつかみ場合によっては法律など無視してぶん殴るのがむしろ普通な行いだと僕は思っている。胸倉をつかんだ時に、ぶん殴ったら法律に触れるかなんて考えるまでもない怒りを持っていれば自然と手が出る。

それがピストルズにあってSEALDsになかったもの。社会的な良い悪いなんて超える激情と狂気がSEALDsにはなかった。スマート過ぎた。

 

 

デモという絶望

白無地のTシャツを着てスタイリッシュな曲にのせ平易な言葉を連呼しても何も変えられない。

 

フジロックで主張するのではなく安倍首相の桜を見る会で拡声器で勝手に「日本死ね」と連呼するような激情を示すことができれば僕もまともに彼らの怒りに耳を傾けたかもしれない。

逮捕され反社会的と烙印を押されまともなキャリアからはずれるようになってもかまわないという覚悟が見えれば、すくなくとも大人が望む記号としてではなく若者のいきどおりとしての組織としては認識されたのではないだろうか。

 

そんなの彼らは望んでいなかった。そしてその程度の怒りだった。

もしくはピストルズとは時代も国も違うのでそんな激情や狂気にまかせた活動は「痛い奴ら」と烙印を押され似非ネトウヨなどと揶揄されて終わることもわかっていたのだろう。

 

SEALDsが教えてくれたことはそんなデモやカウンターカルチャーの現代における難しさだけだった。

 

身を捨ててこそ浮かぶ瀬はもうない

www.youtube.com

貧乏で不細工な女性が好きという性癖があったっていいよ

チルドさんがまた炎上していた。狙ってやっているのか知らないしどうでもいいが彼の記事が真実だと仮定して書いていく。

女の子はちょっと不細工で貧しい方がいい - 散るろぐ

 

ようするに「私ことチルドはすこし不細工な女性を好む」という趣旨の記事なのだが単なる性癖の暴露であって彼がそう思っているだけの話なんだがどうやら炎上しているみたい。個人的には何が悪いのかさっぱりわからない。

恋愛っていうのは100%の主観(相手との相対)で決定して良い事案であって他人がどう思っているかなんていっさい関係ない。そして他人の恋愛観にケチつけるのはありとあらゆる意味で醜悪だ。

おそらくLGBTの方の差別もこういった多数には理解不能な性癖を客観性という物差しで測ってたたっきることから始まったのだろう。

 

 

 

恋愛という完全主観の領域で相手を選別するのなんか当たり前。それは別に差別でもなんでもなくてただ本能的にみんな勝手にそうするしそうするべき。

極端な話でもブスはダメだとかへそにピアスはダメだとか家事ができないとダメだとかまぁ主観をぶちまけて書けばたたかれるだろう恋愛観なんか探せばどっかで書いてる人がいる。書かなくても思っている人はいる。

チルドさんは貧乏ですこし不細工な女性が好き。それが彼の性癖で合う人が見つかれば幸せになれる。

しかしブログという市場にあげれば征服欲が垣間見えて差別感を含む言動なので叩かれる。けれど僕は恋愛に関してはみんな差別・・・ではなく勝手に選別して恋愛すればいいと思っている人間なのでスワッピングやペドフィリアのような社会常識に外れるもの以外を叩くことはしない。

 

恋愛を市場価値で語るべきではない。客観性で語るのはやめたほうがいい。

LGBTの方への差別も社会通念上は許されないというだけの話であって個人的には理解不能で同様に彼らから見たら異性愛というのも理解不能なんだろう。

そして理解不能なままでかまわないんだよね。問題は他人の恋愛観に侵食することであって理解するとかしないとかではない。貧乏で不細工な女性が好きという価値観も僕からすると理解不能だが理解不能でかまわない。なぜなら他人の特殊な性癖は「原理的に理解不能」だから。問題はむしろ貧乏で不細工な女性が好きというチルドさんの主観を侵食するブックマーカーやネット民のほうだろう。

 

それはLGBTへの差別と構造としてはまったく同じ。過去に例がないので良心や言動へのブレーキがないので反射でコメントしているから自分が差別していることにすら気づいていない。

 

まぁそもそもチルドさんというキャラクター自体が嫌いという人や、記事が炎上目的という人もいるだろうけど構造的にはそんな感じに見える。

しかしまぁ僕が言いたいことは恋愛の価値観を市場にあげないでほしいし客観性でざっくざっくぶった切るのは好ましく見えませんでした。

おやすみ

初等教育において差別すべきではないと教えるべきではない

法曹の青年がアウティングにより自殺する事件があった。そこですこし差別や多様性に関する教育についてすこしだけ

はじめに亡くなった方のご遺族にお悔やみ申し上げます

 

この事件を見た時に最初に思ったことがアウティングした学生にたいして差別に関する教育をすべきではなかったのか?ということだ。


差別は断じて許されない、本人に責任がない範囲のパーソナリティーには絶対に差別するべきではない。そんなことは大人になれば誰でも知っていることで社会常識の最も根源にあるものだと言って良い。
じゃあこの差別をしてはいけないということを学生の段階から教えるべきなのだろうか?すこし考えていた

そこがこのブログをひさしぶりに書き出した理由だ。
結論から言えば僕は教育の段階、それも初等教育において差別をしてはいけないと教えるべき・・・ではないと考えている。


なぜか?いくつか理由を書いてみる。間違っていたら教えてほしい


まず大前提として異性愛が人類が繁栄する基礎であって、子孫を残していくうえで欠かせない生理的な嗜好という事実がある。
男を愛する男は子供をつくれないし、女を愛する女は子供をつくれない。生物的に絶対に覆すことができない事実がある。これは馬鹿馬鹿しいほどまじめな話であって全員が同性愛者となれば100年後には人類は絶滅するので異性愛によるセックスほど重要なものはある意味ではない。ここで言いたいことは性の目覚めが起きてくる思春期(小学生・中学1・2年)において同性愛が「正常」であると教えることは異性愛による人類繁栄の基礎を揺るがす「恐れ」があるということ。

 

つまり性も愛も何も知らない年齢において「同性愛は正常」だと全ての子供に教えると何も知らない子供は男の子を好きになっても女の子を好きになってもいいんだと考えるようになる恐れがある。それは個人としてはどちらに寄ってもかまわないしLGBT異性愛もどちらも尊重されるべきなのは間違いない。しかし同性愛者の増加というのは社会や国というレベルで考えると人口減少というとんでもない損害が発生する恐れがある。ので性が目覚める段階において僕はLGBTの差別は教育すべきではないと考えている。君は君で異性愛で良い、だけど同性愛の人も存在すると小学生に教えることができれば良いが、これだけ差別にたいして糾弾される社会であっても、大人でも差別する人間がいることが考えると小学生に判別できるのかという疑問がある。ことが一点。

 

 

次にリアリズムな観点から書いていくと
まず差別は存在するし絶対になくならない。ペシミスティックでもなんでもなく現実として。どれだけ高度な教育やリベラルアーツ教育をやろうとも絶対になくならないと断言できる。これは上で書いたように人間の最も根源的な欲求である性欲にかかわる問題なので何も考えていない人間は自然と差別する。これはLGBTの方にたいしてはかなり残酷な話になってしまうが何も考えていない人がいなくなるというのは絶対に実現しない。


僕が通っていた中学でも菌タッチとかなんとか言いながら障碍者の方を軽んじていた事態があった。子供だから馬鹿だったんだよ、僕はいじめられていたので最後に菌タッチされて沈黙するしかなかったんだけどまあそんな話はどうでもいい。

 

つまりLGBTの差別を初等教育において排除していくとLGBTの方は自らは正常だと認識する。絶対になくならない差別にたいして対処する術を持たないまま社会に出ていくことになる。これはアウティングで自殺に至ってしまった事件でも明らかでアウティングしたほうが倫理的に絶対に悪であるが同性愛が正常だと認識して告白してしまうほどに、自らが正常だと認識してしまったことも教育の敗北なんじゃないかという側面もありうる。

もちろん理想としてはそんな低俗極まりない差別はなくなればいいとまともな大人は全員そう思っているし理想の社会というのはそうあるべき。
しかし、しかしながらそんな社会は絶対に実現しないんだよ。いまだにアメリカで黒人にたいする差別があるように絶対に実現しない。マルコムXが黒人解放運動をやったのはもう100年も昔の話でそれでも最近、白人と非白人との結婚は認めないと発言するレイシズムが存在していたり黒人が白人に銃で撃たれて騒ぎになったりしている。

同じように同性愛の方への差別も現実として存在する。
じゃあそんな現実にたいして「君は正常だよ」と教えることが教育なのか?と考えると僕は違うと思う。むしろ「君は何もおかしくない、でも異常だと差別されることがある」と言ってあげることが大人のやるべきことであって教育なんじゃないかと思っている。つまりそんな甘言を刷り込んでも現実にたいしては無力で何も解決しないんだよ。君は特殊だよと教育することが優しさとなることもある。

 


だってそんな差別が全廃するようなあまっちょろい社会じゃないじゃん。これはLGBT障碍者の方だけではなく健常者でもありとあらゆる正常から外れた人間に対して厳しいのはむしろアメリカよりも日本のほうなんだよ・・・「現実」としてね。

インターネット劣情マン

無垢な人生を歩いてきた人間に憎しみが向けられていた

 

b.hatena.ne.jp

インターネットは劣情のほうに同情が集まりやすい。しかし無垢で純粋な何も考えないで生きてきた人も、おそらく本当に何も考えないで生きてきたわけではない。憎しみが人生のよすがになることと同じように純粋さもまた大切なものだと、僕は思う。

劣情が勝ち、純粋さや無知は負けなんてそんなものを僕は支持しない。どちらも当たり前に大切

 

 

 

インターネットにはあらゆるところに独白のような劣情を暴露した文章が投稿されている。普段見せない他者の内面が覗けるのはたいへん面白い。

ああ、みんな問題を抱えてるんだな、なんてことは読むまでもなくあたりまえなんだけど、可視化された劣情を読むとすこし「安心」する。

 

 

しかしこのインターネットで劣情を見て安心するというのはとても危険な側面があるんじゃないかと思う。安心は麻薬なんだ。ヘロインのようなダウナー系の麻薬がめちゃくちゃ危険なのと同じように、レディオヘッドを聴いてどこにも所属しなくていいんだと感じるように、太宰を読んで恥を抱えたまま生きてもいいんだと感じるように、現実を無視した自尊心の形成というのは「めちゃくちゃやばい」と僕は思う。

それはインターネットで劣情を読んですこし安心するものまったく同じだ。

 

だって問題は抱えたままでいいんだ、なんてそんなことあるわけない。問題を抱えたらなんとか解決しなくちゃいけない。憎しみを吐露したからと言って世界が変わるわけではない。太宰治を読んで心が救われたとしても文学や音楽は代替物であって自分の人生を決めるのは自分の行動だけでしかない。言葉をこねくりまわして人に劣情を届けるのはそれはそれで大変に価値のある行いだ。しかしどんなに筋道たてて論理立てて言葉を紡いだって現実に起きている問題を解決するには多くの場合ほとんど役に立たない。

ましてやインターネットに劣情を投稿してもまったく意味がない。多くの問題に直面したさいに大切なのは劣情をこねくりまわして理由をつけることではなく意味も理由も棚にあげてただ行動することだけだと僕は思っている。自分の不遇も憎しみもプライドも、文学もなにもかも捨てること(忘れること)のほうがこのまったくもって理不尽な社会においては肝要なんだろう。

 

これは文学に意味はないなんて話ではない。文学やインターネットと現実は切り分けて考えたほうが時には良いという話。

 

 

そもそも劣情だけが文学なんてそんな捉え方になったのもここ最近の話。無垢で純粋な人間にも、勝ち組と言われる人たちにも文学は存在しえた。

弱者や労働者のために文学は存在するという価値観を象徴している有名な言葉が村上春樹さんの言葉

高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵がある時には私は常に卵の側に立つ

村上春樹エルサレム受賞式スピーチより引用

 

これがいまの文学を表している言葉。文学者は常に卵の側に立ちたがる。それはインターネットも同様だ。インターネットも潰れてしまう卵の側に立ちたがる。

ブラック企業経営者の資金繰りの話よりも鬱病にかかった労働者のほうに同情する。純粋に生きてきて結婚した無知な人よりも孤独な人のほうに立ちたがる。潰れてしまう卵の側に立ちたがる。

 

しかしどうしようもなく倫理も哲学も捨てなければいけなくなった壁の側にも文学があっていいんじゃないかと僕は思う。

卵にだけ文学が存在するなんてそんなことはない。

 

そうして卵に寄り添うように文章が劣情を吐露するためだけのものになるのは危ない。インターネットで劣情ばかりに同情するのはやめたほうがいい。

 

卵を覗く時、卵もまたこちらを覗いているのだから

はてなブックマークの遠在性が見えた

インターネットといえどけして一枚岩ではなくそれぞれのプラットフォームでそれぞれ癖がある。僕はいろんなところを遍歴しここはてなでブログを書いている。

はてなで感じるその空気に僕はすこし違和感を感じていたのだが遂にその違和感の正体を突き止めたのでここに記録しておきます。

 

 インターネット自体が疑似コミュニケーションと言われることがある。ネットを介したコミュニケーションは相手の顔が見えないので雰囲気や空気がない。それは良い意味でも悪い意味でも。

僕はどちらかといえばそんなインターネット上のコミュニケーションにおいてはむしろポジティブに捉えているほうだと思っている。雰囲気や空気がないからこそできる発言があって、それは絶対に現実では聞けないことがネットでは聞けたりする。そういった意味で僕はインターネットのコミュニケーションは非常に価値がある。もしくは「価値が別」なものと認識している。

 

 

しかしはてなブックマークのコメントはそうした疑似コミュニケーションとはもう一段階またメタな領域で発言しているように見受けられる。

 

というのも最近書かれたますだについたブックマークコメントでこんなコメントがあった。

余命宣告されて嬉しい

おめでとう!

2016/07/16 03:40

b.hatena.ne.jp

 

余命宣告されてうれしいと言う人に「おめでとう」だ。

これは対人関係での会話となれば完全に破綻している。もちろんますだがどういう人生を生きてきたかわからない。記事内だけを見れば死ぬことが嬉しい、楽になれると感じるほどに苦悩の連続であったことが書かれている。しかしおそらくどんなに少なくてももうすこし生きたいという未練、生きていて良かったという経験もあるはずなんだ。死に感謝するような厭世観を悟るような人間でも自殺するような人でも絶対にあるはずなんだ。

人間そんな明暗白黒はっきり切り取れるような感情なんかない。特にこういう死とかものすごいシリアスな問題となるとなおさらだ。決心して悟ることなんか容易じゃない。0、数%はどこか後ろ暗いしどす黒いしネガティブな感情にも支配されざるをえない。

 

ますだも自分が死ぬなんてわかったんだからそれこそ僕にはおよびもつかないほどに色々考えてでもそれでも楽になる方法として死ぬことも「悪くないな」と思ったんだと思う。それは「嬉しい」なんて単純な感情じゃないと思う。ただ死に対してどう向き合うか考えた時に嬉しいのほうが悲しいよりも強かった。でもやっぱり悲しいし生きたいとも思ってると思う。

 

だから「おめでとう」という言葉はどんなに最悪の人生を歩んで今にも自殺しそうな人にたいしても言えるセリフではない。

実際にこんなこと余命を告白された知人の目の前で言う人間がいたらそれだけでサイコパス認定していいぐらいだと思ってる。

 

 

じゃあなんでこんな発言が可能になりあまつさえ大量のスターがついているのかといえば

 

ますだの人生ではなくて死という概念にたいしてコメントしているだけ

だからこんな発言が可能になる。つまりインターネットのコミュニケーションの人間の不在性ということが言えるだろう。

 

ある議題やあるニュースにたいして誰も人を見ていないのだ。ある構造とかある概念とかある社会問題とかある関係とかある不倫とかある発言しか見ていない。

それはよくも悪くも。

 

僕はあらゆるプラットフォームでその特性が最も強いのがはてなブックマークではないかと思う。

外部のサイトをブックマークしてコメントを集めるという方法は他のプラットフォームよりも段階的に視点が遠い。ヤフーコメントはヤフーのニュースにだけつけられるので閉鎖的でより通常の対人関係、ムラ社会に近い。フェイスブックなんかは実名での書き込みで人との距離が近い。

twitterは、はてブよりもアカウントのブランディングを棄損する発言はしにくいのでやはり近い。

はてブに一番似ているのは2ちゃんねるだがあそこは板ごとに様式美のような空気があるのでおかしな発言は「半年ROMってろ」などと袋叩きにされるので自浄作用がある。

 

はてなブックマークは遠い。外部のサイトに言及するという方法はそのニュースや人間に関しての実像を構造的に客観視しすぎる要素があるのではないか。メタメタメタメタと。

自分ははてなに馴染めないということを感じる時があるのはそれが原因でもともと人間が不在になりがちなインターネットでもはてブはさらに遠いのだ。発言の内容が良いとか悪いとか以前の問題で余所余所しすぎる。

 

余命宣告されて嬉しいにおめでとうをなぜ言えるのか、それは誰もますだの悲哀と直面してはいなく自らの死生観を吐露するだけだからだ。相手がどう思うのか考えているようで考えていない。それはnekoraさんのコメントだけではなくあのますだについた大量のブックマークのコメント群が物語っている。

僕個人も死にたい、というより生きたくないという感覚は理解できるし共感も同情もする。しかし死にたいという相手がいた場合はやはり止めるだろう。理由などないが止める。余命宣告されて嬉しいと言われたら・・・わからないがそうかと沈黙するしかない

 

はてなブックマークだけではなくはてなブログも独特だ。他のブログサービスでは多くがブログ内のコメントでやりとりして自分と相手のコミュニケーションで済む話だがはてなブックマークでコメントされるとどう取り扱っていいか対処に困る。観客席からヤジを飛ばしている人間にまともに反論しだすプロ野球選手のようなこちらが幼稚なんではないかと思いとどまる。

 

遠い、いまこの記事を書いていても感じる。

 

 

遠望

遠望

 

 

増税しろ!今すぐしろ!

選挙が終わった。今回の参議院選挙では改憲が争点になっていた。選挙速報などを見ていて思ったのだがなぜ政治家はみな増税の話をしないのかが気になった。

増税こそいま最も優先してやるべきことだと思っているのだが違うのだろうか。もちろん僕は増税には個人的には反対だ。それは利己的な話で増税されると物価があがるから嫌だという単純きわまりない話。

 

しかしもう国という視点で見れば増税に踏み切ったほうがいいのではないか?

 

アベノミクスによって株価をあげ上場企業の給料や資産家など中産階級より上の人間はその恩恵を十分にうけおわって2年前からずっと株も為替も下がりっぱなしだ。

 

民主党政権の時に増税の話があったがあの時とは状況が違う。いまこの瞬間をおいて増税するタイミングはないのではないか。

そもそも増税インフレーションになって過剰に市場が活性化した時にすべきものだというのが経済学の定説だ。

アベノミクスによって富裕層の資産は増大し市場経済に波及してインフレにするというのが当時の安部首相や黒田総裁の思惑だった。そして名目賃金があがったところで増税をし赤字国債を償還していくというマスタープランがあったはずだ。

しかし資産家に富をあつめはしたが労働者階級には波及しないでアベノミクスは事実上終わった。市場経済に波及させるという計画は頓挫した。トリクルダウンの失敗というやつだ。

トマピケてぃが21世紀の資本でインカムゲインよりキャピタルゲインのほうが収益性が高いということを書いた。資本家は労働者に働かせるよりも資本に投資したほうが収益があがると知っている。経営者や資本家が雇用を創出することで労働者にも経営者にも利するという資本主義の構造は21世紀になって崩壊したのだ。以前は市井で労働させることで資本を拡充させていくことが資本家にもメリットになっていてそれがインフレーションをつくる最も重要な基礎だった。

 

しかし今は労働者に資本を分配しても労働者の生む価値が機械化などにより著しく低下したので労働者に資産を投下するメリットが経営者側にない。人的リソースに投資するよりも設備投資や市場に投資したほうがはるかに収益性が高くなってしまった。

だから労働者階級は永久に市場の恩恵を受けられない。つまりもうインフレになどならないのだよ。

 

だからインフレでないと増税してはいけないという経済学の定説はもはや現実にはただの机上の空論でしかない。インフレにはならない。じゃあいつ増税するのかと考えたすえむしろ今しかないのではないのか?

日本の1000兆を超える赤字国債を消化しプライマリーバランスを健全化するには増税するしかない。これは誰がどう考えてもそうだ。外債がどうだ内債がどうだなんて話もこれ以上赤字国債をふやし経済が破綻した時に資本家はその資産を海外に移転させる可能性が高い。爆弾を抱えているようなものだ。

 

このまま赤字国債を発行しつづけて困るのはいまの10代20代の若者達だ。いまですら非正規だ貧困だブラック企業だ非婚化だなんだかんだ言われているのにこのままいけば年おいたころにはどうなっているかわかったものではない。正直言って僕はそんな事態になっても絶対に引き受けるつもりはない。

いまこのアベノミクスでまがりなりにも好況に傾いた瞬間を逸していつ増税するのか。

 

アベノミクスという未曽有の株高が起こってこの有り様だ。もうインフレにはならない。資本と労働が均衡性を保って維持してきた経済システムはもう機能していない。だからもうインフレもデフレも関係ない。

 

増税をしろ!今すぐしろ!この国がまだすこし穏やかであるうちにだ