メロンダウト

メロンについて考えるよ

失ったのは他人ではないだろうか

黄金頭さんが寄稿された記事を読んだ

blog.tinect.jp

人類は無益な不幸をこの世に積み重ね、繰り返す必要はない。人類は苦しみの総量を増やすべきではない。人々が新しい不幸を増やさないようになって、この地上からいなくなってしまうのがよい。

 

これが、シロクマ先生の「未来を考えてみませんか?」という問いに対する、あまり模範的ともいえないおれの回答ということになる。おれはこう考えた。

ぜひ、『人間はどこまで家畜か』を読んで、自分の価値と家畜さと人類の未来について考えて、発表してほしいと思う。

 

現実でもインターネットでもあまり「人生」という言葉を使わないように気を付けている。人生、と言い出した瞬間になにか余計なものがこびりついてしまうような気がするからだ。人生は~~、人生が~~、人生を~~と語りだした瞬間に失われるなにかがある。それが怖いのかもしれない。

 

黄金頭さんがどのような苦悩を抱えながら反出生主義を肯定しているのかを真に理解することは難しく、おそらくできないだろうけれど、ただ、反出生主義を下支えしている苦悩・不幸・生きづらさの現代的側面とはそもそもなんなんだろうかと思うことがある。シロクマさんの言葉を借りれば文化的ミームによる自己家畜化ということになるのかもしれないけれど、それは不幸や苦悩からの脱却を指すものであり不幸自体を定義するものではないような気がしている。いや、文化に飼いならされ何も考えなくなった世界がディストピアであることは間違いなく、そこで暮らす人々は客観的に見れば不幸だと言えるものの、幸・不幸という概念すら持たない存在が家畜であるとするなら主観的な意味で彼らは不幸だと感じていない。正確を期するなら不幸であるかどうかは問題にすらならない。定義上、家畜とはそういう存在ではある。もちろん我々は人間なので自由を謳歌できなくなり家畜化されれば不幸であるため家畜=不幸という図式は成り立つし、事実として現代社会における家畜的不幸は大きな流れとしてすべてを飲み込もうとしているのだと思うけれど、反出生主義を支えている主観的不幸はそれとは別の、言うなれば「亜流」として静かに社会を蝕んでいるのではないか。そんな気がしている。

 

ものすごく平易な言葉で言うのであれば社会は「つまらなくなった」。文化に溢れあらゆる情報が駆け巡りインフラも整備されどこにも行けるようになり食べ物に困ることもとりあえずなくなったけれど、つまらなくなった。その原因は何かと言えば、おそらく、他人が他人であること、もしくは自分が他人であることをやめたからだろう。

昔のことだけれど、小学生の時に授業中に騒いで先生を挑発し、時には窓ガラスを割る同級生がいた。家庭環境のせいで粗暴、という感じでもなく、常に人の目を引き付けていなければ収まらないという感じだった。今であればなんらかの診断名がつくのかもしれない。しかし当時は先生達も単純に厄介な子供という認識だったのだろう。ただ、子供だった自分の視座から見るとその子がたびたび騒動を起こすせいで毎日がイベントのようだったことを覚えている。あくまで振り返った時に思うことではあるが、小学校は「あいつ」のおかげで面白かった。毎日学校でなにか起きる。それが面白かった。大人から見ればただ単に迷惑な子供かもしれないけれど子供同士にとってみれば「あいつ」の存在は日々繰り返されるつまらない授業にたいするちょうど良い刺激になっていたのであろう。時には迷惑で、時には度が過ぎることもあるけれど、残る記憶は面白いが大半を占める。

今であれば学校の窓を割るような子供にはカウンセリングが施され場合によっては特別学校へ転校したりするのだろう。面白がる、なんてこともできない。無論、なんらかの困難を抱えている子供にはきちんとした教育が必要であり、その子のためには別の学校に行くことも将来のために必要な措置であることは間違いない。ただ、そのような措置をすると「わけのわからない異分子=本当の意味の他人」に出会う機会が少なくなっていくことになる。学校だけでなく仕事でもストレスチェックや適性によって弾かれたりするけれど、そうしてできた同質性の高い集団では「本当の意味の他人」がいなくなる。ゆえに機能集団としては効率があがり生産性も高まるかもしれないけれど、同時に他人に会う機会を逸しているとも言える。

そうした適材適所を社会的に肯定した結果、我々は他人がもたらすわけのわからなさに自然と出会うことはなくなり、楽しむことすらできなくなってしまった。なんらかの障害を持つ子どもの奇行を楽しむ、などということは現代社会では御法度であり、しかし、だからこそ僕達は他人にたいする理解度が下がり、当の他人も他人であることをやめ(教育された)、結果としてバラバラになり機能に閉ざされたつまらない社会になっていったのであろう。

 

そもそも他人の役割とは何か、という話であるが、他人とは可能性のことではないだろうか。自分、あるいは自分の子供が将来、同じような困難を抱えるかもしれない人生を先験的に生きている生き字引としての役割が他人にはある。しかしながら僕達は他人を他人として理解することを選んだ。他人は他人というと聞こえは良い。しかしながら逆に言えば自らにひきつけて他人を解釈することをしなくなった。自らの尺度で他人を図ることは端的に独善だと言われる。しかし、そうして他人を他人として切り離した結果、自らの分身体としての他人、その可能性を手放してしまったのであろう。自分は自分、他人は他人。そこに自分と他人が混じる余地はないのである。

とりわけ他人にたいする言説において支配的なのは「なんらかの困難を抱えている人にはケアや理解を」というものだ。皆しきりに言う。しかし障害を持って生まれた人がどのぐらい幸福なのか、貧困家庭に生まれた人がどのぐらい幸福なのかすら僕達は実のところよくわかっていないのであろう。「情報としての障碍者」「情報としてのADHDHSP」などは知っているし、日々アップデートされていき彼らとの付き合い方もわかっていくものの、情報として知れば知るだけむしろ実態から遠ざかって行っているような気がするのである。

 

 

以上のような自分と他人を分け隔てる言うなれば峻別主義や個人主義こそが反出生主義の起点と考えることもできる。つまり、反出生主義は現代社会が提唱する適材適所という措置により他人と出会う機会を逸した我々が他人という可能性を失い、自己反復に囚われたことによって出てきた最終閉塞なのであろう。

 

 

無論、子供には遺伝の影響があり、他人を参考にするより自分を参考にしたほうが妥当であるし、黄金頭さんのように、当人の苦悩ゆえに出てきたものを軽んじるわけではないけれど、反出生主義の話をいろいろ読んでいて思うのは「当人が苦悩しているゆえに反出生主義が出てきた」というのはある意味では真実ではあるが同時にミスリードであり、僕達が現代社会で失っているものは自分がどうこうという話ではなく他人もとい自己の他人性ではないだろうか、なんてことを思うのである。

裏金問題を見ていて

こんにちは

株価(日経平均)が過去最高値を更新、内閣支持率が過去最低になるというなんとも捻じれた状況を見ていてちょっと思うところがあったので書いていきます。

 

通常であれば株価が上がり経済が豊かになれば国民の生活が楽になり政治への関心が薄れ政権も安定するものと考えられているが、現状、そうはなっていない。

まず経済が豊かになっているというのが嘘で、インフレ率や物価上昇率を加味した実質賃金は下がり続けている。

11月実質賃金3.0%減、20カ月連続マイナス 特別給与減響く=毎月勤労統計 | ロイター

したがって国民の生活も楽になっていないので政治にたいするフラストレーションが溜まっている。そうした状況に自民党の裏金問題が重なる形で内閣支持率が過去最低となった。

鈴木財務相 政治資金問題 “納税行うかは議員が判断すべき” | NHK | 政治資金

 

 

岸田総理は、政権が発足した当初、「新しい資本主義」を掲げていた。新しい資本主義の内訳は「構造的賃上げ」「国内投資の活性化」「デジタル社会への移行」の3つだった。アベノミクスによって株価が上昇し名目的にはインフレに転化したのでその恩恵を国民に波及させよう。そんな狙いがあったのだろう。しかしながら政治がやったことと言えばNISAやIdecoを使い投資するよう国民に呼びかけはするものの、実質賃金の下落からもわかる通り、給与所得の伸びは充分でないまま物価が上がり続けてきた。そもそも金融市場の恩恵を国民に波及させ分厚い中間層を形成することに成功した例は僕が知る限りないので無理な話だったのだろう。やるのであれば北欧のように福祉を充実させ給与所得の多寡に関わらず子供を持てたり豊かな暮らしができるよう「大きな政府」を目指すしかないのだと思う。

しかしながら政府が大きくなるには権力を預ける足る信用できる政権与党が必要になる。日本においては自民党だが、その信用は統一教会の件や裏金問題によって決定的に失われてしまった。もとより族議員二世議員、老人が多いことからも国民は政治を信用していなかったのだと思うが、昨今の報道により自民党の支持率は文字通り地に落ちたと言っても過言ではない。

振り返るにそうした政治への信頼の無さを補っていたのが安倍元総理だった。良くも悪くも安倍元総理には求心力があり、支持する側も批判する側も安部さんを中心に政治が回っていた。その求心力により他の議員が関わる自民党の体質的問題が覆い隠されていたのであろう。当時はモリカケ問題のような首相個人の資質の問題に批判が集中していたが、今は自民党全体の信用が損なわれている。しかしながら安倍元総理の時と今とで他の議員がやっていることはそれほど変わらないだろう。象徴がいなくなったことで全体に焦点が当たるようになった。単にそれだけである。裏金問題も統一教会との関係も、すべて「昔からこうだった」のである。

 

 

このような顛末を見ていると全体主義の議論を思い出す。なにぶんそんなに詳しいわけではないけれど全体主義の要諦は虚構性と権威主義にあると読んだ記憶がある。全体主義の原因は権威主義的パーソナリティーにあるとされている。権威に迎合し、権威に責任を帰着させることで「国家を抽象的(虚構的)にのみ捉え想像力だけで運用しようとする人」の独裁を許してしまうことになるというのだ。時に乱雑な現実の人間社会を棚上げし、論理的かつ抽象的に物事を捉えその延長線上に国家があると妄想し、聞こえの良い理想世界をプロパガンダとして喧伝し、票を集め、さらに周りを権威主義的パーソナリティーを持つ人で固めることで「僕が考えた最強の国家戦略」を実際にやってしまうのが全体主義の恐ろしいところだと言われる。

 

このような全体主義の土壌が自民党にもあるのではないかというのが裏金問題のもうひとつの側面である。

裏金問題はようするに本来は政治資金収支報告書に記載すべき収支を記載していなかったものであるが、当時このニュースが出た時、多くの議員が言っていたのが派閥の指示・慣習だったというものだ。ものすごく簡単に言えば「みんながやっていたからやった」というだけの話であり、すごくしょうもない話ではあるのだが、しょうもないゆえに重大な問題ということが言える。単純に申告していなかったことや裏金を何千万ため込むことももちろん問題なのだが、それより政治家の資質として派閥の慣習に何も考えず迎合することは権威主義的パーソナリティーそのものであり、そちらのほうがよほど重大な問題であるように僕には見えた。収支を報告するという当たり前すぎることも自ら判断できない。それは何が正しいことなのかを判断する職業である政治家にとっては職務遂行に関わる致命的な問題と言わざるを得ない。

「派閥からの指示」 自民、裏金事件で91人分のヒアリング結果公表 [自民] [岸田政権]:朝日新聞デジタル

裏金問題に限らず統一教会の時もそうだった。多くの自民党議員が洗脳商法を行っていた統一教会の集会に「みんなが出席していたから出席していた」。これも権威主義的パーソナリティーのひとつのあらわれであるだろう。

 

ようするに自民党の少なくない議員は権威主義的に物事を捉えており、何が正しいことなのか自分ではあまり考えなくなっている。いや、もとを辿れば権威に迎合的な人ほど出世しやすいのが日本社会だと言われていることを考えれば今の政治状況は自ら考える人が離党したりしてスクリーニングされた結果に過ぎないのかもしれない。

 

いずれにせよ裏金問題と統一教会の件によって自民党全体の体質が露わになり、支持率だけを見れば次の選挙で立憲民主党に政権が取って代わるかもしれない事態になっている。しかしリベラル勢力を支持母体とする立憲民主党は「想像力が豊かな政党」というのが僕の印象であるため、別の意味で全体主義的であり、個人的には支持できない。

想像力が豊かな立憲か、権威主義的パーソナリティーを持つ議員が数多くいる自民か、どちらにせよ全体主義的であるならばどこに票を入れようと保守かリベラルかといういつものやつに付き合わされるだけで根本的には何も変わらないだろう。

 

けれど、しかしというかなんというか、こうして政治について批判的に書いてはみるものの、「考えなくなった」という点に関して言えば、僕も昔ほど物事を考えなくなった。あと20年もすればきっと「考えようという考え」だけが残り、さらに10年も経てば考えることなどやめてしまうかもしれない。そのような肌感覚を持ちながら国会中継を見ていると不惑を超えた老人が政治を業務としてこなすようになるのも感覚としては正直わからないでもなかったりするのである。

なぜ子供だけが残ると思うのだろう

新たな形の性淘汰がそこまできているのではないか、という感じを最近いろんなところで思うことがある。

去年7月に不同意性交罪が施行され、最近、同法案のもとに逮捕されたというニュースがあった。

news.yahoo.co.jp

 

どのようなやりとりで行為に至ったのかはよくわからないので個別のニュースにたいしどうこう言うつもりはないのだけれど、不同意性交罪であったり、芸能人の性加害疑惑に、最近だとアイドル文化などをいろいろ総合して見るともう余計な性行為はするなと社会全体がアナウンスしているような印象を受ける。

 

上掲記事の件にしても今のところ大人の男女二人がホテルに行った時点で、特別な理由(酒に酔って酩酊している、断れない関係である等)がない限り性行為の同意は取れていると見なしている人がほとんどであるように思う。

ただ、このようなニュースや、芸能人のスキャンダルを見ていると「完全な同意がない場合、性行為をするのはリスクが大きすぎる」と判断する人がたくさん出てくるようになる。仮にマッチングアプリで出会った異性とホテルに行き性行為に及んだ後に被害届を提出されれば勤務先にも知られることになるし、場合によっては休職し、社内にいづらくなれば職を追われることにもなるだろう。普通、そこまでのリスクを負ってまで異性と性行為をしようと思う人はいない。さらに、不同意性交罪の成立要件は婚姻関係があるかどうかは考慮されないため、ワンナイトの関係に限った話ではない。仮に付き合っているとしてもある日突然、遡及的にあの日の性行為は嫌だったと申し立てられたらアウトとなる。

もちろん、同意があったかどうかは司法が適切に判断することになるのだろうが、被害届を提出されたり訴訟されること自体が一般市民からして見れば甚大なリスクであり、裁判になった後に勝てるかどうかの前に訴えられるかもしれないというリスクを見積もるのが通常の市民感覚であろう。そしてこの訴えられるかもしれないというリスクは、性交同意書にサインするでもない限りゼロにはならない。いや、同意書にサインしたとしても後で書かされたと申し立てられればやはりアウトである。そうしたリスクを鑑みればワンナイトのみならず恋愛関係にあっても性行為をすることにリスクが伴うことを避けられない。それが通常の判断となる。

つまりもう性行為は風俗とよほどの信頼関係があるパートナー以外とすべきではないと考える人が大勢出てくることになる。実際、もう女性を誘って性行為をするというようなことは、このような社会の動向を知らない「やばい人」か、訴えられてもかまわない知り合いに弁護士がいるような人か、もしくは女性のほうから誘われるアルファ雄しか残っていないのではないだろうか。通常の勤め人かつ理性的な人は女性を誘うことのリスクを勘案し、女性から誘われるのを待つだけになるが、現実にはそんなことはありえず、男性から迫らない限り、多くの場合恋愛には発展しない。すなわち、事実上、多くの男性は恋愛から退却することになるし、実際にそうなっている。

もちろん女性の性被害が深刻な問題であることは理解できるし、性犯罪者は厳罰に処すべきだと思っているが、問題なのは性行為と性犯罪に確たるボーダーラインがないことにあり、性犯罪を厳罰化すれば必然的に性犯罪になるかもしれない性行為も減ることになるということだ。そのような「波及効果」を考えずに、性犯罪を厳罰化し、カジュアルに訴えられるようにすれば社会が良くなるというのは視野が一面的に過ぎるのではないだろうか。

 

不同意性交のみならず有名人が性加害疑惑で仕事を降ろされるという報道にも同様の波及効果がある。最近、性加害疑惑が報じられサッカーのアジアカップから離脱した伊藤純也選手もそうであり、JFA日本サッカー協会)は最悪の判断をしたと個人的には思っている。サッカーや芸能など人気商売をしている人が人気がなくなり降ろされるだけだという人もいるが、ピーキーな判断を社会が下しているとアナウンスする弊害は大きい。性加害は疑惑の段階から許さないとすれば訴えられた時点で仕事を追われることになり、やはり余計な性行為はしないようにしようとみなが考えるようになる。そしてその影響は社会全体にも波及し、上に書いたように市場にはやばい人とアルファしか残らない状態となる。そのようなやばい人とアルファしか残らない状態であれば結果として女性が性被害を受ける確率が上がり、それをメディアが報じ、SNSが増幅し、リベラル活動家がフラワーデモを行い、それにより厳罰化が進み、ますますやばい人しか恋愛しなくなり、以下ループ、である。

 

 

関連するかはわからないが

松本人志さんの罪についての考察と提案反社会学講座ブログ

こちらの記事に

この世に替えの効かない人なんてひとりもいないんです。もしもそんな人が歴史上ひとりでもいたのなら、その人の死とともに人類の歴史は終わってたはずです。
 これは冷酷な事実ではなく、救いです。替えが効くからこそ、ある人の不在をべつの人が補える。人類は助けあって生きていけるんです。

 

と書かれていて、実際、仕事の代わりなどいくらでもいるし、誰かが仕事を追われたとしてもたいした問題ではない。それはそうなのだが、その人個人にとってみれば仕事を降ろされるのはやはり重大な問題である。替えが効く、ということはその人個人の悲劇にとってみればなんら関係がない。自分は他人ではないし、他人は自分ではない。全体として見て代えがきいたというからなんなんだ、と読んでいて思ったけれど、このような個人の実存を考慮しない純社会的言説を最近はよく見るようになったように思う。

第一に社会があり、次に人間がいるような言説だ。社会の安寧を保つために人間の業であったり実存はとりあえず横に置いておいて犯罪(仮)を糾弾し厳罰化する。社会を代表するにふさわしい人物であるように、スキャンダルには厳正に対処する。公共の安全のために、公園では、電車では、街中では、路上では、云々。そんな話ばかりだ。

そうした言論環境、つまり社会を一義的なものにした結果、「こんな社会で子供を持ちたくない」という反出生主義のような言説も出てくるようになった。反出生主義が是か非かという話はさておき、子供を持つこと=人間の自由を信じることよりも社会のほうを上位に置いていることにこそ反出生主義の現代らしさがある。子供が生来持つ自由が社会に侵食されると僕達が経験的に知っていて、かつその圧力を子供も回避できないだろうという予測のもとに反出生主義は立脚している。

反出生主義は極端な例ではあるが、こうした「社会をなぞる」という思考様式はなにも反出生主義に限った話ではない。社会全体のために個人の自由を捧げるというようなことは大なり小なりみながしている。その過多が問題であり社会と個人はどちらにも行き過ぎないようにバランスを保つことが肝要だと個人的には思っているのだが、今起きているように滅私奉公をありとあらゆるところで反復していれば、社会がなにか(性犯罪は許さない等)をアナウンスした時、それを自身の自由よりも上位に置く癖がつくようになる。それは一見すると理性的な態度に見えるが、究極的には上記記事のように「自分が自分である必要はない」というような純社会的ニヒリズムに至るし、時に反社会的となりうる性行為を伴う恋愛からは退却する人が出て少子化にもつながり、しまいには反出生主義のような言説が出てくるようにもなる。

そうした「波及」をすべて無視し、何も起こらない綺麗で生きやすい社会をつくりたいというのであればそれはそれで良いのだが、そのような社会をつくっておきながら他方で少子化を憂いてみせたりする。そこに欺瞞がある。何故、社会を一義的に語ったり、性行為に至るハードルや行為の社会的リスクを上げておきながら子供(自由)だけが残ると思うのか、僕には不思議でならないのである。