メロンダウト

メロンについて考えるよ

valu騒動における雑感、私刑における謝罪リテラシーについて

valuの件についてすこし書いていきます。

この問題が起きてからvaluは株式として扱われていますが、もともとを考えればvaluのサービスは寄付を集めるものでした。

投機対象として利用されている点を見れば事実上株式だと言えますが建前上は寄付をつのりそこから恣意的に売り手が優待をつけるのかどうか判断するといった形式をとっていました。

その前提をもってvaluは株式市場のような厳密なルールが適用されずに運営できるといったものでした。

 

寄付の定義として寄付をした人間が見返りを求めないという点がありますが今回のvalu騒動の議論からその前提が欠落しているように一連の報道を見ていると感じます。

今回、valuというサービスを利用してヒカルに寄付をした人がたくさんいたわけですが寄付という定義上、寄付をした人間は利益を求めないかわりに損失補填も求めてはいけないはずなんですよね。

valuを発行したヒカルに売り抜けられて利益が出ないとなって損失補填が認められるのだとすればそれはそれはもともとが寄付ではなくリスク0の投資案件でしかない。

寄付である以上は寄付した対象からの利益を求めないのと同じレベルで損失にも関与しないとならなかえれば矛盾してしまいます。

もちろんこれは定義上の話なので寄付を集めた人間が何をしてもいいのかといえばそんなことはありえない。道義上の責任は常に発生しますが寄付した人の立場を明確にしておかなければ性善説にのっかって人の善意にたちいり、リスク0で儲けようとする人が出てくるから明確にしておかなければいけないことは明らかです。

 

たしか今回の件が燃えた最初の記事がはてなブログでヒカルのvaluを購入して損したといった記事からでした。あの記事にも誰か寄付である以上、損失補填する権利はないと言及すべきではなかったかと今更ながら思います。

 

 

 

 

それはそうと今回、ヒカル氏の実家や周辺に悪質な嫌がらせが行われていたみたいですけど謝罪を求める側のリテラシーというんでしょうか。被害者のリテラシーと言い換えてもいいかもしれませんがいつも通りすこしメタな話をしていきたいと思います。

 

一般に罪を犯したら刑罰が科されますけどこの刑罰も基本的には応報によって成立していて、悪いことをしたらその悪さの分だけの刑罰を科されるといった諸々の解釈はあるようですが一応の原理が存在するようです。詳しくないのでwikiの入り口だけ張っておきます。

応報刑論 - Wikipedia

 

いっぽうでネット上でバッシングする私刑についてですがこれはもう構造的に防ぎようがないのでリテラシーによって制御するしかないと思うのでよね。

今回、ヒカル氏が行ったvaluでの詐欺的行為に比してヤクザの事務所に糞を送らせるとかタリバンに入会申請したりありとあらゆる悪質な手口で行われた一連の私刑は刑法学における応報からはずれ重すぎるものです。

 

だからといってネットそのものを遮断するわけにもいかず、情報拡散によって私刑が何万人単位で行われることは防ぎようがない。

そこで大事になるのが謝罪を求める時のリテラシーだと思うのですよね。端的に言えばどこまでの謝罪や反動、誠意を見せれば許せるのか謝罪を求める側が決定しておく必要がある。

特にこういう自分とまったく関係ないネット上の炎上などでは絶対に許さない人間と信者と呼ばれ養護する人間の二極化していて謝罪リテラシーが見られることはほとんどない。

 

犯罪者は全員死刑にしていいみたいな極論をたまに聞いたりしますがそこまで極端なものではなくても

一般に謝罪する人間、または犯罪者にたいしてどれだけの謝罪をすれば許すのか許せないのかってほとんど議論されていない。自分は犯罪者にもならず悪いこともしないといった自信があるからほとんどの人は犯罪者に同情しないわけですがそれでも過失のリスクはあるわけですよ。

間違って自動車事故で大けがを負ってしまった時にどれだけの謝罪量をもって許すことができるのかは考えておくべきで

 

それが巡り巡ってネット上の私刑をなくす素地となると思うんですよね。

自分はヒカルの件に関して言えば社会的制裁は受けたし司法の判断をあおがずとも十分な応報は受けたのでもう何も言うことはありません。

 

ヒカルの動画はピピピピピさんのブログで炎上前から知っていて話し方がすごいうまいなあと感心しながら見ていました。

もったいないなあと思います。この動画とか営業を仕事にしている人とかすごいタメになりますよ。

www.youtube.com

 

暴力が先か、人間関係が先か、大人が先か、子供が先か、悪が先か、偽が先か

原理の前に人間関係があるのか、人間関係の上に原理があるのか

fujiponさんの記事を読んでなにかそんなことを考えていました。

日野皓正さんの「ビンタ事件」についての雑感(あるいは、人間は善悪ではなく、好き嫌いで「判断」するということについて) - いつか電池がきれるまで

体罰が議論となるポイントを整理すると

当事者同士の文脈があれば暴力も正当化されるのか否かであります。

原理を重んじる人々はいかなる状況においても暴力は許されないといった原理を支持しますが、関係性に重きを置く人は愛のある暴力は暴力ではないといった主張をします。

 

しかし原理を重んじる方も本当の原理主義者ではないはずです。例えばボクシングの試合を暴力だと非難する人はほとんどいません。

また路上に子供が飛び出してあやうく車にひかれそうになったこちらの動画

www.youtube.com

 

これを見て子供にビンタした親を責める人もあまり多くはないでしょう。

 

多くの方は暴力は関係性により許されることもあることは承知しているにもかかわらず、「関係性が不明な」他人同士がおこなった暴力を原理によって批判します。

争点となるのはどのような条件下での暴力は許されるのかどうか。それだけです。

 

例えば教育現場における暴力は絶対に許さない、親が子供を叩くことも許さない、上司が部下にビンタするのもダメだ、彼氏が不倫して彼女がビンタしたら彼氏は傷害罪で告訴すべきだみたいないろいろなシチュエーションがあります。

日野さんの件を見て思い出したので極端な例をあげますが

生活が困窮して息子が母親の首をしめて殺してしまった事件がありました。

www.dailyshincho.jp

さまざまな報道を僕も見ましたが介護に追われ仕事も十分にできずそれゆえ生活が苦しく助けてくれる親族もいなかった息子に同情の声を寄せる人が大多数だったように記憶しています。当時はただただ悲しい事件だと思うのみでした。

しかし今になって振り返ると、当事者同士の文脈や物語があれば原理的に許されない殺人も許される文脈はあるということができます。殺人が許されうるなどと書くと僕自身も自分が書いている文章に生理的嫌悪感を抱きますがしかしそれを象徴したひとつのモデルケースととらえ返すことはたしかに「可能」です。

人間関係は(殺人は絶対悪といった)原理を超えることがあるとも言ってもいいかもしれません。人間関係のほうに善悪の判断は依存していて行為そのものは付随してくるものでしかないと考えることができますし、当時多くの人達があの事件を見てそう判断していました。

 

ここで言いたいことは上記のような人間関係によって善悪判断が決定されるケースでは同情可能性によって行為そのものの絶対的な価値判断はできないということです。

 

日野さんの件に話を戻しますとつまり人間関係によってビンタすることが許されるのか許されないのかが争点になりうるべきで暴力そのものが許されるのか許されないのかといった議論はすでに終わっている議論だと認識すべきだということです。

 

ニュースで暴力と出ると脊髄反射的に暴力をふるう人間は悪い奴だといった認識がはしりますがしかし本当は善悪の判断そのものは人間関係が先にあって原理の話をしてもほとんど意味はないと思うんですよね。

上記の親子の例で言えば殺人という行為をした息子は行為だけを見れば悪だと言えますがそう単純化していい話ではありません。彼は母親を殺したあと自らも自殺をはかりましたが未遂に終わり裁判にかけられ一連の事情を裁判官に話しました。(その後、再度自殺をはかり遺書を残して亡くなったというニュースも見ました。ご冥福をお祈りいたします。)

自らだけ自殺して生きることを終えればそれでもよかったはずですが自分が死んだら母も生きられない、餓死して孤独氏するよりもと殺人するわけです。その行為は原理的には悪ですが偽の悪、偽悪であってそれが彼の物語で彼が判断した大人の判断だということなのでしょう。

 

日野さんもお客さんがいる中で子供にビンタをしたら自分に批判が飛んでくるだろうこともわかっていたんじゃないかと思うのですよね。それでも叩いたのは他の子供たちとのバランスであったり子供への教育だったり最も大きいのは叩いてもわかってくれるドラムをたたき続けた子供との信頼関係だったと思うのです。

インタビューされた記事でも親と息子の関係だということも言っています。

子供を叩いたらダメ、原理的に悪なんて判断は簡単です。しかし子供との信頼関係を築けて自らが批判されようとも正しい判断で子供を叩く判断ができる人って僕はすごい人間だと思いますけどね。

暴力を権威主義と批判する人がいますけど日野さんは少なからず今回の件で権威をむしろひきずりおろされたわけです。偽悪になり批判されようとも子供のためと判断できる大人。そういう大人は事なかれ主義のただ恐れおののいている暴力をしない大人よりもはるかにまともな大人だと少なくとも僕は思います。

 

日野さんを批判する人は善悪を判断する前にその悪は偽悪ではないのか

そして批判されようとも偽悪をひきうけつぶれ役になる大人をそのままつぶしていいのか。そんなことを考えたほうがいいのでは、と・・・

00年代のオタク批判は間違っていなかった

真木よう子さんがコミケに出展しようとしたらコミケの趣旨にそぐわない品物だと炎上し、謝罪させられ、出展も取りやめになるといった一連の流れを見ていて00年代にオタクを批判していた人達は間違っていなかったのではないかという感覚を覚えた。

 

オタクについては触るな危険であるし、いまやオタク批判は時代錯誤でしかない。オタクを批判すると一発で老害認定され袋叩きにあう。しかしオタクの精神性がなぜ当時、00年代に批判されていたのかいまになって振り返る必要があるのではないかと思った。

批判するといっても僕自身もライトなオタクといっていいほどにはサブカルが好きである。だからオタクを趣味として批判するつもりはまったくない。萌絵がロリコンを醸成するなんて批判をするつもりはない。

問題としたいのは真木ようこさんをコミケから退出させたその排外性についてである。

 

00年代に批判されていたオタクはその趣味の如何ではなくオタクの排外性にあった。オタクは根暗で陰キャで社会性がなく自分の世界に閉じこもるから批判の対象とされた。自分の世界に閉じこもることの何が悪いんだ、僕達には僕達のコミュニティーがあってといった反論が必ずくるこの手の話題であるが

 

自らの世界に閉じこもり外部を遮断したコミュニティーは悪であるとはっきり言うべきであると最近思うようになった。

というのも保育園建設問題、独身税、分煙、騒音、パワハラ、告ハラ、体罰などなど最近になって噴出してきたこの手の分断問題はすべてがオタクが市民権を得て排外するようになったことに通じる。

 

オタクは外部とは別の世界を大事にしている。しかし別の世界に生きれば生きるほど外部の雑音を受け入れずらくなる。これは社会心理学で明らかになっていて人間は知り合いであればある程度の雑音、迷惑行為でも受け入れることができるようになるが心理的距離が遠いほど些細な迷惑行為も許せなくなる。

これを加味して考えるとオタクのように自分の世界にだけ生きている人間は自分の世界に生きるその強さと比例して排外性が強くなる。意識して回避して沈黙することもできるがそれにはリテラシーが必要で一般的な話ではない。これが00年代にみながオタクの内向性を批判した原因のひとつである。そしてその批判は正当なものだったのではと振り返り思う。

さらにオタクが市民権を得て大衆化したことにより自分の世界に生きてもかまわないというランドマークが流布されることになった。自分の世界を大事にする人が増えたことにより一般社会でも分断が強くなった。

そしてこの論理をオタク以外のあらゆる場面でも適用する人間が増えた。 

 

だから保育園の子供の声が雑音に聞こえるようになり、独身をナチュラルに差別し、きもくて金のないおじさんなどという蔑称を作り出し、喫煙者を徹底的に排外し、教師を他人と識別して体罰がより許せなくなり、ありとあらゆる他人への干渉はハラスメントと呼ばれるようになった。

 

つまりは一億総オタク社会、である。

だからいまになって僕は00年代のオタク批判は正しかったのだと思うようになった。

主語がでかい、オタクにもいろいろな人がいるといった反論がきそうであるがここで問題にしているのはまさに主語であり、オタクという主語を大きくして一般化したことこそが問題なのである。終