メロンダウト

メロンについて考えるよ

孤独は恥である

ハフィントンポストが特集企画「#だから一人が好き」をやっている。

projects.huffingtonpost.jp

インターネットでよく取り沙汰される非リアだとか孤独の美学にオタクもそうなのかもしれないが孤独感情について書いていきます。

 

「一人が好き」とわりと聞く。インターネットだけではなくて普通の会話においてもインドア派ですとか内向的とかそういう類の言葉はよく耳にする。

 

この言葉ははっきり言って僕は確信して嘘だと思って聞いている。「一人が好き」なのではなく「集団が嫌い」なんだろうなと。「一人が好き」という言葉は単元的ではなく逆説的なものである。社会全体で過剰なポジティブとか過剰なキャラクター化が存在していて、そういう設定にたいするカウンターなんじゃないかなと感じる。

内向的な性格を吐露した文章は100%と言っていいほど「みんなはポジティブで適応できてすごい」という社会の雰囲気と対比して自己の内向さを書く。対比なのに単元的に一人という言葉をポジティブに「好き」と形容するから肯定感があるが、はっきり言ってしまえば本質的には他人が嫌いだから一人が好きということなんだろうなといつも思う。

 僕自身がそうだからである。

 

僕も個人的に一人が好きな人間だ。家で一人で風来のシレンでマゼルンに草投げてるほうが好きだ。ビートルズでも聞きながら。休みに何も予定入れないで筋トレ行って帰ってきてテレビでも見てビール飲んで部族アース見ながらナスDバカスwwwwwとか一人で気持ち悪く笑ってる。

 

だから一人が好きというのはたいへんよくわかる。おそらくそこらへんの人よりもはるかに共感するほうである。

 

しかし僕自身なんで内向的なのかと自問すればはっきり言ってしまえば気の合わない他人が嫌いだからなんだろうなと、まことに幼稚なことを暴露してしまえば、そういうことなんだろうと自分で思い嫌になることがある。だから僕は僕の孤独を肯定するつもりはないし、一人が好きというのもあまり積極的に言うほうでもない。

 

孤独とは本来、他人が嫌いという絶対的なネガティブ精神に立つ以上は後ろめたいものだ。僕はずっとそう考えてきた。後ろめたくて暗くじめじめしてて他人に話したらその場が凍り付くような社会とは相いれない代物だと今でもそう思ってる。

だからカジュアルに、なんの後ろ暗さもなく、笑顔で「内向的でオタクです」とか言う人間を見るたびにただの「戦略」に見えてしまう。

 

一人でいるから寂しい人間として見られたり、内向的な感覚が理解できる人間と認知される。そういうキャラクターを自分に設定し相手に同情を買う。

僕はそんなものを孤独とは呼ばない。そんなものはコミュニケーション戦略であり、もっとはっきり言ってしまえば他人をコントロールするための嘘でしかない。

孤独は象徴的な例であるが僕はそういう偽善が嫌いでありポーズが嫌いだから孤独なのであって

 

孤独は後ろ暗い。気の合わない他人がすこぶる嫌いであり、時に怖くさえある。またひどく気分的なものであり恒常的なものではなく突然襲ってくる。突如反転して寂しくなったりする。めんどくさく幼稚であり社会性など本来ない。恥である。ポジティブなものなどない。

それをカジュアルに内向的なのもいいよねとかふわふわっとしたもので包摂しないでいただきたい。

 

ここまでほとんど意味のないメタ論であるが、孤独に関して一つだけはっきり言えることがある。

大切なことはどれだけ一人が好きであっても人に重力を与えるのは他人しかいないことだけは忘れてはいけない。

 

お題目のような言葉で占めるのであればどれだけ一人が好きであっても人は一人では生きられないと、めんどくないなあと呟きながらでもいいから、それだけは忘れてはいけない。おそらくは、絶対に。

きもくて金のないおじさんと慰めのプラグマティズム

はてブのトップエントリーにあがってきたきもくて金のないおじさんと多妻制に関する記事を読んでいました。

koshian.hateblo.jp

当該記事の中できもくて金のないおじさんでも慰みがあれば犯罪者予備軍にはならないということが書かれており、すこし、めずらしく、記事を読んで考えていました。

 

論理としては記事内で書かれているように秋葉原の連続刺傷事件も鬱屈を爆発させた人間の犯罪だから慰みで鬱屈を麻痺させ、犯罪に手を出させないようにしようというのはよくわかります。

しかしそれって誰にたいしての慰めなんだろう・・・その人物が望む人生の本懐(こっ恥ずかしい表現であるが)ではない慰みを与えることによって一時的に鬱屈を忘れ静かになるその静かさは社会が求める静かさでしかないように思う。

アニメやアイドルを批判する人の本質的な理由もここにありそうである。

人間的感情は代替物による慰めに寄ってはいけないとする人か、アニメでもAVでも見てマスターベートして静かにしてれば迷惑じゃないからいいよという人が2人いたとしたらはたしてどちらが人間にたいして「誠実」なのであろうか?

 

 

おそらく加藤氏はそんな慰みには手を出さずに永遠と自己について考え続け、携帯掲示板に綴りつづけた。あの事件を起こすまである意味現実と戦いつづけ結果として絶望してしまったのかもしれない。

そして僕はむしろ加藤氏のように現実から目を背けずに慰みに寄らず生き(結果あのような事件になってしまったが)るのはとても人間的で、自然な行いに見えます。

よく犯罪者の動機づけに関してアニメやマンガが槍玉にあがることがあるが、よほど猟奇的な人間以外は動機付けにならないのはネット界隈の皆が言う通りでしょう。逆にそれらが慰みになって犯罪を抑止することのほうが多いと推測できる。しかし犯罪を抑止するメリットに加えその感情まで抑止するデメリットに関してこそ考えるべき側面ではないだろうか?

もちろん趣味として消費していたりするのはまったく問題ない。

 

社会が静かになり一見平和に見えても慰みによって鬱屈もとい感情が殺されているならばその平穏はかりそめであってただただ既得者(自己実現済みで承認され幸福な個人)のための平和でしかないのではと疑うべきであると思う。

加藤氏のように社会にたいして怒り憎しみ暴動し人を刺すとまでいかなくても普通に怒ることすら=悪であるとする価値観こそがまさに閉塞感の根本にあるのではないだろうか?いつだったかバスの社内で誰かが怒っている動画がYoutubeにあげられ嘲笑のコメントであふれ返っていた。僕たちは人の怒りを笑うべきではない。

人のセックスを笑うな
 

 

そうして僕達はみな怒ることができないからアイドルのCDを何百枚も買うことで既得者に金を提供し同時にアイドルに慰められ平和も提供する。それがいかに馬鹿馬鹿しくてもみな許された慰めによってしか生きえないのだろうと。

 

そうして人間的感情を慰められ麻痺させられ静かに生きる。その象徴がきもくて金のないおじさんなんだろうと・・・

しかしその静けさは静謐ともいえずましてや幸福とも言えないと断言できる。

 

先進国で決定的に日本の幸福度が低いのはアニメしかりAVしかりこの慰めによる感情の欠落があるのではないかと考えることができる。同時に慰められることによって犯罪も少ない。

 

しかしそれは悪い社会でもなければ良い社会でもないのではと思うことがあるのだ。

一言で言えば日本では望まれざる自由は政治・社会・個人・家族・会社ありとあらゆるレベルにおいて許されない。

バスの中で怒ることも、何もない平日に有給を取るのも、世論と真逆の意見も、ありとあらゆる自由度のレベルが低いと感じる場面が多い。

端的に言えば日本には日常レベルでのリベラリズムなど存在していない。リベラルは卓越した集団の既得者の中でのみ存在する。またはネットにはびこるウワゴトに近い理想論でしかない。

 

この日常から自由へ向かうのに必要なのは慰めに依存しないためのリアリズムでありプラグマティズムである。

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ドウジョウ&シガレッツ

タイトルが思いつかなかったのでてきとうです。

 

ホタル族のニュースを見て思いだしたのは、

いつだったかモンスタークレーマーの暴言に関するニュースではてなブックマークのトップコメントに「意見を言う人というのはやめて正気を失った人と認識すべき」みたいなコメントがあったことだった。

 

今度、ホタル族からの受動喫煙被害について団体を立ち上げる嫌煙者がいるらしい。幼いころから気管支が弱くタバコの煙を吸うのは耐えられないみたいだ。

神経質ともいえるモンスタークレーマーにたいしては正気を失った人と罵るのに特別に体が弱い嫌煙者は支持する。この違いはいったい何なのだろうか。

いや違いはなんなのかといっても僕自身も体の弱い人には同情しうるし、クレーマーはうざったいと思うので感覚的な物言いで言えばそのダブルスタンダードはわからないわけではない。

 

しかし神経質なクレーまーも教育環境や家庭環境によりそういう人間に育てられたという意味では体の弱い人間と同相である。どちらも先天的に犠牲者であり違いはただその同情可能性の大きさに過ぎない。

暴走族を珍走団と呼ぶなどが典型的であるが、うるさく粗暴な人間はぶったぎっていいという思考がはびこっているのだなと2つのニュースを見て思った。

別に暴走族だって同情可能性がないわけではない。あるいはクレーマーにたいしてだって同情の余地はある。

肝心なことはその特殊な意見や行為にたいして社会が同情はするけど意見は聞かないとすることではないだろうか?

 

今の社会は「同情しない(できない)し意見も聞かない」か「同情するし意見も聞く」。の二極化している。

ここに「同情はするけど意見は聞かない」という立場も含めて考えるべきであると思う。人間が行うことであればいかなることでも人間である自らに縁がないとは言い切れない。

(縁がないとは言い切れないがその意見を実装するかは自分の現実と照らし合わせて主観的に判断していいというのが僕の立場)

 

 

ここまではニュースを見て思ったことであまり意味のない話であるがそれとは別に思ったのが核とタバコについてだった。

 

たぶんタバコがない社会が理想なのだろう。屋内屋外全面禁煙でJTは解体。喫煙所も灰皿も全て撤去してクリーンな社会を実現しようと、そういうことなのだろう。

これは本質的に核廃棄論者と同じ戯言だと僕は思う。

 

核がなぜなくならないのかと言えば核に関する知識をデリートするのは不可能だからなくならないというのが根本にある。世界中で核を廃絶できればそうしたいと先進国各国はみな思っているはずだけど核爆弾を実際に全て廃棄しても記憶だけは残る。

記憶は残りつづけ他国が開発している可能性は排除しきれない、から自国も抑止力として持とうとなる。

 

つまり技術や産業における知識は決定的に不可逆なものである、と西部進さんが言っていて「ああ、本当そうだな」と僕は感じた。産業や技術の発達はほとんど無手で賞賛されつづけてきたが知識の不可逆性においては技術者やノーベル賞受賞者を大罪人として認識する「視点」があったほうがいいのではないかと思う。

現在は偉人とされているアインシュタインだがアインシュタインがいなければ広島と長崎に1945年に核爆弾は落ちなかったかもしれない。あの戦争から学ぶことは技術自体が持つ決定的な不可逆性が最も重要な近代における課題なのだろう。

実務レベルで言えば開発者に倫理試験を課したほうがいい、となるのだろうがプログラマーや小さい工場など全てで行うことは国内に限っても不可能だし、ネットで海外から知識は無限に伝達されるので絶対に無理なのでしょうね。

 

これはおそらくAIなども今後この手の問題に絡んで議論される時がくると思う。

 

技術だけに限った話ではなく産業においても同じことが言えると思う。タバコももちろんそうであるが昨年話題になったキュレーションサイト騒動でもそうで

いまだにランサーズやクラウドサイトでは超低単価のリライトする人を募集しているし、サイバーエージェントが出資しているマシュマロなんかもDeNAと同じことをやっている。炎上してDeNAは撤退してもサイトアフィリエイとは儲かると周知してしまったので同じようなことをする企業が出てくるだけで、この例でも知識の不可逆性が言える。

 

タバコも全部なくなれば理想だけど、タバコを禁止にしても闇タバコを売るマーケットが新しくできるのは絶対に間違いない。産業としても確実に儲かるしタバコを吸いたいという消費者の欲求も核の記憶と同じように消え去りはしない。不可逆である。

根本的にはおそらく現在の覚せい剤のように吸ったことがある人間がほとんどいない、吸いたいという欲求(記憶)自体が存在しない社会がいいのでしょうね。つまりもう存在しないものとして完全に社会から隔絶すると。

 

 

しかしそんな風にしてまで廃棄するほどタバコって悪いものなのかね・・・覚せい剤は人間を壊す。だから存在自体を消すのは間違っていないように思う。

しかしタバコが人間を壊すというとそんなことはない。特別に体が弱い人間は壊しうる。その特別に弱い人間には同情するし現場レベルでの配慮はする、しかし意見は聞かないと考えてもいいんじゃないだろうか。そういった無限に配慮しなければいけない社会、他者の迷惑を完全に排除しようとするとおそらくまた別の問題が出てくる。(機会があったら書こうと思う)

 

僕は今回のホタル族訴訟のニュースに関しては同情はするが意見は聞かないでいいと思ったし

当該喫煙者と直接話さないで(記事にはホタル族と直接交渉はしていないと書いてあった)訴訟する人間にはその特別に弱い体以上に弱いことを条件にしたあざとさや欺瞞性を感じずにはいられず、本質的にモンスタークレーマーと同相であると感じざるを得なかったからだ。

 

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「ホタル族」被害者の会結成 近隣ベランダからの受動喫煙で人権救済申し立てへ 喫煙者さらに厳しく (産経新聞) - Yahoo!ニュース