読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

メロンダウト

メロンについて考えるよ

考えすぎる人は英語で思考するといい

運動と瞑想と野菜350gに追加して精神の健康を保持するためのTIPSを紹介するよ。

学習性無力感であったり鬱病であったりあるいは単純に緊張しやすいような思考の粗を削ぎ落とすのに英語が役に立つ。フランス語でもスペイン語でもいいけどともかく後天的に覚えた言葉が役に立つ。英語なんてぜんぜんわからないという人であってもむしろわからなければわからないほどシンプルな思考に着地できるのでいい。

思考は=で言語であって行動を起こしたり思考を整理するのに言葉を必要とする。なにか行動するのも文章を書くのも頭の中で言葉によって構築した思考を原動力として動く。単純な食欲や性欲などであれば言葉は必要ないが、その他のあらゆる人間的活動において思考を必要としない活動はないので言語能力はコミュニケーションの手段として以上に

個々人が独立して意志を形成する過程において大切なものだと思う。

 

そして思考形成を潤滑にするために英語が役に立つ。思考を形成するためなら精通した日本語で考えるべきだと思われるかもしれない。しかしあまりに複雑多様な選択肢が存在する現状では日本語で熟考することは「下手の考え休むに似たり」となってしまう場合が多いように思う。これは僕の経験的にそうだと思っている。頭の中を駆け巡る無駄な言葉が多すぎると感じる時がある。

 

なにかをやるべき理由やなにかをやらないべき理由など言葉で言いつくろえば無限と修飾可能であって言葉の徹底さによる行動の理由付けは総じて虚無に帰結しやすい。ありとあらゆることに意味などないなどと書くといやしくも宗教的であるが考えることを学問とするある哲学者(テオグニス)も「生まれてこないことが最善」などと書いている。

だから考えをシンプルにするためには英語が非常に有用だ。当然だが日本人は日本語に精通しているので日本語を駆使して考えようとすれば泥沼にはまってしまいやすいので中学高校レベルの英語で思考することで思考がぶつ切りになり考えすぎず行動できるようになる。あるいは考えすぎて緊張してしまうこともなくなる。

 

この思考の未熟さが行動力につながるのは若者が大人と比べて非常に闊達である理由のひとつとしても言えるかもしれない。10代のまだ言語野の脳領域も発達段階の未熟な時には考えすぎる言葉を持っていない人が多いので単純な動機でも行動にうつすことができるのではないだろうか。

 

まとめると思考は言葉によって形成され、日本語による熟考は行動力を失わせてしまうことがある。思考にシンプルさを与え若い時の行動力を蘇らせる方法のひとつは英語である

 

Thinking much is eventually rubbish . Nothing the best. Then, what's the matter on earth with you?

 

もうすこし具体的に方法とかまで踏み込んで書いてみたいのでまた書くかもしれません。

C U ヾ(⌒∇⌒)ノ

Real against the internet

どうも最近SEO関連の話題を目にすることが多い。虚偽情報は論外だけどインターネットにたいする姿勢としてどこまで倫理とかあるいは文章にたいする誇りみたいなものを持ち込むべきなのかとふと考えていた。

「コンテンツイズプア」という言葉が示す通りにブログやサイトにアクセスを集めようと思ったらキーワードを選定して平易な文章で長ったらしく書いたほうがいい。グーグルはコンテンツの質を評価してはいるがその記事がオリジナルであるかやどこまで興味深いことを書いているかで検索エンジンにランキングしているわけではない。

どこまで健全な形をなしたサイトがどれだけの構成でどれだけのキーワードを入れて長文を書いているかでインデックスされている。だから記事を推敲する意味はあまりない。検索されるために検索されやすい言葉で書くことでグーグルに評価されるので検索結果の1ページ目に突飛な記事が並ぶことはほとんどない。だから検索するとキュレーションメディアやアフィリエイトサイトばかり出てくる。

そして僕は個人の行動としてはアフィリエイトサイトのほうが正しいんじゃないかと思っている。

 

理由はインターネットの使い方として金をかき集めるのが多くの人間にとって最も直接的に現実の生活を豊かにする方法だから。Youtuberなどのようにインターネットができてから承認という側面からインターネットを使う人がでてきたがネットでの承認はどれだけかきあつめても身体性の軸を確保してくれるような承認にはなりにくい。1万人のフォロワーよりも1人の恋人であったり親友のほうがはるかに心を安定させてくれる。支持されていた芸能人がたったひとつの不倫で評価が一変してしまうのと同じように、ブログで承認を集めてもたった一つの失言で魚拓でも取られ人格を否定するような書き込みがなされる。

そんなものが人を幸福になどするわけがない。だから承認とか評価などいっさい無視してアフィサイトをつくったり炎上させて被リンクを稼いだりするほうがインターネットの使い方としてははるかに現実にたいしての力を持つことができるようになる。文章のみによって繋がるインターネットは表面的な繋がりしかなしえないので表面的な承認しか得ることができず現実に架橋する方法を取らなければネットは永遠に虚無なままではないだろうか?

 

増田を書いたりブクマしたりしている時にふとそんなことを思うことがある。アフィリエイトサイトを批判したりネット上で倫理を振りかざしたりすることは規範的には正しいと思う。しかしネット上に記事を投稿することとネット上でその記事を批判することは実存的に見れば同じ行為でしかないように感じる瞬間が現実のシーンとしてある。

いまでは電車内で8割の人がスマートフォンを使っている。みながみな恋人にメールを送っているのか2ちゃんねるに書き込んでいるのかTwitterを見ているのかLINEをやっているのかあるいはソシャゲでもやっているのかはてブで遊んでいるのか・・・とにかくスマホを使い何かやっている。これらの行為はおそらく全て違う行いとして認識されていて2ちゃんねるに書き込むよりも恋人にメールを送るほうがあるいは高尚な行いとして認識されやすい。しかし電車内の光景として俯瞰した場合に僕が感じたことはスマホを使い何をしているに関わらず全員同じことをしているようにしか見えなかったということだった。

思考や目的としての差異はあれど現実のシーンとしてとらえた場合にスマホは人間の個性を創造しうるものには永久にならないのだろう。ディスプレイに写される画像や文章には無限の多様性が存在するように見える。ブログなんかもそうだ。みんな違うことを考えていてたいへん楽しい。多様な思考様々である。けれどキーボードを叩く行為自体はみな同じことをしている。

透析患者は死ねと書くこともそれを批判することも実存的に見れば行為として全く同じことをしているに過ぎないんだろうなと思う瞬間がある。あるいはアフィリエイトサイトをつくったりそれを批判することも、また文学的に過ぎる重厚なブログを書こうが平易な言葉を書こうがどちらも変わりないんじゃないかと思ったりと。

インターネットはツールである。おそらく永久にそうなんだろう。文章や個人に色を与えるのは皆々様のそれぞれの生活のほうでありそうして出てきた人の思考だったり経験が面白い。しかしそんなコンテンツはある特殊な環境のある特殊な人間に許されただけの行いである。みながみな芸能人やアイドルになれるわけではない。まったく普通の何の特異性も持たない人間はコンテンツで勝負するべきではない。 

 

平易なアフィリエイトサイトをつくり誤クリックをしやすい位置に広告を貼り少々のお小遣いを得る。そのお金ですこし美味しいものでも食べる。

そんな現実の動物的欲望に回帰する方法をとることこそが普通の人間にとってのインターネットの正しい使い方だと僕は思う。

 

www.youtube.com

フミコフミオとポリティカルコレクトネス

僕が最も最初にはてなブログの存在を知ったのはフミコフミオ氏のブログを読んだのがきっかけだった。それからブックマークをやりはじめてその流れでなんとなくブログも開設して今に至るというわけなのだ。まぁ僕のことはどうでもいいんだけどフミコ氏のポリコレ力についてすこし書いていきたい。フミコフミオフリークの僕から見るとフミコさんの文章術もとい文笑術こそが「ポリティカルコレクトネスと本音」の問題を解決する態度のような気がしている。

 

というのもフミコさんのブログを読んでいる方ならばわかるだろうが彼のブログはけっこうひどい。フミコ氏であればゲスイと言うのかわからないが事実や内容だけ切り取って見ると書いてあることはたんなる俗情であるように見えることが多い。しかしフミコ氏のすごいところはその俗情をとても柔らかくユーモアたっぷりに語ることであってどれだけゲスイ内容であっても内容以上の文笑術によって成り立たせてしまう。

 

トランプが当選してからポリコレ関連の話題をいろいろとみてきたがどの主張・文章・発言もその内容に関してだけ言えば総じて真面目すぎるように見えた。差別や偏見などはそれ自体は大真面目な議題であって軽々しく冗談をまじえてきとうに語ることはあまり許される行為とは言えないかもしれない。しかし大真面目な議題だからこそてきとうさを持って語ることが重要なんではないかとフミコ氏のブログを読んでいると思えてくるのだ。

文章は往々にして言葉をストレートに伝えすぎてしまい現実の対人コミュニケーションよりもいくらか誤解を生みやすい。現実にはハゲやデブなどひどい事を言ったとしても友人や同僚などの限定された条件のもとでは冗談半分に言ったことは冗談として伝わる。雰囲気、語意、文脈、冗談によって言葉が純粋さを失うことで軽くなる。ポリコレ的にはアウトなデブやハゲなどの言葉達もそんな軽さを装備することで使用可能な言葉に時としてなる。それがポリコレを解決する一つの術なのではないかと思うのだ。

 

しかし現実とは違い文章としてデブやハゲなどと書いてしまうと多くの場合、非常に無機質で乾燥した棘を持った言葉になってしまうことが多いのではないか。僕自身もブログを書いていてたびたび思うことがある。なんだか僕が思う以上に僕の文章は真面目に過ぎるような気がする時があるし他の方のブログを読んでもそんな感覚になる時がある。例えば炎上する人は文章にしたら意固地な人に見える。けれど炎上するような発言ができるのは普段はそんなひどい言葉でも現実の人格が軽さを与えているからなのかもしれない。だからOFF会などで現実に対面すると良い人のようなことになる。それはギャップではなく現実の人格が言葉に軽さを与えているからなのかもしれない。文章自体がコミュニケーションのツールとしてはそれだけでは重すぎるようにも見える。

 

しかしフミコ氏は違う。彼の文章は読み手がひどいことでも許してしまうように読める冗談や文脈が盛り込まれていて読んでいても良い意味での軽さが伝わってくる。文笑力として右に出る人はいない。だからいくらゲスイ内容を並べていてもフミコ氏のブログの世界観は壊れないしどこか楽しく優しい。

 

ポリティカルコレクトネスや差別は大真面目な議題である。時に人が死ぬこともある。軽蔑するような言動をする者がいることも事実である。しかしだからこそ冗談半分に、いいかげんに、適当に、スコッチでもロックで飲みながら語ることが必要なのではないだろうか・・・

事実が真面目であればあるほど不真面目に語ることこそが壊れない世界を形作ることができる。そうフミコフミオ氏(女子大生好き)は教えてくれているような気がしてならないのだ。


トランプ当選は多様性の敗北をうたっているのか

アメリカ大統領選挙ドナルド・トランプが当選した。Brexit(イギリスのEU離脱)とあいまって考えると無意識の精神的なレベルで言えば多様性の敗北という視点も得ることができるように見える。

多様性を大金言とするようなふしが近代グローバリズムの世界にはある。とかく多様性はあらゆる人間に自由をあたえとかく平等な社会を形成するような文句として言われる。多様性を否定する人はあまり見ない。ポリティカルコレクトネスかコモンセンスかどうかわからないがともかく論理の世界では多様性は絶対的に善であると捉えることができる。僕もそう思う。肌の色・性別・性的思考・趣味などなどありとあらゆる人間を包摂して取り込もうとする社会は理想であることに異論の余地はない。ただひとつだけ条件をあげるとしたらそれは論理の世界の話であって現実の世界の話ではない。こうして文章にして書くかぎりにおいて多様性はいくらでもその正しさを維持することができるが現実の世界においてはそうとは限らない。

それをイギリスとアメリカは証明した。

 

トランプの当選とイギリスのEU離脱との共通点はブルーカラーの現実的ナショナリズムによる自衛ということが言える。アメリカは得票地盤を見れば一目瞭然であるが東海岸と西海岸のホワイトカラーはヒラリーを支持し内地の人間はトランプを支持している。レッドネックと黒人薄給労働者や一部のリバタリアンがトランプを支持して既得権益層はヒラリーを支持した。イギリスでも移民に仕事を奪われる危機感によってブルーカラーを中心に同様の現象が起きた。人間は理性的であり多様性という金言を確保した国家戦略は機能するだろうとメディアは考えていたがヒラリーは敗北しイギリスはEUを離脱する結果になった。

 

結局、多様性は言語空間によってしかその正当性を確保できない。多様性は反論できないゆえに否定しようがないので皆が多様性に賛同しているような空気がつくられるが多くの人間は多様性なんてものより自分の故郷が大事だし自分の信仰や宗教を侵されたくはない。移民がカリブ海で何千人死のうが自らの労働環境を守ることのほうがはるかに重大な問題であるし自分が大事で次に自国が大事である。その基盤や余裕を持って初めて多様性にコミットできる。移民や他国の価値観を受け入れる多様性という「善性」はその時に初めて生まれることをアメリカは証明した。

トランプのメキシコとの間に壁をつくり日本はアメリカの庇護を期待するなという発言しかり物騒なほどゆがんだナショナリズムは理想を語ることしか許されない言語空間によって毒されてきた人間には理解できないほど自らの生活を脅かされてきた人間には意外なほど心の奥底に届いたのかもしれない。そして皮肉にも多様性を担保にした思想の自由をも多様性は良しとするのである。

 

個人的な話をすれば多様性なんてクソくらえと言うべきか言わないべきかと言えば言わないべきではあると思うがセクシャルマイノリティの方に対して僕は気持ちが悪いと思っている。多様性というポリコレがあるので言わないだけであるが男が男のモノを舐めるとかアスホールに自分のモノを入れるだとかとても現実的に許容できる世界ではない。しかし僕はこんなこと普段は言わない。言わないのは他人と他人がどうなろうが知ったこっちゃないので勝手にすればいいと思っているので言わないだけであっていざ投票という行動になると同性愛に賛成するのか反対するのか僕がどう判断するのかは自分のことながらはっきり言って「よくわからない」。

おそらくこの本音と言論のかい離と迷いがアメリカ大統領選挙にもあったのではないかと思っている。

多様性を担保に普段言わないことでも単純な投票行動であれば自分の本音をぶつけることができるしトランプ支持なんて普段は絶対に言わないのにいざ投票となればトランプに票を入れる。外部の対人関係を構築する性格が常識や多様性によって役割として矯正されてしまっているので普段は隠れていて投票によってはじめて出てくる。そして多様性を否定することは言論的または理想主義的には悲劇でも多様性よりも大事なもの(生活や愛国心)がありそれが純然たる現実なのである。

理想主義や啓蒙主義が敗北したという視点で見ればアメリカは至極まっとうな判断をくだしたのかもしれない。

人間の自律意志を超えるモノとしてのポケモンGO

またポケモンGOについて。

ソーシャルゲームやパチンコなどもそうであるが人間の自律意志を超えてくるコンテンツが存在する。僕はポケモンGOもパチンコと同じだと思っている。中毒性や永久性によって人をコントロールするシステムが組まれている点で同じだ。ダイナミズムの点で言えばパチンコよりもタチが悪い。

今は僕はゲームはほとんどやらないのだが最近のゲームはもれなく終わりがなく自分の意志で終わらせない限りは半永久的に続けられるようになっている。

ドラクエ10しかりパズドラしかりポケモンGOしかり。以前はセフィロスを倒したら終わり、バラモスを倒したら終わりなど終わりが用意されていて強制的に終了するゲームのシステムは自律意志に頼らずとも子供でも「必ず飽きる」ように設計されていた。それがゲームが現実に侵食しないようにあくまでエンターテイメントとしての最低限のゲーム会社の倫理だったのだろう。

だから僕は昔はゲームは好きだったが今のゲームはそもそも絶対に始めようとすら思わない。僕の周りにも昔はゲームが好きだったのに今のゲームは見もしないという人がいる。ゲームが面白くなくなったのではない。ゲームがゲームであるだけではなくなって現実に架橋しはじめたことが危険ということだ。

小学校のころ友人が放課後にサッカーに誘ってくれたのを帰ってRPGをやりたいがために断った記憶がある。そのくらいゲームは良い意味で魅力的で悪い意味で誘惑的だ。仮に子供のころに友人の誘いを断るほどに面白いゲームが永久に続くものだとしたら永久に僕は友人の誘いを断りつづけていたかもしれない。

 

ゲームもパチンコでもなんでもいいが魅力と誘惑の境目は供給側で確保しないかぎりプレイしている側がコントロールすることを期待するのは反倫理的だと言っていい。人間の意志なんかクソみたいに弱いものでそれを超えるモノをつくって流通させて使い方を使用者に求めるのは不誠実だろう。端的に言えばポケモンGOもパチンコもソシャゲも軽度の麻薬のような要素がある。ポケモンGOとパチンコを同列に語ると怒られるかもしれないがポケモンGOのほうが人身事故の可能性などを考慮すればより危険であることは間違いない。パチンコなんかせいぜい店の中で一畳ない空間で完結する玉転がしである。

 

そしてこの手の中毒性が高いビジネスモデルの経済的な同一性は供給曲線をシフトさせるのではなく需要曲線を歪めて利益が上げるように作られている点である。パチンコなんかまさにそうで端から見れば機械自体の価値などたかが知れているのだがパチンコ玉をはじく鼓動、サブリミナル、確率の誘惑などによって爆発的に需要を喚起することによってのみ利益を出す。

 

結論としてはポケモンGOでもパチンコでもなんでもそうであるが人間の自律意志を超えるコンテンツや現実に架橋するようなゲームを供給するかぎりはなによりも倫理的でなければいけない。そしてゲームの倫理は昔たしかにゲーム業界が持っていたものでその倫理は簡単な言葉で言えば「誰でも安心して遊べるゲーム」というものだろう。

具体的に言えば現実に侵食しない、人を煽動することもない、いつか飽きるように設計するなどなど。ゲームはゲームでしかなく現実的にはただのデジタル世界のデータでプログラムの羅列であってアナログ的にはゴミだと思ったほうが良い。

そう考えたほうがまあなんかもうすこし人間が楽に人間でいられる世界になるんじゃないかなと僕は思うよ。

 

ポケモンGOが原因の交通事故で運営会社に原因を求める人達は缶ビールとかどう思ってるの? カーナビは? - 今日も得る物なしZ

車と戦争とポケモンGoと人間と功利主義

ポケモンGO 功利主義

ポケモンGOで事故。小学4年生の児童が死亡。事故はつねにいたましい。ご冥福をお祈りいたします。

ポケモンGOを運転中に操作して事故を起こした責任の所在をどこに求めるか。運転手か?ポケモンGOか?自動車メーカーか?などと話題になっている。

めずらしくツイッターなんか見ているとポケモンGOが悪いのではなく運転手に責任を求めるべきでポケモンGOを問題としてニュースの見出しをつけるのは間違っているなんてツイートを散見した。これに関しては僕は反対で人間が悪いという意見には意味がないと思っている。なぜかといえば「人間は何者にでもなれるから」。僕だって戦時中に生まれて戦地に駆り出されれば人を殺しただろうし場合によっては強盗だって働くかもしれない。人間は可変的でたまたま生まれてきた境遇、たまたま産み落とされた時代の条件や環境で何者にでもなれる。そうした前提がある。

だから前述のポケモンGOに責任を求めるのではなく運転手に責任を求めるべきという意見は今この2016年現在の価値観にかなっていない行動をする人間は悪いという意見であろう。しかし人間は可変的で外部の条件づけでいかなる行動もするのだからポケモンGOをしながら運転する程度の危機感で生きている人間がいても不思議ではない。その危機感のなさが良い悪いと断罪することは簡単であるが環境が無限であるかぎり人間のリテラシーも無限であるからポケモンGOをやりながら運転する人間は絶対にどこかには存在してしまう。つまりそれがどんなものであれ事故が発生することは避けようがないという結論になる。

じゃあどうするのか?メディアがポケモンGOをやりながら運転してはいけないと流布して事故の発生率を限りなく0に近づけていくしかないのか?ナイアンティックと任天堂は今回の事故にかんしては一切責任をとらなくていいのか?

と考えたすえにベンサムが出した結論が功利主義である。

行為や制度の社会的な望ましさは、その結果として生じる効用(功利、有用性)(: utility)によって決定されるとする考え方である。帰結主義の1つ。「功利主義」という日本語の語感がもたらす誤解を避けるため、「公益主義」や「大福主義」といった訳語が用いることが提案されている

功利主義 - Wikipedia

ここではポケモンGOと車の望ましさを主題として考えてみる。ポケモンGOをやりながら車を運転していたから事故が発生した。外部の条件はこの2つであって功利主義では事故が起きる可能性がある両者に共にマイナスの評価を与えそこに便益を足して望ましいのか望ましくないのか決定する。

車は毎年およそ4000人を殺しているが移動、宅配、運搬、物流などで便益をあげているので車は人を殺してでも存在すべきだと今の社会ではそういうことになっている。ポケモンGOはどうだろうかというとゲームをプレイする人が得る享楽は公園をうろうろするなどの運動から得る健康、プレイヤー同士をつなぐ人間関係などが便益として考えられる。デメリットは死亡事故、お台場のようにマスが無作為に急に集まること、または深夜徘徊、平和記念公園の静謐を壊す問題も見方によってはそうかもしれない。じゃあポケモンGOも車のように人を殺してでも存在していいのか?これは功利主義的に考えればかなり微妙だ。僕は死傷者がでたりこれだけあらゆる問題が噴出した時点でサービスを中止すべきだと考えているが微妙なところである。

 

車は凶器であり毎年たくさんの人を殺しているが車は車に代わるものがない。代替可能なものがないのだ。いっぽうポケモンGOはいうまでもなく娯楽であるが今の日本にはポケモンGOで得ることができる快楽を代替するものなどいくらでも存在する。運動の便益はウォーキングで代替できる。コミュニケーションは飲み屋に行けばいい。前述にしたように人間はなんにでもなれる。ポケモンGOが人を殺すのは避けようがない。そして人を殺す可能性のあるサービスをつくる必要などどこにもないのだ。

その意味で最大多数の最大幸福をテーマとする功利主義ではポケモンGOの便益はその代替可能性のぶんだけ差し引いて考える。するとおそらくポケモンGOはうーーーーんまあなくなったほうがいいんじゃないかという気が僕はしてくる。

まとめると人間は環境の動物なのでポケモンGOが殺人の着火剤であることは否定できないしポケモンGOの便益は代替可能だからたいしたことない。ゆえに功利主義ではポケモンGOを全面的に禁止すべきだと結論づける。もちろんこれは資本主義の原理に反するしカント主義にも反するので議論の余地は当然ありますね。

 

追記

誤字指摘いただきありがとうございます。事実関係に関する誤字は本当に失礼でしたね。お詫びして訂正いたします。

車と戦争とポケモンGoと人間と功利主義 - メロンダウト

"少額4年生の児童が死亡。事故はつねにいたましい。ご冥福をお祈りいたします" 誤字で開幕してる程度の軽さと雑さ。それとも功利主義だと少額な出来事と言うことなんだろうか。

2016/10/30 03:12

b.hatena.ne.jp

マナーは規制するのではなく許容可能なものを広げていくべき

マナー

電車内で化粧するかしないかが話題になっているがこのマナーに関して思うことがあるのでひさしぶりにブログを書く。

このマナーだったりあらゆる公共空間のルール作りに関してもそうであるが公共性は民主主義によってつくられるべきものであることをどうも忘れているような気がしてならない。少数者の奇異な意見を拾うことはいいがその意思決定は物言わぬ人間の賛否も合わせて決めなければいけない。それが民主主義の原則である。電車内での化粧は不快だという声と僕のように勝手にすればいいという声も同等に評価しなければ民主主義たりえない。僕は電車内の化粧に関してはしてもいいと思ってるしそれどころか電車内で酒を飲んでようがいいと思っている。そのほうが陽気だろう。多少うざったい絡まれ方もするだろうがゲラゲラ笑っていたりする人がいたりしんみり飲んでいる人が公共の空間に存在できるのは僕はユートピアだと思っている。

しかし現状は神経質ともいっていい大きい声が拾われてそれが公共のマナーを決定しているのでどんどん息苦しくなってしまう。大きい声の裏には場合によってはそれ以上の声なき声が存在することを議員や公務員は自覚し意思決定を行うべきであるのだ。

少数者の意見を無視するなどという意見ではない。少数者が我慢すべきか大多数が我慢すべきかを勘案し決定するのが民主主義であってそれはどちらの声が大きいかという尺度をもって評価すべきではない。どちらの声が多数かによって決定すべきなのだ。政策であっても、法律であっても、そして電車内で化粧をするのかどうかというマナーであっても。

例えば以前はタクシーの中でも新幹線でも駅のプラットフォームでも喫煙可能であったが今は禁煙となっている。これに関しては僕はタバコぐらい喘息の人の前など致命的な状況以外どこでも吸っていいと思っているが大多数が禁煙であるべきだと考えているから喫煙すべきではないという公共性に喫煙者は従うべきである。これに関しては僕なりの意見があるが現実に公共性は私的欲望の上位に来るので従わなければならない。それは化粧に関しても同じことが言える。化粧も別にそれが実害を伴おうとどう見えようと関係なく公共空間においては多数が不快だと思うことを行うべきではない。

 

しかしここで注意したいのは少数者が不快だと思うことは我慢しなくていいということである。少数者が不快だと思うことは無視して堂々としていいなどと書くと批判がきそうであるが人間は存在しているだけで不快だと感じる人がいるのだ。

パーソナルスペースという。化粧をしているかどうかにかかわらず他人が手の届く距離に存在すること自体が不快なもの。家族であったり友人であれば許容できるが人間は他人がおよそ2mの範囲に存在しているだけで緊張するしあるいは不快に感じる。それを基準に公共のマナーを決定すれば人は人に近づくななんてマナーになりかねない。

 

だからどこまでその不快を引き受けるか引き受けないかは許容力や胆力の問題であって良いか悪いかという問題ではないと思ってる。そして公共空間で生きるかぎりは他人を不快に思うと同時に許容する矛盾を引き受けるべきだと僕は思っている。

そうして大人になること、沈黙すること、嫌なものを見たら滑稽だと微笑すること

その大人の沈黙こそがマナーであり、その沈黙を声として政治が拾うことがより多様な、より寛容な、そしてより良い公共をつくることに資すると僕は思う。

とりとめのない記事になってしまったが僕がブログに糞エントリをあげる自由も、どうか許してほしい。

business.nikkeibp.co.jp