最近、うまるちゃんを見ました。
ヤンジャンは毎週読んでるんですけどうまるちゃんは見ていなくてアニメでざっと見たのですが癒されます。
気になったのがうまるちゃんのお兄さん(土間タイヘイ)の無趣味さについてだった。うまるちゃんは多趣味でゲームからネットウォッチ、アニメに漫画などあらゆる趣味を持っている一方で兄であるタイヘイは毎日仕事して料理してうまるちゃんと過ごすだけの生活である。
個人的な趣味はいっさいない。
少女を愛でるアニメで何を無粋なことを言うのかと言われるかもしれないが最近のアニメに関して思ったことが男性の漂白化についてだった。
エヴァもそうだった。アスカ、マリ、ミサトは自由奔放なキャラクターを演じているしレイはその精神の弱さ?を許されているような描写がある。たいしてシンジは一見するとどこにでもいる悩める少年として描かれている。土間タイヘイとシンジは象徴的であるが個性を漂白化され、読者の共感のためだけに存在する男性キャラクターはあらゆるところに見られる。僕は友達が少ないや化物語などもそうである。
この男性性の漂白化は他にも起きていて若手俳優で言えば福士蒼汰、松坂桃李、山崎賢人などみなミディアムの黒髪ばかりである。
透明で清潔感があり無謬で性格的な粗がない男性が好まれる。
かっこいい男性なんて価値観はもはや死んでいる。かっこいいに変わる言葉として最近、使われるようになった言葉にイケメンがある。イケメンとかっこいいは使われるニュアンスがすこし違う。
かっこいいは口数が少なく不言実行し揺れない「男」を指すのにたいし
イケメンとして女性に望まれている男性像は外形的には「不備がない人」で性格的には「コミュニケーションに齟齬がなくいわゆる良い人」である。
男性のかっこいいを象徴するような孤高さ、無頼さ、無口さといったかっこよさは男性からも女性からも支持されていないのでしょう。
アニメや芸能だけの話ではなく一般社会でも漂白化された男性が望まれることがある。男性は茶髪にするだけでチャラいと言われたりするしそもそも社会人で男性が茶髪にできる企業はかなり限られていたりする。法的にはOKでも不文律と人間関係が茶髪を許さない。
ここまで男性に限って書いてきたけど女性のかわいさのようなものも同じ性質を持っていると思う。
オアシスのノエル・ギャラがーがMステに出演したさいにAKBのことを全員同じ顔していると言っていたことを思い出す。自分も同じ顔に見える。正確には顔が、ではなく表情が、である。かわいさもまた限定的なものなのだろう。
またサカキバラセイトが存在の耐えられない透明さといった表現で抑圧された自らの心情を表現していたことも思い出す。個性や自由、かわいさ、かっこよさは不文律の枠内においてだけ許されていてその枠自体が狭くなっていて、すでに人間の耐えられる透明さの限界を超えているのではと、彼の論理でいえばつまりそういうことなのかもしれない。
だから何だという話ですけど・・・
続くかも