メロンダウト

メロンについて考えるよ

フェミニズムの反言的矛盾

言葉には言質があり反言がある。

フェミニズムは大事な運動であると思っている一方で男女同権は不可能性が高すぎるので現実的なレベルでの興味はない。運動自体は存在するべきだと思っているし境界線としての「役目」みたいなものがあるのだと思う。だから僕はフェミニストではないけれどもフェミニズム支持者である。

しかし時に目にするフェミニストの理想主義的言論にはすこしクラクラする。

 

具体的な話で言えば女性の権利向上の中に風俗嬢やAV女優の権利を向上させようとする運動がある。フェミニストの中で最も重要な性に関することなのでここを考えればすこしその「不可能性」が見えてくるのではないだろうか・・・

職業選択の自由として風俗嬢になってもいい自由を主張する。権利をかかげ誰も蔑むことは許されない空気をつくろうとする。

風俗嬢やAV女優も多様性で包摂して「権利をかかげる権利」があると主張する。

 

しかしこの風俗嬢などの権利を主張する運動は2つの矛盾を抱えているので行き詰らざるをえないと思う。どういうことかというと1つは、フェミニストのように冷静な視点で風俗嬢の権利を主張するのは客観的視点においては可能だが主観的視点においては不可能という点が矛盾している。

 

客観的に見れば、僕も女性の権利は大事だと考えAV女優に権利を与えるべきだと思っている。しかしそれは根本に他人がどうしようが自分の精神にいかなる傷も禍根も与えないからである。

いっぽうで主観的に見れば、恋人等が風俗嬢であることを僕は耐えられるようにはできていない。許しはするかもしれないが頭を抱え込むことになることは間違いない。

 

ここで

全人類にたいして恋人のごとく接し、決して風俗嬢を許しはしない人間、と恋人にたいしてさえ風俗嬢になる自由を与え権利を主張する人間。どちらが優しい人間なのだろうか・・・?僕は客観的思想によってしか決断しない人間はむしろ卑怯な人間だと捉えている。一方で前者も支持しえない。人の言葉や行動は現実的に矛盾してこそ信用できる。

 

2つめは反言法によって矛盾する。例えばある人が次のようなことをいう。

「AVに出演していっぱいセックスしてるなんてつくづく幸せな人生だね。」

皮肉たっぷりだ。フェミニズムがつくる世界はこの言葉に対して「怒ることができない世界」である。この言葉を発した人間の精神性に幻滅するというは可能であるが、この言葉にたいして怒ることはできない。

犬儒してシニカルに沈黙し思想的にマウンティングし冷笑することはできるが、真向から怒ることはフェミニズムの思想に反することになる。風俗で働くことは幸せなことととらえる自由があると考えているからだ。

 

個人的なフェミニズムに関する所見を述べれば理想主義的すぎて落としどころを探る必要があるように思う。男性と女性の生物的条件が絶対に違い、ここを変えることはできないので折り合いやっていくしかないように思う。

昭和的家族構成のサラリーマンと主婦もあるいは社会的条件との折り合いであの形がベストだったのかもしれない。あるいは中国の後宮文化も当時戦争の絶えない時代には折り合いがついていたのかもしれない。男性は戦争に駆り出され死に、女性はその男性の悲惨さの等価交換として権利がほとんどなかったのかもしれない。つまり「戦争に行って死ぬぐらいなら権利を求めるな」と。

 

今は戦争もないし男性しかできないような仕事もそれほど多くない。だから女性の権利を歴史上で最も主張可能な時代だ。

しかしそれでも平等とはいかないよ。だから折り合い許しあえることを精査し耐えることが重要なのではないだろうか。全部許すなんてことは理想主義的すぎるのだ。

私達は複雑さに耐えて生きていかなければならない。なんてどこかで聞いた言葉で・・・了です。

plagmaticjam.hatenablog.com

 

自立と貧困とリベラルとタバコと共同体概論

過去に書いた文章・・・雑文です。

NEWSZEROで子供の貧困について放送していた。子供の6人に1人が貧困であるようだ。この数字自体がかなり衝撃的な数字にうつる。アフリカの子供との比較ではない。日本人が感じる日本人の感覚として絶望的だと感じる。

離婚率の高さ、所得格差などでシングルマザーシングルファザーになって貧困にあえぐ人があとをたたないらしい。放送では飲食店でフルタイム働いて月収が9万円。それで子供2人を養っているシングルマザーが紹介されていた。育児は尊い

 

放送の中で貧困者にたいして食料品提供しているNPOを取り上げていた。寄付で集めた食料品などを貧困家庭に配るNPO団体。子供にお菓子などを配っていた。フードサービスを提供するNPO団体はこれからもっと必要になっていく。今回放送されていたものは学校側が貧困家庭を拾いあげてNPOに通知して食料を配給するという仕組み。シングルマザーの彼女も利用しているようだった。

 

そんな彼女が言った言葉におそらく日本の最も根源的な問題が示唆されているのではないのかと思った。彼女は月収が9万円しかなく子供2人を養うにはそうとうにきついのだがそれでも人に頼ることに躊躇いがあると言っていた。

自己責任、自立、平等原則など理念的にはポジティブに聞こえるものばかりで現実的に何の役にも立たない言葉達が彼女を苦しめているのかと思うとすこしいたたまれなくなってしまった。

 

個人的な所見を述べればこの世界に完全に自立している人などどこにもいなく誰しもが誰かに何かを依存している。その精神的、金銭的、性的、社会的なあらゆる支柱をまるで「自然」「自明」なものとして取り扱うものだけが声を大にして私は自立していると叫ぶ。そして失ったもの、自立できるほどの支柱を持たないものを自己責任論の名のもとに説き、殺す。その正当性を補された依存がほとんど運であるにもかかわらず、である。

 

人間は5つの依存先があるとココロが安定すると言われている。家族、中・高・大学の同級生、ママ友、同僚、趣味仲間、ネットなどなんでもいいがともかく別のコミュニティーから見た視点を複数獲得することで、はじめて冷静な距離を取ることが可能になる。あるいは単純に他のコミュニティーから離脱したとしても社会とは切り離されない保険としての役割か・・・

 

理由はどうでもいいのだがともかく広く人間関係を持つのは精神安定上では非常にポジティブな効果が期待できる。しかしこの自分を広く押し広げ複数のコミュニティーに在籍するような一見すると冷静で大人に見えるこの人は果たして「強い人」なのであろうか?

 

おそらく人間は心的リソースの分配がかなり大事であることは間違いない。間違いないのだが、ではマイルドヤンキーのように単一のコミュニティー、閉ざされたコミュニティーで生きる人は自らを客観視できなく依存しているから「弱い人」とされるのであろうか?

 

依存先のコミュニティーを複数確保し客観視できる人

単一の思想に染まり言語すら標準化されていない人

 

おそらくはどちらが強いかどうかで言えば繋がりの強さで言えば後者で、前者は世渡り上手でリベラルな人ということになるであろう。

しかしこの時、総量としての分配前の心的リソースは前者と後者もどちらもさほど変わらないのではないか?という疑念が僕にはある。

つまり前者のようなマイルドヤンキー的生き方、つまり「保守的、土着的な生き方」は自分のコミュニティーを客観視しないがゆえに自壊する恐れがあまりない。しがみつく。その繋がりの強固さゆえに壊れる時にはひどいことになる。

ちょうど世界に学校しかコミュニティーがない子供が時に子供をいじめ殺すように。

 

一方で前者はいじめられたら即座に逃げ出し別のコミュニティーに逃げることができる。しかしこの簡単に逃げ出してしまうようないかなるゆがみも客観視され矯正されるる世界では歪だが強い繋がりが生まれにくい。(強いつながりそのものを悪だと考える人もいるであろうが僕はそう思わない)

 

どちらのコミュニティーに属するにしても、おそらくは人間一人一人が持つ心的リソースの総量は違わないのであろう。一箇所に集中してリソースが投入されれば歪でも特別に強いコミュニティーが生まれることもあるし、振り分ければ何が大切かわからず遁走するように生き、延びていくだけになるかもしれない。

 

繋がりが持つ危険性は時に子供が学校で起こすイジメなどに見て取れる。エネルギーが爆散して被害者に向かう。だから個人的には一つのコミュニティーだけで生きていくことはおすすめできない。人間はコントロール不可能であるしあるいは配偶者でも家族でも裏切られるリスクが常につきまとう。

 

ところでまったく関係ないように見える話であるが、タバコほど無意味なものはない。燃やして煙になり空に還るだけである。まったく誰のためにも何のためにもならない、ならない、ならないがゆえに依存する。

人間や仕事、恋愛も常に危険と隣り合わせの関係であって常にいさかい衝突するリスクがある。コミュニティーから得る成果や承認もある。恋愛における静謐な空気も穏やかな呼吸も、友人同士でかわす笑顔も人生においては最高の果実である。一方でどれだけ信頼してもコントロール不可能な他者という視点が消えることは永久に、ない。

意味を求めあうし愛も信用も能力も求めあう。それらを獲得する努力が必要なくなることは永久にない。善も悪もないまぜになった人間関係が人に重力を与えるので関係そのものを否定してはいけない。その矛盾を抱え生きていくしかない。

ここで言いたいことは意味を求めあう人間関係では、100%完全な形で依存することはできないということである。だからコミュニティーを分散させることで依存先を増やすことでココロが安定する。

 

一方でタバコのようにまるで無意味なものへの依存が「人間関係が求める意味」にたいするカウンターとして生じてくる。だからタバコが無意味であるというのは批判にはなりえない。依存対象はそれが無意味であればあるほど良い。

紫煙をくゆらせタバコの煙に意味を乗せ空に還す、そんな無意味さだけがおそらくはタバコの(時にポジティブな)本質である。それは時に息苦しく感じる人間関係の意味の世界と対比してむしろ聖なるものに見えてしまう時がある。

しかし意味も無意味さも同時に保持しなければいけないのだろう。無意味と意味を同時に抱えるその矛盾だけが大人になるということなのかもしれないと、最近、素朴に、思う。

日本人て野球が好きではなかったんだな

主語がでかいのは百も承知だけど日本人ってもっと野球が好きなんだと思っていた。

 

僕は普段はまったく野球は見ないのだけど、WBCは見ている。普段のペナントと違い、全力で勝ちにいく戦いは野球ファンならずとも手に汗握る。たいへん面白いのはそうなんだけどWBCの日本戦の祝祭的面白さとは違い目についたのが

海外の代表チームの試合の観客の少なさだった。2次ラウンドのオランダ、キューバイスラエルなどどこも強豪チームでメジャーリーガーがやまほどいる。野球の最高峰の試合なのは僕のような素人でもわかる。

日本戦のイスラエルのピッチャーなんか先発から中継ぎまでみんな当たり前のように150kmのストレートを投げていた。技術的なレベルで言えば世界最高峰の戦いなんだろう。にもかかわらずニュースで見た日本戦以外の東京ドームはガラガラだった。僕はそんなに野球に詳しくないし知らなかったのだけど、みんな野球の話をしたりテレビのゴールデンタイムでも昔は試合を放送していたぐらいだからみんなもっと野球が好きなんだと思っていた。

 

野球と同じような人気スポーツ、サッカーのワールドカップと比較するとWBCの日本戦以外のみんなの興味のなさはかなり異常に見える。ワールドカップだとどの試合でも観客は埋まる。WBCのような空席状況は絶対にない。自分も個人的にサッカーは好きなので日本戦以外でも見たいと普通に思う。実際にワールドカップの時はハイライト含め全試合追う。サッカーが好きだからどんなプレーをするのかワクワクする。日韓ワールドカップの時のフランス対ウルグアイなんかめちゃくちゃ面白かった。レコバに圧倒されるフランス。アンリ退場。そして試合中ずっと緊迫した状況のまま0-0で試合終了。自分がまだ子供のころだったけどあの試合の強烈さはまだ鮮明に覚えている。

 

僕がサッカーを見てそうであったように野球でも海外メジャー選手の技術を見たい層は普通にいるんだと思っていた。だからWBCの東京ドームのガラガラ度はかなり衝撃的だった。日本人て競技としての野球はそんなに好きではなかったんだと・・・

 

日本における野球ってなんなんだろうか?

WBCに熱狂している日本の野球ファンも純粋なレベルで野球の技術に興味がある人は少ないみたいだ。技術に興味がないからと言って野球が好きではないと断定していいとは思わない。野球が好きな人は多い。

単純に技術にはあまり興味がないのだとしても野球が好き、であるのならばおそらく野球はスポーツではなく文化としての側面が強いのだろうと思う。

高校野球からプロ野球まで巨大なコミュニティーと見ることができる。伝統の一戦と謳われる巨人対阪神は東京対大阪の代理戦争のようなものかもしれない。広島のカープ女子などは完全にコミュニティーへの所属対象として野球がある。

あるいは高校野球もそうかもしれない。青春を構成する要素の全てが詰まっている。野球を通して得るチームの連帯感、他チームとの闘争、学校をあげての応援に甲子園の熱狂。それらいろいろなものが相混ざって野球はスポーツの枠を飛び越えて総体的に構成されている。

娯楽や遊技としての野球を超えている点で日本の野球は文化なのだろう。

 

しかしそれにしても野球は他のスポーツに比べたら経験者も圧倒的に多いし、もっとプレイへの興味を持っている層がいるんだと思っていた。

日本人て野球が(スポーツとしては)そんなに好きではなかったんだなとWBCを見ていて思ってしまった。