メロンダウト

メロンについて考えるよ

ネットとかブロガーについて

新年だしっていうかいつもそもそも論しか書いてないので時期がどうとかいうわけでもないんだけど、ブログ論とかの記事を読んだので

僕が感じるインターネットとは何かについてちょっとまとめて書いてみようと思った。

 

インターネットの意義とかなんかいろいろ言われることがあるけど結論としてはインターネットを使わなければ幸福になれないしインターネットを使うと幸福になれないみたいなそんな矛盾に着地すると思った。

p-shirokuma.hatenadiary.com

シロクマさんがブロガーの継続性は尊いみたいな話をしていたけどサンクコストとかなんかそのへんの理論で説明できそう。ブログを書き続けることに意味とか意義なんてないんだと思うよ。

無理矢理意味を与えることによって失った時間を忘却している気がする。

それはブロガーだけじゃなくてインターネッター?まで拡大する話だと思う。アンチ・インターネットを書いている人ってけっこういてその中でも以下のサイトがすごいよく書けてると思った。4年前の記事。

 

swearybear.com

 

昔、インターネットはクソだと思った時に検索で見つけた英語のブログなんだけどすごいよく書けてると思うのでちょっと翻訳して紹介してみる。

原文

No longer can I go about my day, happy in the delusion that humans more or less agree about some reasonably simple concepts. That modern medicine is not inherently evil. That vaccination is not a secret plot to cull the population by knocking off innocent babbies. That the condensed exhaust trails of aircraft are not vapourised mind-controlling chemicals. That the Rothchilds are just a hardworking family trying to make ends meet in an unforgiving world.

But no. The internet brings a cavalcade of half-baked conspiracist fuckwits to my attention every single day. So fuck you, internet.

 

人々はおおかれすくなかれ合理的で単純な概念に賛同しているという妄想の中にいればそれで満足なんだよ。だから僕が僕として生きることがもはやできなくなっている。

このような近代のインターネットによって得る妄想はしかし本質的には悪ではないし、無知な子供に教育していって適応するような人々を選び抜いていけば僕みたいにインターネットにたいする悩みもなくなることは自明だ。

このインターネットの世界で凝縮され疲弊しきったものの跡にできるものは浄化でもなければ洗脳するような薬でもない。

こんな非寛容で単純化された世界ではたとえばロスチャイルドのような富裕層だけが昔ながらのよく働く家族として生き残っていくことになる。

しかし待てよ。インターネットは僕に毎日のように腐った生焼けの陰謀まみれのクソ情報を与え僕の退屈を埋めてくれるじゃないか。そう、だからインターネットはクソ食らえなのだ。

 

 

 

 

直訳すると文意がつたわりにくいかもしれませんがインターネットは合理という妄想を生んでその妄想を楽しんでいればもはや現実を生きる意義がなくなるじゃないか、という話ですね。

 

なんかこれはブロガーとかあるいは5ちゃんねらーとかその他インターネット全体にも通じることに見える。インターネットで合理的に考えを収斂していって精神的に理想の人間みたいなものになった

という妄想の中で生きてればそれで精神的には完全体になれる、からやばいというように読める。

具体的に言えばインターネットがある世界ではセルは17号と18号を探す旅に出なくてもよくなった。ドクターゲロのコンピュータからデータをひっぱってきたりあるいはネットに接続して17号18号をインストールすればいい、しかしそれでいいのかっていう問答が生まれる。

 

ブロガーなんかもそうでこうしてなんかブログを書いて考えを洗練させていけばいいとかあるいは通常のキャリアじゃなくてもブログでお金を稼いだり承認されたりすればいい、って・・・・・・それでいいのかっていう矛盾にインターネットって結局は着地するんですよね。

 

それでいいならそれでいいのですがしかし多くの人はそんなもんどこかクソだってわかってるとおもうんですよね。ブログ自体が原理的にですよ。原理的にクソだとはっきり言うべきなんじゃないかとシロクマさんの記事を見て切々と感じた。

日記とかそういうレベルならいいですが金を稼いだり承認を求めたりとネットに自己を投影させて活動することは17号と18号を探す物語の喪失という点から見て虚無に陥る可能性が高い。

 

 

 

ブログとは別にはてなブックマーカーとかツイッターでコメントしてる人とかも本質的にはブロガーと同じことだと思う。ブログのようにいちおう論理を構築して文章を書くのとも違って反射だけでコメントできるのでブロガーよりもあるいは無為だと言えるかもしれない。

まぁつまり腐った生焼けの陰謀まみれのクソ情報に時間を使っているのはインターネットそのものかもしれないしかもしれなくないかもしれない。

 

というか途中でめんどくさくなったのでこのクソ文章もまったくまとまりがないまま終わります、です。はい。いつかこのfuckwitsもある程度まとめて書いていこうと思います。

パチンカスという蔑称を使い差別する人について

id:oktnzmからブコメIDコールきたのでブログで反論します。

生活保護を受けることを決めた時点で、家族とは音信不通にした - 生活保護から抜け出したい

経歴見たら自己破産したパチンカスじゃねーかw 生存権は認めるけど早くくたばって欲しいわ。あとちゃんと収入報告してんのかね?/本当は後ろめたいから"はず"と言ってしまう。

2018/01/09 12:24

b.hatena.ne.jp

 

生活保護を受けることを決めた時点で、家族とは音信不通にした - 生活保護から抜け出したい

ブコメ、自己破産したパチンカスの何が悪いの?

2018/01/09 15:14

b.hatena.ne.jp

 

はてなブックマーク - 生活保護を受けることを決めた時点で、家族とは音信不通にした - 生活保護から抜け出したい

id:plagmaticjam そら自分が遊ぶ金のために借金踏み倒した人間なんて債権者にとってみれば悪人以外の何物でもないでしょ。クズに同情するのは勝手だけど周りで迷惑被る人間のことも少しは想像してみてくれな。

2018/01/09 16:43

b.hatena.ne.jp

 

 

まずパチンカスは明らかな蔑称です。

パチンコを打っている人間のことをクズだなんだいう人間がけっこういますがパチンコを打って負けて借金する人は依存症と呼ぶべきであってカスだなんだいうのは誤認でしょう。パチンコがギャンブル依存症の点で悪と認識するのであればパチンコ産業そのものに対しての批判に終始すべきであり、パチンコに絡めとられた人間のことを悪だと判断するのは個人と産業の区別がついていない。

パチンコは悪となるがパチンコ依存症は悪ではない。これがまず基本にある。

依存症になって生活上迷惑がかかることになると周りの人達も迷惑する、というのであればうつ病やその他精神疾患全般も迷惑。

また、パチンコ依存症でできた借金は債権を持つ方にとって迷惑というのであればうつ病で休職した人の同僚も迷惑だと言える。病気は外部から見れば迷惑なのは当たり前であってそれでも当人の責任や意志でどうにもできないから病気なんですよ。

 

パチンコ依存症になるのもブラック企業に就職してうつ病になるのもその時々の運や人間関係など因果が絡まってそうなっているのであって単一的にこれは悪、これは病気、これは同情する、なんていうのは果てしなく勝手な認識と言える。

つまり当事者を救う気も調べる気も考える気もないなら黙ってろってことだよ。それは当事者の周りの人もそう。もちろんネットの反応でもそう。

 

パチンコやタバコなんかもそうですが差別していいというコンセンサスがあるものにたいしては簡単に差別する人がいる。が実情を知らないでレッテルを貼ることこそがパチンコ依存症患者をまたパチンコ屋に駆り立てることになる。

 

そもそもパチンコを打つことの何が悪いのか論理だてて書いている人は僕が知る限りいない。産業の面で悪だという意見は散見するが打っている人間の何が悪いのか説明している意見は見たことがない。いたとしても依存症を考慮していないで迷惑だとするような認識の浅い意見ばかり。またはパチンカスというレッテルを貼っているだけ。

パチンコを打つことは依存症になる可能性がある点で危険だが悪ではない。機械の前にすわりただ黙々と一人で遊んでいるだけな点でアニメ見てたり小説読んでたりすることと実存的な違いはない。のになぜかパチンコはカスだクズだ言われる。

最悪なのになってくると文化資本が低い、とか言っている人もいたりする。

ギャンブルは文化資本が低い、というのであればファンドや保険会社もビットコイン界隈の人達も文化資本は低い。

 

やっていることの大差はないのにただ貧乏人が集まっているだけで文化資本が低いと認識するのは差別のなかでも最悪の貧乏人差別というやつだろう。

 

そうして社会的意識としてパチンコを恥化することによってパチンコ依存症当事者はまた逃避先として、代替行為としてパチンコを打ちにいくことになる。依存症は逃避だ。このケースでは恥からの逃避という構造が見える。

パチンカスとかいう差別発言がパチンコ依存症を生むその構造自体にもっと自覚的になるべき。自覚する気もないならせめて黙ってろってことだよ。

 

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)

 

 

生活保護を受けると決めた時点で、家族とは音信不通にした - 生活保護から抜け出したい

自主性とフリー~いかに人は概念的に自由になるか~

 

あけましておめでとうございます

今年もこの泡沫ブログを忽然と書いていきます。

 

フリーとはなんだろうか。自由とはなんだろうか。

リベラルのいう自由はもう食傷気味なのでフリーに立ち戻れば自由が見えてくるのではないかと思った。

 

というのも正月、電車に乗っていたのですが、乗っていると床に座って菓子パンを食べている高校生を見かけました。

2人組の男でいかにもな風貌でスマホをいじりながら菓子パンを食べている学生が2人。通常だと「なんでこの人達は人の目も気にせず電車の地べたに座りパンを食べているのか、迷惑だと思わないのか」と考えそうですけど

 

その時に自分が思ったことは電車内に座り込んでパンを食べている男性は「何が悪いのか」ということだった。

なんで電車の床に座ってはいけないのだろうか。考えてみても理由が思いつかない。せいぜい場所を取るぐらいであるがすいている電車だったのでその批判は妥当なものとは言えないだろう。パンにしたって菓子パンだから臭いもないし「悪いこと」ではない。

・・・よく考えると何も悪いことなどないのですよね。

 

彼らは何も考えず座っているだけですがしかしこんな馬鹿馬鹿しい話こそが

フリーという自由に立ち返るにはどうしたらいいのかに接続する。

電車で地べたに座って菓子パンを食べながらスマホをいじっている学生は自由を教えてくれる。

シロクマさんがあげていた自主性に関する記事に言及すれば自主性って自由性と二アリーイコールで繋がるように感じる。リベラルのいう規範的自由ではなく純粋先天的な規範によらない自由(フリー)を取り戻すことがひょっとしたら自主性の再生に繋がるのかもしれない。

 

もう一度、自由からはじめる。

それが肝のように思った。新年だし。幼児のような自由=フリーを考えることにする。

 

 

 

無意識を縛る規範の中で語られる自由がある。おそらくはそれがリベラルのいう自由だと思う。資本主義の中における自由。民主主義における自由。休みの日の自由。

 

ある規範の中における自由。その感覚が大人になるにつれて強烈になっていき、その結果身動きがとれなくなって自主性=自由性=フリーが毀損していく。概念的にはそういう考え方が可能である。

たとえばテーブルがあり、椅子があり、その前にテレビがある。こんなありふれた環境でも自由は試される。ほとんどの人間が「椅子に座りながら」テレビを見るかテーブルで食事を摂る。

この椅子こそが規範そのものであるだろう。自主性を取り戻すにはこの椅子を概念的に、意識的に壊す必要がある。

テーブルの下にはいり食事を食べたっていい。テーブルの上に座ってもいい。テレビをテーブルの上に置いてもいい。

すべてが定型化された世界では無意識のうちにすべてが理想的配置におかれることが望まれるためその環境に人間も適応せざるをえない。無意識に。それが自主性の毀損につながるように思う。それはおそらく椅子にしか座ることができないような生き方そのものとも言える。

もう一度自由からはじめようはここにかかってくる。理想的配置のごとく理想的生き方のようなものがまだこの世界には根深く残っている。日本に限った話でもない。アメリカだってヨーロッパだって理想的人間像はある。

 

しかし電車内で地べたに座ることが悪いことではないように椅子に座らないことが悪いことでもない。自由を考え自主性を考える時には「発揮できる自由の裾や」をひろげ視点を拡張することが

 

たぶん、シロクマさんの記事への概念的な回答になるのだと思う。

 

本年も、よろしくお願いします。