メロンダウト

メロンについて考えるよ

社会に適応する必要などない。現実に追従するだけである。

山で遭難した人の記事が大炎上してたけどなんだかなあと、はてなに自分は適応できないんだなとしみじみ感じた。はてなネトウヨのような特殊なコミュニティーであれば自分の社会認識から切り離せばいい。しかしはてなはそこまで特殊性の高いコミュニティーではなく教養の高い人もたくさん散見する。

だからはてなに適応できないと社会に適応できないはニアリーイコールであって、はてなに適応できないことは

ひいては社会に適応できないとも言えてしまうのだけど、僕という身体は不思議なことに現実世界にはそこそこ適応している。この差異はいったいなんなんだろうかと最近、考えていた。

 

環境として考えられるものはIT革命以降、情報化により社会を認識する方法が変わってきて現実と社会との間にとてつもなくでかい壁のようなものが出現したような気がしている。

すこし入り組んだ話なので社会と現実の定義を確認すると

ここでの社会はいわゆるネット世論に代表されるような共通認識、常識であり、現実は身体で感じる空気のほうである。

神経質な意見ばかりが跋扈するネットから情報を仕入れるようになって自分の社会は確実に変わった。自分が大学生の時に抱いていた日本社会のイメージは色々な人がいる、つまり社会という概念にはなんらの具体性もなくただただカオスであることを知る、認識することだけが肝要なのだと思っていた。

しかしネットがあらゆる意見を吸い上げるようになってそれを実際に見ていると社会が輪郭を持ち肉付きはじめるようになりあまつさえ表情を持つようにまでなった。「日本社会はダメ」といった意見はこの表情にたいしての意見である。カオス観でとらえる社会はそもそもがダメや良いと判断できる性質のものではない。

つまりネットによって社会は実在するような感覚が与えられTPOが強烈に精神を支配するようになる。

 

例えばタバコである。僕はタバコを吸う。しかし僕は僕の身体を移動したさきに会った「現実の」人間からタバコやめてくださいなどと言われたことは一度もない。タバコを吸わない人がいる場所では極力吸わないようにしているから言われないのかもしれないがいわゆる嫌煙家の人に会ったことがない。しかしネットを見るとどうも嫌煙家はかなりの数いるように見える。

この問題は嫌煙者バイアスとノイジーマイノリティーで説明できる。タバコを吸わない人がなぜ嫌煙家になるかと言えば、タバコを吸わないと喫煙所に入らないから喫煙所で吸っているマナーの良い喫煙者を見ることがない。タバコを吸う人を見るのが路上や喫煙禁止の場所だけとなり喫煙者=マナーの悪い人といった認知錯誤が生まれる。

さらにこれはタバコだけに限らないがネット上ではノイジーマイノリティーが多大な権力を持っている。前提条件としてネットに書き込む人はネットに書き込むだけの熱量を持った人間しか書き込まない。たとえば100万人が不倫を批判などといってもたかだか100万人である。残りの9000万人はどうでもいいと考えているし残りの900万人は不倫している。(人口1億として)

悪しきように見ればつまりすべての意見は神経質な意見の集合体であって中道がネットには存在しない。会社や学校で口うるさい人間だけを集めた部署やクラスみたいなもので

それを社会と認識するから現実との間に甚大な誤謬が生まれることになる。

 

事実、タバコが嫌いだとわざわざ表明する人間は現実に会ったことがない。もう何年も喫煙している自分が、である。喫煙者は非喫煙者の前でわざわざ吸ったりしないし非喫煙者もタバコ死ねなんてことは言わない。それが現実である。その現実がたとえ建前であったとしても建前こそが現実をつくり現実を追従して社会(コミュニティーのほう)ができていくので建前こそが社会を構成する本質である。

 

「社会」なんて単位は思考回路に組み込むべきではなく、現実を追従することだけが正しい社会観を得る方法でしょう。

部活動の論理的批判は哲学的に見れば明確に間違っている

部活動の全国大会を廃止すべきといった記事を見たのだが近年、世論で統一して見られるのがマイナスをとにかくゼロにしようという動き。

旧態的な発想は許さず既得権も許さず保護論、保全論で物事を語る。部活動のような過酷な活動を語る時に精神にかかるいっさいの重力を悪とし論理だけで物事を語るがもちろん人間には精神があり、根性もある。そしてえてして論理が根性を掬うことはない。

 

マッチョニズムは常に強者の理論として扱われ生存者バイアス(生き残ったものだけで物事を判断すると誤った判断をくだしてしまう)といわれ一蹴される

しかし敗者の論理が必ずしも正しくないのと同じように強者の論理が必ずしも間違っているとは言えない。

弱者は往々にして論理だけで物事を語る。部活動に所属していなかった文科系の人の中にはまれに、部活動の過酷さにはいっさいの論理性も正当性もないという。

部活動はたしかに社会で役立つスキルを得ることはない。実務的な能力で言えば彼女、彼氏でもつくって遊んでいたほうがましである。または勉強をして知識を得るほうが将来のためになる。

 

しかし強制された運動、強制された人間関係、強制された仕事によって得るものはたしかにある。強制されることで限界を超え本人が持つパフォーマンスを上回る結果を出すことができるのも事実である。

いつ終わるともわからない往復ダッシュや終わるわけがないタスクなど課された課題を与えられることは人間に重力を与える。そして重力によって潰れてしまう人がいるので重力そのものをなくそうといったものが今回の「部活動の全国大会廃止」の「論理」であろう。

しかしあえて否定すれば重力があるからそれをなくしてしまえばいい、というのは短絡に過ぎる。無意味と思えるほどのハードトレーニングによって「根性」を獲得し、またそれを自尊心として形成する人がいる点においてハードトレーニングがまったく無意味なものと言うことはできない。その根性、自尊心は明確に将来の役にたつ。勝者は驕ってはいけないが誇っていいし誇るべき、である。

仕事のように生産効率といった点で見ればハードな労働もといブラック労働はまったくの無意味であるが、成長過程におけるブラック部活がまったく無意味なものだとはどうしても思えないのだ。哲学的な話であるが自我を形成する過程において何も判断できず、何も知らない子供にたいして大人ができることは選択の余地をあたえながらもなにかを「課す」ことしかない。

生まれた時に名前を課し、成長して教育を課し、部活動を課し、そして中高大と見聞をひろめ大人になって自由に選択する。子供を大人と同様に扱い自由が至上であると言うことは課すことをやめ重力を与えないと言っているのと同義である。

課すことが嫌な大人は自由という蓑に逃げ込み論理でしか話すことをせず、子供に重力を与えず、中空にうかべかわいいと愛でるだけの無責任野郎だと言っていい。

結論を言えばインターネットは人間のソフトウェアのみを表出し論理で物事を語る人が多数いる。そして論理だけで言えば過酷な部活動が正しくないことは事実であり、よって世論としてはブラック部活は間違っていると出てくる。

しかしいっぽうで人間にはハードウェアがあり身体的な強さと連動した根性を形成することは成長過程において大切なものだといえる。

そして教育においては子供にたいしてなにかを課すことが原罪である。

 

それを罪だと断罪することは簡単である。そしてその非難に論理的正当性もついてくる。しかしその批判は哲学的に見れば明確に間違っている。終

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52598

男性のかっこよさは死んだ~心にまでスーツを着る男性社会~

最近、うまるちゃんを見ました。

ヤンジャンは毎週読んでるんですけどうまるちゃんは見ていなくてアニメでざっと見たのですが癒されます。

気になったのがうまるちゃんのお兄さん(土間タイヘイ)の無趣味さについてだった。うまるちゃんは多趣味でゲームからネットウォッチ、アニメに漫画などあらゆる趣味を持っている一方で兄であるタイヘイは毎日仕事して料理してうまるちゃんと過ごすだけの生活である。

個人的な趣味はいっさいない。

 

少女を愛でるアニメで何を無粋なことを言うのかと言われるかもしれないが最近のアニメに関して思ったことが男性の漂白化についてだった。

エヴァもそうだった。アスカ、マリ、ミサトは自由奔放なキャラクターを演じているしレイはその精神の弱さ?を許されているような描写がある。たいしてシンジは一見するとどこにでもいる悩める少年として描かれている。土間タイヘイとシンジは象徴的であるが個性を漂白化され、読者の共感のためだけに存在する男性キャラクターはあらゆるところに見られる。僕は友達が少ない化物語などもそうである。

 

この男性性の漂白化は他にも起きていて若手俳優で言えば福士蒼汰松坂桃李山崎賢人などみなミディアムの黒髪ばかりである。

透明で清潔感があり無謬で性格的な粗がない男性が好まれる。

 

 かっこいい男性なんて価値観はもはや死んでいる。かっこいいに変わる言葉として最近、使われるようになった言葉にイケメンがある。イケメンとかっこいいは使われるニュアンスがすこし違う。

かっこいいは口数が少なく不言実行し揺れない「男」を指すのにたいし

イケメンとして女性に望まれている男性像は外形的には「不備がない人」で性格的には「コミュニケーションに齟齬がなくいわゆる良い人」である。

男性のかっこいいを象徴するような孤高さ、無頼さ、無口さといったかっこよさは男性からも女性からも支持されていないのでしょう。

 

アニメや芸能だけの話ではなく一般社会でも漂白化された男性が望まれることがある。男性は茶髪にするだけでチャラいと言われたりするしそもそも社会人で男性が茶髪にできる企業はかなり限られていたりする。法的にはOKでも不文律と人間関係が茶髪を許さない。

 

ここまで男性に限って書いてきたけど女性のかわいさのようなものも同じ性質を持っていると思う。

オアシスのノエル・ギャラがーがMステに出演したさいにAKBのことを全員同じ顔していると言っていたことを思い出す。自分も同じ顔に見える。正確には顔が、ではなく表情が、である。かわいさもまた限定的なものなのだろう。

またサカキバラセイトが存在の耐えられない透明さといった表現で抑圧された自らの心情を表現していたことも思い出す。個性や自由、かわいさ、かっこよさは不文律の枠内においてだけ許されていてその枠自体が狭くなっていて、すでに人間の耐えられる透明さの限界を超えているのではと、彼の論理でいえばつまりそういうことなのかもしれない。

 

だから何だという話ですけど・・・

続くかも

漂白される社会

漂白される社会